願うとは自らが欲することを何者かに訴えることで、祈るとはその何者かの声を聞くことだと、本にあった。老いるとちょっとした言葉が妙に気になることが多くなるが、たいていは長くても2、3日で忘れる。だがこれは、1ヶ月以上も頭を離れない。
4年前に読んだ別の本で、信仰の無い「祈り」を考えることがあった。祈りとはひたすら「集中」することであり、大切なのは集中することを生きる習慣とすることとあった。そして集中するとはあるものに対して注意を深く傾けることであり、注意力が最も純粋な祈りだと、同語反復みたいだが、世の宗教と無縁に、信仰と所作があり得ることに立ち止まった。新鮮かつ長く望んでいた心の置きどころとして。
大江健三郎の小説とエッセーは、希望と祈りの文学だったと思う。この作家はそれを職業としてだけでなく、実生活と思想でも誠実に体現して逝かれた。若い頃はここを理解できなかった。小説とそれ以外の言葉のあまりの違いの理由が半世紀前21歳の卒論テーマだが、開く頁ごとの性と暴力と縦横に疾走する驚くような詩的表現に惑わされ、読後の不思議な希望が実は「祈り」から来ていることに考えが及ばなかった。
引用した最初の本は若松英輔『悲しみの秘技』、4年前の本は大江健三郎『燃え上がる緑の樹』。願うことと祈ることの意味は、この先も、いや老いるほど必需品になるはずだ 画像はスギサキマサノリ作『祈り』の彫刻。手の平に乗る小ささを感じさせない。願いは浅く日々のことごと、祈りは生き死にに及ぶことがらだと思う「祈る」人とは困ったことを相談できる、集中して聞いてくれる人。