3月3日
この冬の間、特に厳冬期の1月下旬から2月にかけて蔵王に行くために、ずっと山形の週間天気予報を注意して見ていた。
山形は、東北地方を縦に二つに分ける奥羽山脈の西側にあり、盆地地形とはいえ、裏日本型と呼ばれる日本海側の天気の影響を強く受けて、冬の間は天気に恵まれることは少ない。
それでも、一日や二日、雪が止み風が止み、青空が広がる日があるはずだ。
晴れのマークが半分の日では、山では天気の急変が考えられるから、安心はできない。ぜいたくを言えば、一日快晴であってくれるような日があればいいのだが。
そんな晴れの日が続くような、大きな高気圧がやってくるその日を、私は待ち望んでいた。
長い間、私はあの巨大な”アイス・モンスター”と呼ばれる樹氷を見てみたいと思っていた。
有名なのは、八甲田と八幡平(はちまんたい)と蔵王であるが、交通の便が良く行きやすいのはやはり蔵王である。
まず山の地図を買い、テレビで冬の蔵王の番組を見たり、さらにネットでいろいろと調べては、その日が来るのを待っていた。
できれば、樹氷の最盛期である2月中旬までには行きたかったが、しかしここまで晴れマークが出てもせいぜい半日でしかなかった。
月日は過ぎゆき、もう樹氷も終わりに近づき、今年は諦めるしかないのかと思っていた。
ところが、この2月の下旬に、ともかく三日続いての晴れマーク(前後は小さい晴れマーク)が出たのだ。
西から張り出してきた高気圧が、上を通って行くのだ。キャッホー。
前日まで待って、天気予報が変わらないことを確かめて、次には宿の予約を取らなければならない。
いつも一人で行くから、宿取りには苦労するのだ。宿にしてみれば、一部屋に一人という効率の悪い一人客なんか、あまり泊めたくはないのも当然だ。
幾つかの宿をネットで調べてみたが、すべて満室であり、仕方なく山形市内などのビジネス・ホテルなども探してみたのだが、平日なのにすべて満室。なんじゃ、こりゃー・・・。
そこで、蔵王温泉の観光協会に電話してみると、何と日曜日まで蔵王で冬季国体が開かれていて、おそらくはその関係者たちがまだ滞在している影響ではないかとのこと。
ともかくどこでもいいからと宿を頼むと、いつも私が泊まるような安宿ではなく、少し高い価格設定だけれども二軒紹介してくれて、そのうちの安いほうを選んで電話して、やっと予約を取ることができた。やれやれだ。
出発の日の朝、翌日の山形の天気予報は、一日晴れの大きなお日様マークがつけられていた。もうこれ以上、何を望むことがあろうか。
ただし、すべてが思い通りになるとは限らない。楽しみにしていた福岡―仙台便の飛行機からの眺めが、確かに中部地方の天気予報は良くなかったのだが、その通りに下界は雲に覆われていて北アルプスも南アルプスも富士山も見えなかったのだ。
わずかに、去年登ったあの伯耆大山(ほうきだいせん、’13.3.12,19の項参照)と、仙台に近づいたころに雲の間に、飯豊連峰の一角が少し見えたのがせめてもの慰みだった。
飛行機は、仙台空港へ海側から入って行く。その海岸線に残る、あの大津波の跡・・・。私には手を合わせることぐらいしかできないのだが・・・。
そして、仙台空港線の電車に乗ってわずか30分余りで仙台に着く。
乗り換えの時間があったので、駅前に出てみると、久しぶりに見たのだが、高層ビル街が続いていて、震災にも負けない拠点都市としての力強い賑わいぶりを感じた。
それは、東京に名古屋そして大阪といったいわゆる三大都市圏の他に、さらに離れた地方にある北海道の札幌やこの東北の仙台さらには中国地方の広島に九州の福岡などの、こうした地方拠点都市の発展ぶりを見ていると、長期低落傾向の日本などと言われてはいるが、依然変わらぬ日本経済のたくましさも感じてしまうのだ。
私は、こんな大都会には住めないけれど、何か巨大なエネルギーを感じる都市の街並みを見るのは、なかなかに興味深いものがある。
仙台から仙山(せんざん)線に乗り換えて、山形へと向かう。
仙台の街中でも、まだ道路わきには雪が残っていたのだが、電車が奥羽山脈に向かうにつれてさらに雪は深くなってきて、1mから2m近くもあった。その雪は、面白山(おもしろやま)のトンネルを抜けて山形側に出ても変わらない。
