4月18日
春らしい、良い季節になったものだ。
さわやかな青空が広がり、吹く風は心地よく、枯れ木の林の中に新緑の木が一本、鮮やかに見える。
私は、ゆっくりと歩き、坂道を上って行く。
相変わらずに、痛めたひざの様子が気にはなるのだが、それでも歩いたほうが良いとのことなのだ、ひざのためにも、自分の心のためにも。
ヤマザクラの花びらは散ってしまい、代わって、濃い桃色のヤエザクラの時期になっていた。
足元には、黄色いタンポポやニガナの花が咲き始め、地面をはうようにして、キランソウの紫の小さな花も咲いているし、生け垣に植えられている、ドウダンツツジには、びっしりと白い花がついている。
今まで枯れ草色だった斜面には、はっきりと緑の草が目立ち始めていて、その向こう側の葉を落とした枯れ木の林にも、いつしか鮮やかな新緑の木々が増えてきていた。
確かに、春が来たのだ。
誰の言葉だったか、今、”春の山は笑っている” のだ。
遠くに杉林があり、その境の所に、新緑の赤茶色の葉が目立つヤマザクラの木があり、そこから続くまだ枯れ木のままのコナラ、カシワ、ブナなどの林の中には、モミジ、カエデ、カツラ、ハルニレ、サワグルミなどの木々があって、何とも鮮やかな新緑の葉をつけている。(写真上)
そして、どこかの枝先から、早くも夏鳥であるオオルリの澄んだ鳴き声も聞こえてきた。
私は、傍らの石の上に腰を下ろして、ぼんやりと時を過ごした。
前回書いた、あの何人もの人たちの”最期の言葉”が、脈絡もなく浮かんでは消えていった。
生きているということは、確かに”存在と時間”の関係の中でこそ、より強く意識されるものかもしれないが、流れゆくことをやめない”永遠持続的な時間”の中で、私たちは、決して永遠でも持続的でもあり得ず、結局は記憶の断片として残る時間の中で、刹那(せつな)的に生きるほかはないのだろう。
とすれば、動物的な、本能に近い直観的な刹那への行動は、それこそが生きるということなのかもしれない。
もちろんそれは、己の欲望のままに野放図(のほうず)に許されるものではない。
動物たちに群れのルールがあるように、たとえ一匹にでも種族の掟(おきて)があるように、まして社会の中の一人である私たちは、その公序良俗を守る社会規範の中で、それぞれに自分なりの楽しみを見つけては、そのために行動を起こし、”刹那”の喜びを求めて生きているのだろう。
それが、自分のためであれ、他人のためであれ・・・。
4月14日、午後9時半、熊本で大地震が起きて、その震源地からは遠く離れたわが家周辺でも大きく揺れて、震度4。
それで終わりだと思っていたのに、4月16日、午前1時半。
暗闇の中、すべてのものが大きく揺れていた。私は、半分はまだ夢の中にいるように、周りのものが倒れ、あるいは動いている音を聞いていた。
今までに経験したことのない、家ごとに大きく揺れている感じで、やっとそれが大きな地震だとわかり、目を開けることもなく、寝たままでぼう然としては、激しい揺れの中で、もうこのままでいいとさえ思っていた。なるようにしかならないのだから・・・。
さしもの揺れも、ほぼ30秒くらいで収まった。
枕もとのスタンドのスイッチを押すと、ありがたいことに停電していなくて灯りがついた。
自分の部屋とは思えないくらいで、床が見えないほどに物が散乱していた。
本棚、棚など家のすべての戸棚類は、もうずいぶん前から固定金具をつけて留めてあり、それらが倒れることはなかったのだが、その代わりに、中に入っていたものの多くが飛び出してきては、あたり一面にぶちまけられていたのだ。
何とか足の踏み場を見つけて立ち上がり、部屋から出ようとするが、ドアが少ししか開かない。
大きな揺れで、上の棚がせり出してきて、ドアの前をふさいでいたからだ。
何とか体が通れるだけ開けて、居間や他の部屋や台所などを見て回るが、棚などは倒れていないにしても、その開き戸などが開いて、中のものがすべて飛び出してきていたのだ。
コンロの上にのせておいた、水の入ったやかんが倒れてあたりは水浸しになっていたし、さらに陶器類やガラス鍋のいくつかが壊れ、長く愛用していた魔法瓶の内部が粉々に割れては転がっていて、電子レンジの耐熱強化ガラスの中皿も飛び出しては、真っ二つに割れていた。
さらに冷蔵庫も勝手に扉が開いて、中のものが飛び出していて、ここでも台所のドアにひっかっかて、その冷蔵庫のドアが閉められずに、警報音が鳴りっぱなしだった。
