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子供のリクツ、社会のウソ、コンナノリフジン?


学校教育における道徳や倫理では、差別を戒めるよう教えられ、
「話せば分かる」などと、簡単に言う。
もしくは…、
「これまでの誤解や、わだかまりは忘れ、まず心を開いてみようじゃないか」
・・・と、言うものもある。

どちらも、もっともらしく聞こえる言葉だと思う。
しかし、所詮は、他人事でしかなく。
こんな言葉は、自分とは関わりないことだから言えるもので、
タワゴトでなければ、悪意ある“大ウソ”にも聞こえる。
当たり前の話だけど、どちらも現実に即してなく。
「話せば分かる」などという言葉を真に受けて、
無防備(バカ)な行動(マネ)をすれば、“袋叩き”にされてしまう。
このような哀れな(愚かな)犠牲者に目を向けようとしないのは、
もちろん学校教育だけではなく。
暴力や差別を正当化するような間違った認識は、組織社会にも存在します。
…と、あるレポートの、出だしに、こんな文章を用いたところ。
かなり揉め、“ここを削除しろ”となったことがあった。



(こちらは過去の記事からの画像⇒)

世間知らずの子供を相手にするのとも異なり。
まるで理解力のない大人に対して、
何が正しいことなのかを説明していくのは、かなり難しいときがある。
ほとんど恫喝や脅迫としか思えないような行為が、
正当化できると思い込んでいるものを、相手にしたときもあり。
その悪質さには、思い出しても気分が悪くなる。

学校教育において、社会への不信にもつながる“いじめ”は、
根絶すべき本当の敵のハズだけど。
組織社会の縮図とも言える学校では、おかしな同調圧力が働くときがあり。
問題解決を拒絶する雰囲気まで感じるときがある。

「何も聞く気もなければ、伝えることもない」
他人との話し合いなど拒絶しているのだから、
「(話すまでもなく、理解する気はないのだから…)話せば分かる」は、
ある意味、ウソではないのかも知れない。



それにしても…。
大人や社会が、小うるさいことを言ってきたとしても、
詭弁を用いれば、黙らせることは出来るのだという成功体験が、
何をもたらしてしまうのか?
ちょっと考えれば、分かりそうなこと。
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