国境の長いトンネルを抜けても、雪国は続いていたのだ。
しかし、先ほどから気になっていることがあった。家の屋根の形である。
前回、雪国の屋根の形について書いたのだが、ところがこのあたりの家は、軒を接した街中でもないのに、雪をいっぱいに乗せた勾配のゆるい屋根が多いのだ。
もちろん三角屋根の家もあるのだが、新しい家なのに、なぜにこんなに勾配がゆるいのか。
ふと気づいたのは、その雪を乗せたその屋根の姿である・・・そうだ、雪の断熱効果を逆利用しているのではないか。
このあたりでは、北陸・東北の日本海側の豪雪地帯ほどには数メートルもの雪にはならないから、せいぜい1mぐらいまでだとすれば雪おろしをする必要はない。
だから雪を乗せておいてもいいのではないか、雪が積もっているおかげでそれが断熱材の役目も果たして、屋根から逃げる熱が抑えられて、むき出しの屋根の家より家の中は温かくなるのではないか。
昔から写真や絵でよく見た、北国の光景だが・・・丸くふかふかの雪が、家の麦わら屋根や木々の上に降り積もっている。
つまり、家がしっかり雪を支えられるように作ってあれば、雪はそう邪魔なものではなく、むしろ家の中の熱を逃がさないものとして逆利用できるのだ。
それは、冬山で雪洞(せつどう)を掘って、その中で寝泊りすれば、外にテント張るよりも暖かいのと同じような理屈だ。
ところで後日談なのだが、建築関係の仕事をする私としてはいささか興味深いところであり、山から戻って改めて北国の屋根について調べたところ、これはそう言えば昔からあったのだが、平坦な屋根や、ゆるやかなV字屋根にして、熱で溶かす無落雪屋根から、最近では新しく屋根の形状に変化をつけて、棟の部分に仕切り板をつけて雪を滑り落としやすくしたものや、カラートタンの屋根を横方向に葺(ふ)いていって、その境目が段差になり、溶けた水の通り道になり、つららができにくくなり、さらには雪おろしの時の足がかりとなって滑りにくくなるというものまで、様々な屋根の形があることが分かった。
雪国の人は、屋根に降り積もる雪の対策を、いつも考えているのだ。
さて山形駅に着いて電車を降り、次に蔵王温泉行のバスに乗る。
このバスは、スキーヤーや観光客のためだけではなく、山形の町へと通勤通学や買い物などで日々往復する人たちの大切なバスでもあるのだ。
バスは山へと一気に上っていくのではなく、ゆるやかに上がって行くから分からなかったのだが、しばらくすると車窓遠くには、ずっと下になった山形盆地の広がりが見えていた。
道はきれいに除雪されていて、道の上に雪はなかったが、両側に続く雪の壁は1m以上にもなり、雪深い地に来たことが感じられる。
終点の蔵王バス・ターミナルに着き、反対側からスキーやスノーボードを抱えた人たちがやってきてすれ違い、さらに雪がちらつく中を宿まで歩いて行った。
安宿泊りの私としては、いささかぜいたくな宿であり、おいしい夕食をいただき、乳白色の温泉につかり、暖房のよく聞いた10畳もある広い部屋に一人寝て、いい気分だった。ただ明日の天気だけを期待して。
翌朝、日の出前の6時には起きて外を見たが、何と曇っている。
朝焼けの光景は、どのみちここからはちょうど反対側になっていて見られないのだが、それはいいとしても、気がかりは空模様だ。
ロープウエイの始発時間は8時半だが、8時に行ってみると、もう駐車場はいっぱいで、切符売り場に人が並んでいた。
こうして天気が良くて、待っている人が多い時は早めに、ロープウエイを動かすそうだ。
おかげで2便目の8時10分くらいには、そのぎゅうぎゅう詰めのゴンドラに乗ることができた。スキー板を持っている人は少なく、ほとんどは軽装の観光客か私のようなトレッキング客だった。
心配した雲は、低い所にかかっているものばかりで、上空には掛け値なしの見事な青空が広がっていた。
この瞬間ほど、私の期待の胸がふくらむ時はない。
ブナ林の霧氷がきれいな樹氷高原駅で降りて、次には十数人が座れるゴンドラに乗り換えてさらに上がって行く。
