goo blog サービス終了のお知らせ 

波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

今年の大学共通テスト

2023年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

 

大学共通テスト
の国語(1月15日新聞掲載)、一昨年、昨年に続きやってみる。全4問で、問1説明文、問2小説、問3古文、問4漢文は昨年と同じ。各問50点で合計200点。波風氏の成績は、問1が42点、問2が43点、問3が36点、問4が17点で合計138点。昨年の116点より少し良いが一昨年の149点には劣る。点数も関心事だがそれ以上に、「今年も若者が挑戦している奴をやってみたぜ」の満足感が残る。ただ、頭の疲れより目の疲れが激しい。途中で蜜柑食べたり、卓球したり、飴なめなめやる。途中で投げ出さなかったのがエライ、と自分を褒める。

 

やる理由は
「衰えていく頭、続かない集中力、小さな活字読めない視力への挑戦」(昨年ブログ「全国共通テストで直感力を試す」から)。だが、それ以上にやっていて面白いのが一番の理由。問1が正岡子規のガラス障子と建築家ル・コルビュジェの窓と壁の説明が面白かった。問2は小説の一節を抜粋したものだが戦後の逼迫した暮らしを読ませる。昔、この作家(梅崎春生)の『号砲(どん)』を教材に授業したが何とも言えない虚無感を表現した教材に難儀。このテスト例文の方がよほどわかりやすい。今回も現代文が8割ぐらいの点数だったので嬉しい。


古文と漢文は

いつも通り「感」と「運」で。両方とも意味はさっぱりだが、前者は日本語なので未だ感が通じ、後者は「神様の言うとおり」で記号を選ぶようなもの。正解を見て、こういうことが書いてあるのかと感心(笑)。いつものように内容的には面白い。
メガネを外し新聞に目をすりつけるように問題を解く姿は、視力の弱かった棟方志功さんが板に顔が触れるようにして彫っていたのを思い出す。


全国共通テストは、2021年のブログ「大学入学共通テスト」、2022年のブログ「全国共通テストで直感力を試す」で記事にした 漢字問題が5問(各2点)。「行った」と同じ意味を持つものを、①行シン、②行レツ、③リョ行、④リ行から選びなさい。わかるかなあ?室内卓球3日目。事前のラジオ体操(録画)で肩のあたりがズウンと重くなるが卓球やっているうちに軽くなる。歩いても脚以外が運動不足を痛感裏ブログを「昔から好きだった」で更新。

コメント

有るはずが無い

2023年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム

乗ってから
財布に入れておいた「高齢者バス乗車証」を確かめたら、無い。財布からカードを全部出して一枚一枚確認しても無いものは無い。後ろの席のママヨさんと通路挟んだ隣の席のおばさん、真昼のトランプ手品もどきを全乗客3人のうちの2人が注視していた。

家に帰り
動作は何ごとのこともないという感じで、無ければとても困る心をさりげなく隠して探す。だが無いものはやはり無い。ふと、一番あるはずのない革の免許証入れを探してみるとあった。車に乗らない時にバスに乗るのだから有るはずが無いという思い込みはあっさり覆され、昨年末に再発行してもらったクロネコヤマトのカードもあった。ここに入れた記憶が全く無いのが怖い。

認知症の兆候
だろうか、性来のウッカリなのだろうか、それともこの2つの合わせ技なのだろうか。液体洗剤のザブを冷凍庫に、いただいた名物饅頭を下駄箱にしまって台無しにしたのは60歳初頭だった。緊張ほどけてぐったりしていたら、ママヨさんが「そういうことって私もありますよ」と、お茶とカステラを出してくれた。この直後、読書交流会開催の時間を間違えてメールを送っていた。ああ、今日は13日の金曜日だもなあ、と思ったらその前日だった。


高齢者バス乗車証は70歳以上対象に1区間ならどこでも100円になるありがたい当市の福祉施策。信金と郵便局、スーパーまで歩き、帰りにバス乗車。家の直ぐ側に停車してくれ220円 親戚が送ってくれた蕎麦。身欠きを米のとぎ汁で戻し甘辛煮にして鯡蕎麦。いつもウドンだけれど、鯡の時は蕎麦だね学生時代、国語学の自由課題で、「有るは動詞で、無いは形容詞なのはなぜか」について考えを書いた。今日のブログタイトルで思い出した。昨年12/27記事の「平和は状態、戦争は過程」のことも。こういうのを未だ考えられるなら波風氏の認知状態はまだ大丈夫かな?

