ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

北の国に帰る

2022-12-14 21:25:00 | Weblog



12月13日

 何と一月半もの間、このブログに新しい記事を書かないままに、放っておいたことになる。
 最長不倒距離の記録が書き替えられたのだと、はやし立てている場合ではない。
 ただただ、自分の不徳の致すところなのだから。
 病院に入院していた時でさえ、これほど間を空けたことがなかったのに。
 まさに、ぐうたら、怠惰(たいだ)、怠慢(たいまん)、怠廃(たいはい)の極みであり、申し開きすらできない私の無責任さの証左でもあるのだが。

 と、いくら自分自身をそしり責めたところで、元来がムチで叩かれることを喜ぶ、悪霊に取りつかれたマゾじじいの気があるゆえに、なおさらのことで、カイコの繭(まゆ)ごもりのごとくに、自分を守る糸を吐いては、生来の出不精も重なり、相変わらずに閉じこもるだけの、毎日が続いていただけのことでして。

 しかし、本人が元気でいて、それで静かに穏やかに暮らしているのだから、このままでよいと申しておりますれば、この怠けぐせをご理解いただいたところで、一件落着として幕引きさせていただきたく、お願い申し上げ奉(たてまつ)りそうろう。チャンチャン。

 さて、まずはこの一か月半のことを簡略化して、書いていくことにする。
 まずは、前回の記事のすぐ後から2週間ほど、北海道は十勝の”ポツンと一軒家”である、わが家に戻っていたのだが・・・レンタカーで、帰って来てみると、ぼーぜん!あぜん!前田大然!(まえだだいぜん、W杯スペイン戦でワントップのフォワードとして敵陣深く入りキーパーにまでプレスをかけていた。)
 なんと辺り一面、背丈より高く草が生い茂り、クルマも入って行けないほどの、原野状態になっていた。
 そのクルマが入る道の草刈りだけでも、二日もかかった次第。
 つまり、今回の一年ぶりの帰宅は、家の掃除と補修のためだったのだが、相変わらず井戸が干上がっていて、水は隣の(といっても数百メートル離れた)農家からもらってポリタンクに入れて運んで、何とか洗い物用にしてしのぎ、雨が降った時には、軒先にバケツを並べて用水に利用した。

 トイレは、家の前の辺り一面が、スコップ地堀式の”野ぐそ“用フィールドになっていて、周りの草むらの虫に注意して尻を出し、はい、シュート!
 しかし、こんな原始的なトイレで毎日はイヤになるから、通っていた公共浴場のウォシュレットでしたかったのだが、”たぬきのためグソ”と同じで、場所が変わると緊張して出なくなる、意外と繊細な神経の持ち主のタイプで。全くなんのこっちゃ!

 まずは家本体は、丸太組みだから心配はないのだけれど、何度か地震があったようで備品が倒れているし、電気をつけていないカビだらけの冷蔵庫の中も、くまなく掃除して、期限切れの食品も整理処分しなければならない。なにしろ、一年も不在にしたのだから。
 家の中も、ヘビのヌケガラが垂れ下がり、越冬バエが入り込んでいて、その数おそらく千匹近く、掃除機で吸い取るには限りがあり、仕方なく殺虫スプレーで一網打尽(いちもうだじん)にして、一日何回も掃除機をかけて何とか片づける。
 外に出ては倉庫などの小屋の補修をして、さらに屋根にたまった枯葉などをかき落とす。
 ブレーカーは落として通電していないから、電気代は基本料だけで安くていいとしても、固定電話の方は月額が高いから外してもらった。
 などなどと片づけをしていると、あっという間に日々は過ぎていく。
 
 しかし、その合間合間に見える日高山脈の山々に、その朝夕の姿に、いつも見入ってしまう。
 冒頭の写真は、南に遠く離れた楽古岳(らっこだけ、1472m)の夕景の姿であり、あの”北の国からの”主題歌が聞こえてきそうな眺めではある。
 そして、このころはちょうど日高山脈の山々が、雪に覆われる時期であり、朝のモルゲンロート(朝焼け)に染まり輝く姿も素晴らしい。
 下の写真は、左に1823m峰、右に1903m峰を従えたカムイエクウチカウシ山(1979m)の雄姿である。これだから北海道はやめられないのだ。


 ・・・とここまでを、10日ほど前に書いていたのだが、W杯日本戦などに気をとられ、その他の小さな用事や仕事も重なって、またもや大休止がさらに続くことになってしまったのだ。
 ただただ、ぐうたら、怠惰(たいだ)の極みとも言うべき情けなさである。
 ”怠惰はメンタルヘルスの問題というよりかは習慣に問題がある”(Wikipediaより)とのことであり、まさにその通りであって、返す言葉もない。

