ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(221)

2012-03-31 20:58:11 | Weblog
 

 3月31日

 数日前、飼い主がワタシを迎えにきた。ワタシは、病院のオリの中で、ニャーニャーと鳴き続けていた。先生がワタシの腕につていたチューブを外して、バスケット型のネコ・ケージにワタシを入れて運び、飼い主の前に差し出した。興奮したワタシは、さらに鳴き続けたが、飼い主から体をなでられて、ようやく落ち着いてきた。
 飼い主は、しばらく先生と話した後、何度も頭を下げて、外に出た。ワタシの入っているバスケット・ケージを、外にあった車の中に運び入れた。走る車の中で、ワタシはまだ鳴いていた。飼い主が、ケージの格子戸(こうしど)の間から指を差し込んできて、ワタシはその指に頭や耳をこすりつけた。

 やがて、家に着いた。確かにワタシの家の臭いがしている。ケージから出た私は、あちこち残っているワタシの臭いをかいでまわった。何度も家と外を出入りした後、もう夕方だったので、コタツの中にもぐり込んだ。その日はそれからずっと、次の日の朝になるまでコタツの中で寝ていた。というのも、知らない所で神経が張り詰めた毎日を送っていたので、睡眠不足だったからだ。
 
 家に戻ってからは、毎日良い天気が続いていて、日ごとに暖かくなっていった。昼間はベランダで寝て過ごし、飼い主とほんの少しの散歩に出かけて、そこで春の若草をかじったりした。あとは水を飲むだけで、他には何も食べたくなかった。
 そんな状態だから、体が日ごとに弱っていくのが自分にも分かっていた。ふらつきながら歩いて、何とかトイレは外ですませて家に戻り、あとはただ体を横にして寝ているだけだった。

 ワタシの体は、どうなるのだろう。時折飼い主が、私の顔をのぞきこみ、ワタシも飼い主の顔をじっと見る。
 今にして思えば、時々飼い主が北海道に行っていなくなることもあったが、ともかく長い間を二人だけで生きてきたのだ。
 飼い主が、ワタシに何かを言っていた。その眼からは、一筋に流れ落ちるものが見えた。ワタシは視線を外して、前足の上に顔を乗せて、目を閉じた。今、確かにワタシは体が弱っている。しかし、まだ生きているのだ。それだけで、いい。


 「一週間もの間、晴れの日が続いた。気温は日増しに上がり、昨日などはついに20度にまでなって、春の盛りの暖かさだった。今年の冬の寒さから、咲くのが遅れていた梅の花がようやく数輪開き、さらに向こうでは、枝いっぱいのつぼみの中から、コブシの白い花が点々と咲き始めていた。
 それなのに、私の胸は重苦しく、たれ込めた思いの中にある。ミャオが、いよいよ危なくなってきたからだ。
 
 前回書いたように、ミャオを病院に連れて行き、そこで一週間の間、点滴をしながら様子を見てもらっていた。途中で先生に電話すると、元気になってはいるけれども、やはりまだエサを食べてはいないとのことだった。
 これまで、ミャオはこの病院で三回もの入院治療を受けていて、一度目は精神的ショックから来る拒食症であり、あとの二回は、他のノラネコから咬(か)まれた傷が、化膿したことによるものだったのだが、それぞれに数日間点滴を受けて家に戻ってきた時には、驚くほどの回復ぶりだった。しかし今回は、その目覚ましい効果が見られないのだ。

 前回病院に連れて行った時の、膀胱(ぼうこう)炎による排尿困難症状が出る前から、ミャオの腎臓(じんぞう)は少しづつ弱っていたのだ。高齢猫に良く見られる腎機能障害は、人間の場合だと、人工透析(とうせき)や腎臓移植などの治療方法もあるのだろうが、猫の場合、それも高齢の場合は、ほとんど手の打ちようがなく手おくれになる場合が多いと言われている。
 そうなる前の、もう少し若い年齢だったならば、点滴入院などで尿毒症の症状を改善させることもできたとのことだが。

 ミャオの年は、多分17歳だろうと思われるが、それは、捨て猫のシャム猫母さんから生まれたノラネコだったために、はっきりとした生まれ年や月が分からないからなのだ。ミャオが家に来たのは1996年で、そのころの写真が残っている。私よりは、はるかに記憶力の良かった亡くなった母ならば、正確に憶えていたのだろうが。
 ともかく人間でいえば、84歳にもあたるおばあちゃんネコなので、当然のことながら最近は運動能力などが目だって衰えていた。しかし、この冬のあの膀胱炎の症状が一応おさまった後には、よく食べていて少し太り気味であり、とてもよぼよぼの年寄りネコの感じなど全くなかったのに、今では見るも哀れな状態になってしまったのだ。