コメント

時間を所有する

2023年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

時間を持っている
というのが老後一番の発見。仕事や子育てで慌ただしかった若い時代、時間を動かしているのは学校・会社や家族や友人で、自分で自由にできない筆頭が時間だった。身体も動くし周りから期待され自分の選んだ仕事に没頭し、「誰かのために忙しく生きる」のが人生で、それが幸福、なんて思っていた。有効に使っても無駄に消費しても時間の価値を考えることは滅多に無かった。昭和中ごろ生まれは誰もがそんな人生観だと思う。

昨日のブログで
その「時間の所有」のことを書くつもりだったのにすっぽり抜けているのに気がついた。70歳を越えてわかったのは、自由になる時間の多さと使い方次第で機嫌よく暮らせる発見。少し前までそのイメージはあっても実感は乏しかった。長い間の時間感覚はそう簡単に変えられない。意識できる新しい「時間」の使い方は、健康状態や経済状態、住んでいる地理的条件に制約されるが、そういう枠組みをむしろ「利用して」遊び続けることが天寿まっとうの最短ルートかもしれない。その予兆は「便利は実は不便、不便が実は便利」と思い始めたことだが、あらゆるところに遊びの種(少し関わると、うわっ、こんなに面白いんだ、と発見できること)が潜んでいるものだ。

ママヨさんが焼いたパン
をお世話になった方に届けたり、卓球台を作って家の中で遊ぼうと画策したり、身欠き鯡の甘辛煮を作ってウドンに乗せて食べたり、手作りのピザソース入れる密閉容器をやっと探し当てたり、正月残りの黒豆で「黒豆入り抹茶ゼリー」作ったりするのは何かと忙しいが、これ「時間の所有」が為せるプレゼント。買った方が安く済むことも多いが丁寧な暮らしが得がたい。畑地の雪だまりに、耳が長くて目のところに明かりを灯せるウサギ雪だるまを作ってみるかなとか、春になったら卓球台の脚を作り外でも遊べるようにしたいなんて思う。


画像は、焼きたてのアンパンとクリームパン。行き先確定パンにつき波風氏の口には入らない(涙) この2年間で2人の親しかった知人が72歳で亡くなった。波風氏の年齢は「まさかの時」が来ても不思議ではないのだ今月末に読書交流会『ほんのおつきあい』を久しぶりに開催予定。当地でコロナ罹患が増えたら中止だけど。

コメント

ロウゲのイタリ

2023年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム

老いたとか
老人、隠居、引きこもり仙人なんて言葉で我が身を語る波風氏。だが、本音では「いつからが老後なんだ?」なんて思っている。何度も何度も「醤油みたいな名前の外人の俳優、誰だったっけ?」なんて聞いて、ママヨさんに「キッコーマンさんだったでしょ(笑)」と言われ、「そうそう、キッドマン、ニコールキッドマン!」に行きつき喜んだりしている。顔かたちはわかっているのに名前がわからないから指示語飛び交う回数増。

寿命は72歳だろう
と30代末から思ってきた。このブログに何度も書いたし周りにも吹聴してきた。円形脱毛症で頭の大半禿げた30代を皮切りに、肛門(40代)→胃(50代)→耳下腺(60代)の順で手術したので次は目鼻か脳あたりに病原が上がってくるはずだと怯えた(嘘だけど)。今年3月に71歳になるので、「来年もしかしたら寿命を全うできるかもしれない」と密かに喜ぶ今年の正月(これは本当)。昨年末に脳ドック受け未だ大丈夫だろうとのご宣託受け、あらためて「老後」を直視。


