ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(40)

2008-04-11 19:06:07 | Weblog
4月11日 今日は晴れて、気温も16度まで上がる。朝のうちは、まだストーヴの前で寝ているのだが、日がいっぱいに差し込んでくるようになると、飼い主がワタシを呼ぶ。
 やはり晴れた日のベランダは気持ちがいい。外にいると、部屋の中で面白くもない飼い主の顔を見なくてすむし、例のカッチョウなどの鳥もやってくるし、他のネコちゃんたちの気配もすぐに分かる。春はいいよなー、春は。
 家のさんま桜も、ようやく今日開花したと飼い主が言っていた。さんま桜というのは、家の山桜のことで、あの亡くなったおばあさんが名づけたのだ。ソメイヨシノなどと違って、葉が先に開いてその後から花が咲く、つまり歯が先・・・はじめのうちは葉ばかり茂って、花びらは数えるほどだったのだが、歳月が過ぎて今や大きな木になり、いっぱいの花を咲かせるようになっていた。さすがのさんま桜だ。
 飼い主は、ワタシをベランダに出し、キャットフードの餌皿も外に出して、ドアを閉め、内側からガチャリとカギをかけた。そしてクルマの音がして、出かけていった。
 ワタシには分かる。庭のコブシの白い花が咲き、そして桜の花が咲き、チューリップの色鮮やかな花が開く頃、ある日突然飼い主がいなくなるのだ。この暖かい春の空気が、いろいろな春のにおいを伝えてくれるのだ。
 いよいよワタシ一匹で生きていかなければならないのだ。何とか飢えないだけのエサは近くのおじさんの所へ行けばもらえる。しかし、一箇所クルマの通る道を横断しなければならない。それが問題だ。
 前にも言ったように、ワタシは臆病というより、非常に用心深いネコだ。飼い主以外に体を触らせるのは、そのおじさんだけ。飼い主と一緒に散歩していても、誰か他の人に出会ったり、クルマが通ったりしただけで、ワタシはあわてて隠れてしまう。
 脱兎のごとく草むらにか、あるいは道路傍の側溝の中に逃げ込むのだ。子供のころから半ノラで暮らしてきたワタシは、周りはいつも危険がいっぱいなのだと、身にしみて知っているからだ。それは飼い主に飼われている家猫になっていても変わらない。つまり春から秋にかけて、また時々ノラにならなければいけないからだ。
 確かに、今ワタシは、年齢の割には動作も機敏で、オスネコたちにもモテるし、若く見えるかもしれない。しかし、いつかその日が、きっとくるはず。
 
 「ミャオか、オーヨシヨシヨシ。買い物に行ってきたけど、途中の景色がきれいだったぞ。オマエもクルマに乗れればなあ。サクラはもう葉が出始めていたけれど、まだ満開の木もあったし、とくに山肌に点々とヤマザクラ見えてよかったなあ。田んぼにはレンゲの花が咲きはじめ、周りに菜の花があって、いかにも春らしい景色だったな。
 ばあちゃんがいつか話してくれたことがある。子供のころ、小高い丘にある公園に遠足に行って、そこから初めて、自分たちの住む田舎の、田んぼの広がる景色を見て、その時の景色を今でも憶えてるってね。
 ちょうど今頃の季節で、広い平野の見渡す限りに、紫色のレンゲの花と、黄色の菜の花が、田んぼごとにだんだら模様になって広がっていて、子供心にもなんてきれいなんだろうと思ったんだって。
 だからばあちゃんは、毎年春になって、菜の花、レンゲ、サクラだけでなくいろんな花が咲くのを、楽しみにしていたなあ。オレも今、その気持ちが分かってきたよ。北海道もいいけれど、九州も悪くないってね。『願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ』という西行の思いは、日本人の心のふるさとなのかもしれないな。いいねえ、この情感が、年を取ったから分かるんだろうけれど。」と、ミャオが帰ってきたら話してやろう。
 


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