 ミャオを入院させてがらんとした家の中で、私は考えていた。どうするのか。このまま入院させていても、何とか点滴栄養補給で、幾らかは命を長らえることはできるのだろうが、ミャオは、あの病院のオリの中に毎日ひとりでいて幸せだろうか。それよりも、治療を打ち切って家に引き取り、たとえ命が短くなったとしても、私がずっとそばにいて最後まで看(み)取ってやった方が、ミャオにとっては安心なのではないのか。
 ただ、ミャオとは、一日でも長く一緒に暮らしていたいと思う。長い歳月を、たった二人だけで暮らしてきた大切な家族だもの。
 私の心は、大きく揺れ動いていた。治療を打ち切ることは、ミャオを見殺しにすることにならないのか。あるいは、ただひとり管につながれていても、命を長らえることの方が、ミャオにはいいのかと。

 もしミャオがいなくなったら、私は母を失った時と同じようにまたひとりになってしまう。私は今まで、ひとりでいるということを、いやというほどに味わってきた。それが、つらい哀しい意味であれ、自由で気ままな意味であれ。そしてその度ごとに、いつも一人で乗り越えてきた。
 しかし、今もう一人の家族であるミャオを失うことになれば、それはもちろん、母をなくした時ほどではないにしろ、しばらくは気が滅入ってふさぎこんでしまうことだろう。しかし、私はかならず立ち直ることができるはずだ、今までそうであったように。

 ミャオとの別れは、遅かれ早かれやってくることだ。一番大切なのは、私とミャオとの間にある今の通い合う気持ちであり、このまま互いを思う気持ちを感じながら、寿命がきた家族に別れを告げること、それがミャオへの最善の見送り方だろうと私は考えた。
 私は、こみ上げてくるものに耐えながら、そう決心した。ミャオを家に連れて帰ろう。

 ミャオの入院治療は、ちょうど一週間になっていた。まず先生に話をして、私の意向を伝えた。先生は、死期を悟った人の話をしてくれたが、それから付け加えるように、まだ点滴を続けて様子を見ることもできるし、暴れるので麻酔をして詳しい検査もできますと言った。
 今まで三度もミャオの命を救ってくれた先生だから、医者として何とか命を救いたいのだろうが、私はミャオを家で最後まで看取るつもりだと答えた。
 先生はミャオの入院費を少し安くしてくれたが、それでも仕事を辞めて主な収入源が無くなった私には、決して安い額ではなかった。しかしそれは、ミャオがもしこの先、元気になって治るならばさらに入院させて支払い続けても、惜しい金額ではなかったのだが。

 ミャオは、前回書いた時と同じように、戻ってきたその日は元気だった。しかし次の日になると、点滴栄養の効果も薄れて、今までどおりに弱々しく、とぼとぼと歩き、相変わらず何にも食べずに、水を飲むだけで、ほとんどコタツの暗がりの中で寝ているだけだった。
 しかし時折思いついたように、それまでの長い習慣だった、私との散歩に出かけようとする。それは、ほんの家の前までの短い距離なのだが、その時に道端の青草を少しだけ食べていた。しかし、もうその先までは歩こうとせずに、すぐに座り込んでしまう。私は、ただじっと見守ってやるしかない・・・。(写真)
 しかし後になってみれば、あんな日々があったとひとり思い出すに違いない。そして、それで良かったのだろうかと、再び考えるかもしれないが・・・。
 
 ミャオが入院して、私がひとり考え込んでいる時に、あたかも私に決断をうながすような、高齢者医療についてのテレビ番組が幾つかあった。といってもそれは、ニュースの時間などでの小さな特集として、取り上げられていただけなのだが、一つは日本老年医学会の胃ろう(胃に管をつないで直接、水や栄養を送ること)についての指針発表の話であり、患者の状態に応じて慎重に判断し、時には家族の意向も踏まえて、さし控えたり中止したりすることもあり得るとしていた。
 その中で、寝たきりの患者が胃ろうを受けることによって、自宅介護の負担が減って良かったという家族と、逆に患者を長く苦しませないためにも、胃ろうを断って自然死を迎えさせたという家族の、二つの例があげられていた。

 さらにもう一つのワイドショーの番組では、京都にある老人ホームの診療所所長である中村仁一医師を訪ねて、高齢者医療についての話を聞いていたが、彼は最近ベストセラーになった『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書)の著者でもある。
 中村氏が語るのは、以下のようなことだった。