72歳未満のあれこれは
「若気の至り」、72歳からは「おまけの老後」とする。あと1年と少しは色々やって失敗しても「若気の至り」として自分を許す。その後は「老気の至り」ということでもっと成功確率の低いことをやってみる。いや、絶対にやっちゃう(笑)。立ち直り不可の手痛い失敗しても、本当はこの世にいなかったのだから全部許しちゃう。徹底的全面的に自分肯定で生きちゃうんだもん老人(笑)。そんなロウゲノイタリ、たまんないなあ。


厚手のベニヤ板を買ってくる。行く時にパトカー停まっていてドキドキする。車に入り切らず後ろに少し出ていたからね(汗)。食卓テーブルを脚に明日は卓球遊びだ。ネットも1390円で買ったし画像は『考えの整頓』(佐藤雅彦著:暮らしの手帖社)。『ピタゴラスイッチ』の企画・監修する方。ものごとの反応と考えの仕方、言葉が秀逸、デザイン化された哲学感じる。読み終わるのが惜しいBMIが23を時々切るようになってきたので「食べ過ぎない」とウォーキングを継続しつつ、骨格筋を鍛えることにする。

コメント

物語のセンス

2023年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

オーラを発する人
とは、波動のように心震わせる物語を醸す人。静かに佇んでいてもふとした仕草や言葉に「・・・・らしいな」を宿している。波風氏の人生上、そんな人が3人いて、すべて年長の方々だが人生の後半もやっぱり「らしい」。

1人は
このブログで何回か書いた「ごんぎつね」みたいな人。玄関先にタケノコやアイヌネギ、蕗の葉に包んだ野の花をそっと置いてくれた。パークゴルフやボーリングの驚くようなスコア表だったり般若心経の写経なんかもあった。お経をあげに来てくれたこともあった。今年は顔を見せてくれないなあと思っていたら、山菜採りに行って倒れ入院したとの報。入院先から電話いただいたが、その後に当地を離れ、年末に家も壊しきれいさっぱりと更地になっていた。何度かハガキを出したが返事はなかった。この始末のつけ方が実に「らしい」。「こうしたい」と思い行動に移し成果を上げることにかけて、この人ほど面白くて見事な物語を持つ人を知らない。

もう1人は
波風氏の人生に多大な影響を与えてくれた恩師。年末にいただいた手作りのカレンダーと羊羹。そこに、ご夫婦共々病気で身体が思い通りにならず「日常のおつきあい等を今後少なくして、静かな生活にて過ごすことを考えています。具体的には、未だ決めておりませんが・・・・」とあった。「絵でなく教師として生きようと思ったのはなぜですか?」とたずねた時、「少しぐらい絵が上手いと褒められてもプロにはなれない。そんなことよりも自分は良い先生になりたかった」と答えてくれたのが忘れられない。こちらはいつまでもおつきあいし続けますと、ホタテを送った。

お2人は
大勢の方に強い印象を与えてくれている。長く語られるべき物語を持っているからで、当然ずうっと元気でいて欲しい。今回、やっぱりお人柄だなあと思う老後のあり方を教えて貰った気がする。何も語らなくても、言葉で表現されても。波風氏が今年の書初めにした「慎ましく」は、老いるほど「真の心」として深めていくべき価値なんだろうなあ、処世術や人間関係の技術ではなく。


昔上司だった先輩が年末に亡くなられた。だが彼を知っている者は誰も彼の話なんかしない。嘘と虚栄の自分を主人公にした物語を自分で書き続けた恥ずべき人のことなんか  久しぶりに読む詩集『食卓一期一会』(長田弘著)。美味しそうな料理の香り、色、音で生きる喜びを感じる詩66編。「きみはきみのイワシを、きみの 思想を きちんと食べて暮らしているか?」(「イワシについて」の一部)なんて、ドキッとする香辛料も忘れない。

コメント