 というわけで、とりあえず、残りの北海道滞在について書いておこう。
 トイレは外で穴掘り式、水はポリタンクにもらい水でけちけち使い、家の五右衛門風呂にも入れずに、全く快適な生活は送れないのだが、それでも家の周りの自然の景観は素晴らしい、と今さらながらに思うのだ。
 しかし、そのカラマツ林の手入れもしなければならない。
 倒木や傾いた木など数本は、チェーンソーで切り倒して、家の補修部材や薪用にするべく切り分けていく。
 そして振り仰ぐと、このカラマツ林の中で大きく育ってきたモミジ、カエデの樹々が、青空を背景に、貼り絵のように鮮やかに照り映えている。(写真下)
 生きていて良かったと思う、ひと時の眺めだ。



 遠くに見える山々や、目の前に見える樹々・・・こうして自分の五感を働かせて感じ取り、味わい楽しむこと。それこそが、今ここに生きている、という幸福感につながるのだろう。
 私は、東京にいた時から、いつかは田舎に住んで、もっと多くの色々な山に登りたいと思っていた。
 それを実現させるために、いくつもの大きな決断をして、一人で実行してきた。
 確かにすべてを一人で背負い込めば、それだけ労苦も多くなるし、失敗しても誰かのせいだと転嫁はできない。
 失敗は、あくまでも自分の力が及ばなかったからである。
 しかし、成功した暁には、独力でやり終えた満足感に満たされることになる。
 それこそがまさに、私の独りで山に登るという、登山スタイルそのものの姿でもあるのだ。

 山中を一歩一歩と登って行くごとに、少しづつ変わっていく景色があり、そのおごそかな大自然の中に包み込まれていくような感覚になる。
 そして、私は今ここにいるのだと実感することで、自分の生きている時間を、より意味のあるものとして味わうことができるようになるのだ。
 つまりそれは、山という自然の中にいて、登山という、緊張と疲労感の行動の繰り返しによって、ある種のぼうぜんとした、小さな恍惚感(エクスタシー)を感じていたからのことなのだが。(クライマーズ・ハイとでも言うべきか。)

 思い出せば、これまで晴れた日を選んで登り続けてきた、日本の山々にありがとうと言いたい。まだまだ登り残した山々がたくさんあるけれども・・・。
 思い起こせば、若き日に見た、ヨーロッパ・アルプスの山々にもありがとうと言いたい。それらの山々をめぐる、10日間のトレッキングの山歩きの間、奇跡的にも毎日晴れた日が続いてくれたこと。(ヒマラヤには行けなかったけれど、まあテレビ画像でも十分だからと負け惜しみ。)

 しかし今、私はいつ転移再発するかもしれない病を、体の中に抱えている。
 それで、3か月や半年に一度、詳しい検査を受けなけねばならないが、本当のところ、あまり私は病状を気にはしていない。
 最悪の場合には、痛みだけをおさえるべく処置してもらうだけでいいと思っている。延命手術も治療もごめんだ。
 そしてただ、黙々と下を見て歩む一匹の羊のように・・・私の逝くべき道を、たどって行くだけのことだ。

 誰でも、幸せ半分、不幸せ半分の人生なのだから、後はそれをどう判断するかだ、それが幸運だったのか不運だったのかと。
 私はいい人生だったと、自分に言い聞かせることにしている。その思い込みだけで、幕引きの時が近づいている自分の人生を、幸福な思い出でいっぱいにできるからだ。

 今回の北海道は、わずか2週間の滞在だったが、何人かの友達や知人たちとも会うことができて、うれしかった。
 やはり、友達とは元気な顔を見て話しをするのが一番だ。互いの間に、1年という空白の期間があったとは思えないほどで。
 ただ彼らの身の回りでも、確実に新型コロナの感染が広がっていて、あの人もあの人もという感じで名前が上がってくる。もちろんやがては、このコロナも風邪の一種類に数えられるようになって、収まってはいくのだろうが、今はまだ道半ばで、一足早く冬が来る、北海道での蔓延(まんえん)ぶりを目の当たりにした感じだった。

 私は、北海道に行く前に、オミクロン対応のワクチン注射をすませてはいたが、飛行機の中、空港ターミナルでは気をつけて、なるべく後の人の少ない所に座るようにしていた。
 私のような持病もちの年寄りは、なおさらのこと、重症化したら致死率は高くなるし、覚悟して旅行しなければならないということだ。(もっとも、機内外ともまだ人は少なかったが。)
 ともあれこういう時は、”君子危うきに近寄らず”と言うのが、もっともな警句になるのだろうが。

 それにつけても思うのは、ローマ時代の哲学者セネカ(BC4~AD65)の言葉である。

 ”人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。”(「生の短さについて」セネカ 大西英文訳 岩波文庫)

 長くなったので今回はここまでだが、まだまだ2か月分、書くべきことはいろいろとある。年内には残りのことを書いてしまわないと、年をまたいでしまう。これ以上、怠惰の罪は重ねられない。