ただありがたいことに、まだ電気は来ていたからテレビをつけてみると、”熊本益城町で震度6強、マグニチュード7.3”(14日の地震の8倍の大きさで、気象庁は後になって、こちらが本震だと訂正した)、そして、その震源地からはずっと遠く離れたわが家の周辺でも震度6との表示が出ていた。
(またしても、以下の文章で、誤って他のキーを押してしまい勝手に字体が変換されてしまった。元に戻す方法も分からず、そのまま書き続けることにしたが、別に他の意図はない。)
さらに、その後も震度4以上の余震が繰り返し起きては、そのたびごとに身構えたりして、心落ち着かずに、しばらくはテレビニュースを見続けていたが、停電になってようやくテレビのそばを離れた。
わずか3時間足らずしか眠っていないこともあって、とりあえず寝ることにしたが、その前にまだ水道の水が出ていたので、大きなペットボトルとやかんに水を入れて備えておき、枕もとにライトとラジオを用意して、服を着たままベッドで横になった。
そうして寝たのは4時過ぎだったが、それからも家がギシギシと揺れる震度3以上の余震が何度も続いて、さらには震度4以上の余震も起きて、とうとう目をつぶっていただけで一睡もできないまま、7時半ころにはあきらめてまた起きてしまった。
睡眠不足のぼんやりとした頭で、停電から回復していたテレビで、地震情報を見続けていた。
ただ、日ごろから買い置きしている食料品はたっぷりとあり、それで簡単な食事をとっては、夕方までかかって家の中を片づけた。
その間、ずっと家がガタガタ揺れる震度3くらいの余震は、ほぼ絶え間なく起きていて、ウトウトしていてもすぐに目が覚めるほどだった。
今回の地震で何がつらいと言っても、本震のあの強烈な揺れはともかく、この間断なく起きる震度3以上の余震の揺れほど、心落ち着かなくなるものはない。
今まで、あの中越地震や、有名な松代の群発地震のニュースなどを見ては、大変だろうとは思っていても、現実に自分の身の周りで起きていることではないし、どこか他人事のようにして見ていたことが、今になってわかってくる。
つまり、事件に遭遇して危険が自分の身に及んで初めて、その恐怖におののき、その大きな被害に気づくのだ、物質的なものだけではなく、それ以上に精神的な被害をも。
いつも書いていることだが、アフリカの草原で、一頭のヌーがライオンに襲われ食べられているのを、遠巻きにして見ているヌーの群れのようなものなのだ。
何度見聞きしても、結局は自分の身に降りかかって初めて事の深刻さに気づくものなのだ。
生きものとして動物としての一個体である以上、それは当たり前のことであり、理性ある人間として、悲観するほどのことではないのかもしれないが。
さらに1日たっても、まだ突き上げ揺さぶるような震度3以上の余震が続いていたが、ようやく午後以降にはその数が少なくなり、2日目の今日は、思い出したように震度2から3にかけての揺れがあるくらいで、だいぶん落ち着いては来たのだが、とは言っても、ペットボトルやヤカンに水をためていた分はすぐ使い切ってしまい、水道はその後で断水したまま復旧していないし、近所の井戸水を分けてもらって何とかやりくりしているが、もちろん風呂にも入れないし、こんなことになるのなら、あの不便な北海道の家と何も変わらないではないかとも思う。
そして隣近所の家の被害もわかってきたが、中には、大きなガラス戸が割れたところもあるし、屋根瓦が動いているところもあり、傾斜地に作っていた駐車場が壊れかかっているところもあるし、さらには大きな直径1mもある石垣の石が道路の真ん中に崩れ落ちてきている所もあり、幸いにも人やクルマが通らない真夜中で良かったと思う。
18日現在で死者42人、重傷者だけでも500人以上、全壊家屋950戸被災家屋3000戸、避難者10万人以上。
かくも壮絶を極めている地震だけれども、昔から日本ではこの地震の被害について、繰り返し語り継がれてきたことでもあり、様々に記録として書き残されているが、このブログでも取り上げることの多い、あの鴨長明の『方丈記』の中にも詳しく描かれていて、その平安時代は1185年の大地震についての一節から。
「・・・おびただしく大地震(おおなえ)振ること侍(はべ)りき。
そのさま、よのつねならず。山は崩れて河を埋(うづ)み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろびいる。