 「人間の細胞は、毎日どこかでがん化していて、若いうちはともかく、免疫が衰えた年寄りががんにかかるのは当たり前のことであり、まだ若い40、50代では、早すぎる死を防ぐためにもがん検診を受けて治療すべきであるが、60代から70代へとしだいに衰えて繁殖年齢を過ぎた年齢の人たちががんになっていっても、それはそれで余命予測ができるし、身辺整理の時間があるということで、むしろ突然死などよりは歓迎すべきことなのだ。
 食事が食べられなくなるのは、寿命がきたからであり、水が飲めればそれだけにしておいて、飢餓(きが)状態で死を迎えるのがベストである。
 自然死とは、飲まず食わずの餓死(がし)なのであり、寿命で死ぬ時期になると、お腹がすかなくなり喉が渇かなくなり、本人にとっては自然な流れで死を迎えることになる。心配することはない、死ぬ時には、脳内ホルモンであるエンドルフィン(モルヒネの一種)が放出されて、安らかに死んでいけるのだから。
 むしろがんに対して、外科手術をしたり抗がん剤を使用したりしての攻撃的治療をすれば、その副作用で痛みが増す。何もしなければ、そのままで痛みもなく死んでいくことができる。ここではこの8年間のがんによる死者52名中、麻薬を使って痛みを取り除かなければならないようなケースは一つもなかった。」
 
 この中村先生の話を聞いて、わたくしは新たな死の世界をかいま見たような気がした。それは思えば、前に少しふれたことのある、あの臨死体験の話に似ているが。
 そして、さらに驚いたのは、今、先生自身が、あごから喉にかけて大きくふくらんだ腫瘍(しゅよう)があるというのに、検診も受けず手術をしてもらう積もりもないというのだ。自分が自然死を勧めている手前もあって、と笑いながら話していた。
 
 安楽死や尊厳死の問題は、医者の倫理や家族の同意などとかかわり、昔から論争されてきた問題だが、最近、いわゆるホスピスについてなど、緩和ケアの問題として再び多く取り上げられるようになってきている。それは一つには、今の日本で、高齢化社会による多死の現実が見え始めてきたからでもあるのだろうが。

 さらにもう一つ、昨日のニュース番組の中での小さな話題として取り上げられていたのは、一冊の写真集である。
 『恋(れん)ちゃん はじめての看取り おおばあちゃんの死と向きあう』(”いのちつぐ みとりびと”シリーズ第4巻 國森康弘著・写真 農山漁村文化協会)
 
 そこには大家族の中で育った小学5年生の恋(れん)ちゃんが、大好きだったおおばあちゃん(ひいばあちゃん)の死に対面して、その死に顔をなでてあげたり、涙を流しているシーンの写真が何枚も収められており、番組ではそんな恋ちゃんの最近の様子なども映し出されていた。 
 今の時代に、親から離れた所で自分たちだけの核家族の生活を楽しむ世代とは違って、昔は恋ちゃんのように、子供たちは大家族の中で一緒に暮らしていて、大きくなって家を出て行くまでの間に、そこでいろんなことを学んでいたのだ。
 
 そして番組の終わりに、同じ地域の子供たちへのアンケートの結果が伝えられていた。『人は死んだら生き返るか』という問いに、3割近くの生徒がハイと答え、その中でも、3回や4回は命がリセットされると答えた子供も多かったとのことだ。
 ともかくこれらの番組を見て、私は今のミャオのことを思い、さらに今の時代について、考えないわけにはいかなかった。
 
 間違いなく、ミャオの命は終わりに近づいている。私は、最後まで、ミャオのそばにいるつもりだが、もし万が一、ミャオが自然に元気になってくれれば、それほどありがたいことはない。それでも、もうこれからは、ミャオの傍を長く離れることなどできないだろう。北海道に戻ることなど、もうどうでもよいことだ。

 私の大切な仲間であり、友であり、家族であり、時には生きていく上での師でもあったミャオ・・・。」

  <子供の死なぬための祈り>

 『神さま、親たちのためにこの子供をお助け下され、嵐の中の草をお助けなさるように、
  母親が泣いておりますれば、神さま、後ほど、逃れ得ぬことのように、
  何もこの子供をお殺しにならずともよろしいではございませんか、
  もしもあなた様が、この子供を生かしておおきになれば、
  来年の春の聖体祭には、この子は花をまきにまいるでございましょう、
  あなた様はあまりに親切でございます、神さま、
  この子供のバラ色のほほの上に、青ざめた死を置く者はあなた様ではございません、
  ・・・・
  ああ!鐘が鳴り出します。神さま思い出しなされ、
  死んでいくこの子供の前で、あなた様はお母様の側で いつも生きておいでなされると。』

 (『ジャム詩集』 堀口大学訳 新潮文庫)