ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(50)

2008-06-07 20:14:26 | Weblog
6月7日 うす曇り 気温24度 
 昼過ぎになって、飼い主が隠れ家にいたワタシを呼びにきた。やはり嬉しいから、ニャーニャーと鳴いて応える。しかし、遠い距離を歩いて家に戻るのは、気がすすまない。と言うより、あの飼い主が戻ってきた家に、問題があるのだ。
 はっきり言えば、今や恐ろしい敵でもある、マイケルが自分の匂いをつけまくっている、あの家になんか行きたくはないのだ。
 ところが、飼い主は嫌がるワタシを抱きかかえて、家につれて帰った。そこで、しばらく体をなでられた後、ミルク、キャットフード、コアジ一匹を差し出され、食べれば、いい気分になって、飼い主のそばでうたた寝をする。
 しかし、時々、外が気になる。ベランダに出たり、窓際に座って外を見たりする。そして、夕方のサカナをもらえば、姿を隠すために、また遠く離れたあの場所に戻って行くだけだ。
 どうして、こんな半ノラのネコになってしまったのか。そうじゃなくて、こんな半ノラに、誰がしたんだ。
 飼い主から、こんな悲しい歌について聞いたことがある。 
 「星の流れに身を占って 何処をねぐらの今日の宿 荒(すさ)む心でいるのじゃないが 泣けて涙も枯れ果てた こんな女に誰がした」(作詞 清水みのる、作曲 利根一郎)
 終戦直後(と言っても、もう60年も前)の歌なのだが、戦後の混乱の中、家族とはぐれ、生きて行くために、食べものを得るために、街角に立つようになった哀れな女の独り言なのだが、この後に続く二番の歌詞には泣かされる。あの独特な歌いまわしの菊池章子の声が、またこの歌にうまく合っていた。飼い主もその時代のことは知らないが、後になって聞いた歌だそうで、それにしても、みんながつらく悲しかった時代の歌だ。自分の贅沢のための金を得るために、出会い系サイトで男を探す、今の若い子達とはえらい違いだ。
 ともかく、この歌の詩が、まさに今のワタシの境遇を語っているのだ。こんな半ノラに誰がした・・・。明日、続いて、飼い主がつらい話をするとのことだ。


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