斜面に立ち並ぶクリスマスツリー風になった、アオモリトドマツの林が、やがて少しずつ、氷雪の塊になったアイス・モンスターに、樹氷へと姿を変えていく。
逆光の朝の光線の中で、輪郭のはっきりした氷雪の群像が立ち並ぶさま・・・それは思わず立ち上がり、声をあげてしまうほどの、大自然の力が作り上げた壮大な眺めだった。(写真下)
実は後になって思い返してみると、このロープウエイからの眺めこそが、そして地蔵山頂駅の駅舎屋上からの光景とともに、山形蔵王側の樹氷群を見るにはベストな場所だったのかもしれない。
その山頂駅に着き、アイゼンをつけて歩き出す。
今回の冬の蔵王を歩くについて、一番いいのは山スキーなのかもしれないが、私にはまだまだ初心者の腕前でしかなく無理だから、それならスノーシューかワカンで行けばいいのだろうが、私はコースを外れて歩き回るつもりはなかったし、人々が多く歩くトレッキング・コースならむしろ固くなっているだろうからと、アイゼンだけを持ってきたのだが、それで正解だった。
山スキーは、この後たどって行った刈田岳(かっただけ、1758m)では10人位もいたのだが、この地蔵山から熊野岳までは一人見かけただけだった。
つまり、この地蔵山から熊野岳さらに刈田岳までの冬山トレッキング・コースでは、スノーシューやアイゼンの登山者が殆どだということだ。
私は出かける前までは、山スキー・ツアーの人たちばかりで、歩きだけの人は少なく、少し肩身の狭い思いをするのかと思っていたのだが、それは杞憂(きゆう)にすぎなかったのだ。
人々は、目の前に樹氷が立ち並ぶ地蔵山(1736m)斜面へと点々と登り始めていたが、私はまず反対側にある三宝荒神山(さんぽうこうじんやま、1703m)へと向かった。
こちらには二三人が見えるだけだった。固くて歩きやすいシュカブラだらけの斜面を登って行くと、10分足らずで頂上に着いた。
そこからは、地蔵山から背後の蔵王の主峰である熊野岳(1841m)へと続く、広大な雪の光景が広がっていた。(写真上)
目立った頂きはないけれども、このおおらかな山容の広がりは、いつも私たちをのびやかな気持ちにさせてくれる。
同じ東北の山では、吾妻(あづま)連峰や安達太良山(あだたらやま)そして月山(がっさん)に八幡平(はちまんたい)などがそんな雰囲気を持った山々であり、他方、火山独立峰の山としては、鳥海山、岩手山、岩木山、磐梯山などがあり、さらには長大な山脈系の山として、飯豊連峰と朝日連峰がある。
そんな東北の山々の、すべてを知っているわけではないし、まだ登りたい山は二つ三つ残っている。何とか生きているうちに登っておきたいとは思うのだが。
この蔵王には、東京にいた若いころに一度登っていて、あのお釜の神秘的な緑色は忘れがたいものだったが、熊野岳を含む山容には、余り心ひかれなかった。
それに引き替え、今、眼前に広がるこの雪の光景、その見事な冬の山容・・・まったく、雪のない時との何たる違いだろうか。
そして何よりも、頭上に広がる一面の青空が、これらの白雪の山々を輝かせていたのだ。
他に誰もいない静かな小さな頂上だったが、長年の夢の一つがかなえられて、私は胸に手を当てて感謝したい思いだった。
すぐに下に戻り、今度は皆の後から、右手に樹氷を見ながら地蔵山へと登って行く。
その樹氷は高さ2m以上はあって、中のアオモリトドマツの枝葉が見えないほどに、氷雪に覆われていて、それらが群生して立ち並んでいる姿は、さすがに素晴らしい。(写真)
その樹氷それぞれには、二つと同じものはなく、あるものは人間の姿にまたあるものは動物の姿に見えて、一つ一つの形が面白いのだ。
しかし、私は写真を撮って行きながらも、ここではあまり長居はしたくなかった。
つまり、そんな樹氷の形を芸術的なフォルムとしてとらえ、一枚の絵画のような写真として写すためには、この樹林帯の中に入って行くべきなのだろうが、もともと芸術的センスのない私には、それはとうてい無理な話であったのだ。
そして、何よりも元来が山登り屋の私には、ここにとどまって、山の限られた小さな一部分でしかない樹氷の写真を撮っているよりは、こんな天気のいい日には、これから先に続く白き山々へと向かうほうがはるかに興味あることだったのだ。