・・・在々所々、堂舎塔廟(どうしゃとうみょう)一つとして全(また)からず。或は崩れ、或は倒れぬ。・・・家の内におれば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。・・・。
かく、おびただしく振ることは、しばしにて止みにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震(なえ)、二三十度振らぬ日はなし。
・・・。なお、このたびにはしかずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなき事を述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言い出づる人だになし。」
(鴨長明 『方丈記』 日本古典文学全集 小学館)
まあ、そんな日々だからこそ、かわいい孫娘AKBの子たちの姿をテレビで見たくなるし、歌声を聞きたくもなるというものだ。そこでいつものAKB関連の話だが。
テレ朝の”ミュージック・ステーション”で、博多HKTが「47億分の1の君へ」という新曲を披露していて、その前に熊本出身のメンバーの子が、地震についてファンの皆様へと挨拶していた。
さらには、16日の大地震が起きる前の深夜には、いつもの”AKB48SHOW”の代わりに、久しぶりに”乃木坂46SHOW”があって、深川麻衣の卒業曲「ハルジオンの咲くころ」と、妹分のグループで今人気急上昇中の”欅坂(けやきざか)46”のデビュー曲「サイレント・マジョリティー」が歌われていた。
AKBグループの総合プロデューサーであり、作詞家でもあるこの秋元康の歌詞については、今までここで何度も書いてきているが(2月22日の項参照)、AKBのあの前総監督高橋みなみの卒業曲「Be My Baby」や、その次の”さくら”をセンターにした「君はメロディー」にしろ、このHKTの「47億分の1の君へ」にしろ、あまり深い内容はないアイドル曲にしか思えないのだが、一方で”乃木坂”の「ハルジオン」とさらにこの”欅坂”の「サイレント」には、こういう言い方は良くないのかもしれないが、この二つのグループに対する時の、彼の作詞に向き合う姿の違いが感じられるのだ。
この新曲CDの売れ行きが良いから言うのではないが、この欅坂の「サイレント・マジョリティー」の歌詞には、その裏に(18歳選挙権への)メッセージ性までも込めていて、久しぶりの力作だという気がするし、このまま紅白で歌われても恥ずかしくない曲だと思う。
そして、相変わらずAKBの情報サイトを見ているのだが、その中にこんなスレッドが立ち上げられていた。
「4月15日、22:55(以下原文のまま)
”死者9人程度の地震でどうこういう偽善メンバーが嫌い”
”日本では一日当たり15人が交通事故で死に100人が自殺し1000人がガンで死んでいるんだが、いまだに木造建築に住んでいるような老人が9人死んだから何”」
そして、このスレッドにたいしては、大きな反響があって、多くの書き込みがされていたが、その中には”正論だし、言っていることはよくわかる”といったたぐいの、共感する書き込みが多くあったということだ。
さらに、しばらく前のことで、ここでも取り上げたことがあるが、高齢の夫が、認知症の妻の介護に疲れて殺した、という事件が相次いで起きていたのに(2月29日の項参照)、ネットの”ヤフー・ニュース”では、”老人天国に若者の自殺増加”という記事が載っていた。
私はそうした若者たちの意見に、今さら何かを言い返すつもりはない。君たちの時代なのだから、好きにやればいい。
ただ私は、残りの余生を、このまま彼らの目の届かない田舎に住み続けては、彼らの目の届かないような所で死んでいきたいと思っているので、どうかお目こぼしをとお願いするばかりなのだ。
今になって思い返すのは、当時、他にも数多くの諸悪はあったとしても、私たちは、正義が大声で叫ばれて尊ばれてきた、古き時代の香りを残す、良き時代に生まれ育ったということだ。
「 ・・・。
私は私の道を行きます、
子供たちに冷笑されながら、
頭を下げて通る重荷を背負った驢馬(ろば)のように。
あなたの御都合のよい時、
私はあなたのみ心のままのところへまいります。
寺の鐘が鳴りまする。」
(フランシス・ジャム 『ジャム詩集』より 堀口大学訳 新潮文庫)
このブログを書いているさなか、午後8時40分、またしても震度5.どうなるのだろう。