もちろん、見たいと思っていた樹氷群が、まだ最盛期に近い見事な形で立ち並んでいたことは、大きな喜びにはなったのだけれども・・・。
いやもっと正直に言えば、私はこれらの樹氷を初めて見た割には、思っていたほどには感激したというわけでもなかったのだ。
今まで私は、幾つもの山に登ってきて、中にはそれまで憧れ続けていた山の頂に初めてたどり着いて、そこでひとり感動の涙を流したことが何度もあったというのに。
もちろん山頂と、樹氷群とでは対象があまりにも違いすぎるし、むしろあの一面に広がるお花畑などの植生と比較するべきものなのかもしれないが、さらに今までさんざん、テレビや写真などの画像で樹氷を見続けてきて、その姿を知りすぎていたから、それだけ驚きの感動が薄まったのかもしれない。
物事によっては、知らないでいることのほうが良い時もあるのだ。
さて、次第にその樹氷が少なくなり、やがて吹きさらしのなだらかな台地上の地蔵山頂上に着いた。
そこで私を待っていたものは、山形盆地を覆う暗い雲海の上に顔を出した、東北の名山たちである。
今一つ、空気の透明感がないような気がしたが、それでも快晴の大きな空の下、それぞれの姿で白く輝いていたのだ。
南には、安達太良(あだたら)山が小さく見え、続いて白い稜線から下の森林帯の濃い色が目立つ吾妻連峰、そして長々と連なる白い飯豊連峰、さらに山形盆地を隔てた西側には、飯豊よりは短いが主峰の大朝日岳がひときわ目を引く朝日連峰、そして北に月山と遠く鳥海山までもが見えている・・・。
飯豊連峰と朝日連峰は、いずれも私の好きな山脈の形として、切れ込んだ谷筋を見せながら立ち並んでいる姿が見事なのだが、さらにもう一つの新たな発見は、月山(がっさん)の山の形だった。
月山は、2000m近い標高を持ちながらも、山容がアスピーテ(盾状火山)と呼ばれるなだらかな山容であり、ふもとの庄内平野から見ても、あるいは飛行機の上から見てももっそりとした感じなのだが、この時私は初めて、この山の神々しいばかりの姿に気づいたのだ。
暗い雲海上から、雪に覆われた白い上半身の姿を、大きく浮かび上がらせていて、それはまさしく、白く輝く満月が、山の端から出てくる、その輝かしい瞬間のようにも見えたのだ。(写真)
月山の名前の由来は、あの『日本百名山』の深田久弥氏によると、地元の人々が農業の神である、月読命(つきよみのみこと)を祀(まつ)ったからであるとのことだが、その後に続けて、彼はこうも書いているのだ。
「しかし、その心の底には、やはり月のようにやさしい山という感じがあったに相違ない。」
(『日本百名山』深田久弥著 新潮社より)
私は、さらに思いをふくらませる。
昔の人々は、冬に向かう峠道で、あるいは雪解けの春先の峠道で、月のように白い月山の姿を何度も見ていたことだろう。
”月読命”からその名が来たのなら、さらに”月のようにやさしい山”からその名が来たのなら、”がっさん”ではなく、芭蕉が俳句に読んだように、”つき(月)のやま”と呼ぶべきではなかったのか。
(参照:「雲の峯 幾つ崩て 月の山」”おくのほそ道”より)
月を”がつ”と発音するのは、昔の言葉で思いつくのはあの”月光菩薩(がっこうぼさつ)”である。
ウィキペディアによると、「月光菩薩とは、日光菩薩とともに薬師如来(やくしにょらい)の脇侍(わきざむらい)を務めていて、月の光を象徴する菩薩である。」
私は夢想するのだ。その昔、月明かりの中、ひとり峠道を越えてきた旅人がふと振り向くと、月に輝く白い月山が見えて、思わず手を合わせたのではないかと。
「ああ、月光(がっこう)菩薩様!月山(がっさん)菩薩様!」
これは何の裏付けの資料もない、私の勝手な妄想であり、あの”名言家”タモリの言葉ではないが、私もまた“妄想族(もうそうぞく)”と呼ばれる一人なのだろう。
さて、地蔵山から南へと向かう。
西側に荒々しい爆裂火口跡を見せて、シュカブラの波のかなたに、熊野岳の大きな姿が横たわっていた。
私の、蔵王の雪山の旅は、この熊野岳を越えて、さらに刈田岳へと続いて行くのだ。
(次回へと続く。)