ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(48)

2008-05-04 16:06:39 | Weblog
5月4日 昨日今日と晴れて暑い日が続き、気温も27度までも上がる。夏が近づいてきているのを感じる。
 ワタシは、飼い主がベランダの手すりに干した、コタツ布団の陰で寝ている。そよ風が吹き、ウグイスが鳴き、いかにも春らしい、静かないい日だ。「ひねもすのたりのたりかな」と横になっていると、幸せな気分になる。
 ところが飼い主の方は、なんとなく気分がさえないようだ。というのも、昨日は一日中、快晴の天気の上に、空気が澄んで山はくっきりと見え、一月に一度あるかないかの絶好の登山日和だったからだ。
 というのも飼い主は、連休に入ると、どこもいっぱいになって嫌だからと、その前の日に、うす曇りの天気だったのだが、山登りに行ってきたらしい。まあ午前中に、2時間余りで往復して戻ってきたから、たいした山ではないのだろうが、帰ってきて言うには、新緑がきれいで、誰にも会わずにいいハイキングだったとのことだった。それなら、それでもう十分だろうと思うのに、昨日の見事な空を見上げては、悔しそうな顔をしていたのだ、今日行ければと。
 まったく、人間というのは、どうしてこう損得勘定の結果にこだわるのだろう。終わってしまったことをあれこれ考えて、心悩ましたところでどうなるというのだろう。
 たとえば、ワタシが間違ってキャットフードを腹いっぱい食べた後に、いつもの生ザカナを出されたとすると、ワタシはもちろんそのサカナを食べたいが、もう満腹になっている。そこで、ワタシはそのサカナのおいしそうな横腹辺りを、一なめしただけで、食べるのはあきらめるだろう。それだけのことだ。べつにキャットフードを食べたことを、後悔なんかしない。なぜなら今、腹がいっぱいで、満足しているからだ。
 まあ、飼い主が山が好きなのはわかるが、悔しがったところで、それでどうかなるわけでは無し、むしろ行けなかった代わりに、他に何かをしたはずで、それができて良かったと思えば気が楽だ。
 さてマイケルも来ないし、少し退屈だが、静かでいい日和の一日だ。それだけで、今のワタシには十分なのだ。
 
 「いやあ、いつもながらミャオ様の示唆にとんだお言葉、しっかりと心に留めておきます。
 ただ私も、何でも欲しがっていた若いころとは違うし、まして他人と比べてどうこうなどと比較することもないから、それほど単純に物事に一喜一憂することもないのだ。つまり、行為の結果にはいつもプラスとマイナスがあるから、すべて後悔するほどのことはないと思っている。まあ、それが逆に若くないということだろうけれど。
 ただ、山に関しては、やはり良く晴れた日に山に登りたいと思う。それぞれの季節に、青空を背景にした山こそが、最もきれいに見えるからだ。

 ところで、もう一つ、私の気分が天気ほどにすっきりしなかったことがある。パソコンの不調だ。この三日間、ネットになかなかつながらないし、あげくには、書き上げたばかりのこのブログの記事が、二回も消えてしまい、すっかりやる気をなくしていたからだ。
 4年前に初めて手にしたノート・パソコンだが、今となってはその性能が物足りない。CPUはCeleronM 1.2GH、メモリーは512KB、ハードディスクは60GBとあまりにも少ない。それではとメモリーは1GBに、ハードディスクは250GBの外付けにしたのだが、どうしてもCPUが少なくて、その上に重いウィルス・ソフトを使っていることもあって、すぐにフリーズしてしまうのだ。
 そこでパソコンの本を買い、いろいろと設定を変えてみたのだが、たいした効果は上がらない。その上に、相変わらずのダイアル・アップの電話共用回線で、速度は64kbという遅さだ。
 そしてネットにつながらない上に、二時間かかって書いた記事を一瞬にして消してしまうことになり、もうブログを書くのはやめようかと思ったほどだった。機械に振り回されて、腹立たしい無駄な時間を費やすくらいなら、心静かに本でも読むか、良い映画でも見ていたほうがどれだけ有意義なことか。
 しかし、考えた。便利さと無駄はいつも背中合わせなのだ。このブログは、あくまでもミャオと私のためのものなのだ。その思いのために、書き続ける必要があると。
 今日になって、いくつか入れている写真ソフトの一つを、新たにバージョン・アップしていたことに気づき、そのソフトごとアン・インストールしてみた。ようやく、いくらか早くなったのだ。
 それにしても、私がまだ数ヶ月のブログ初心者なのだからだろうか、書き上げた記事を一瞬にして消してしまうというミスを、これで数回も繰り返したことになる。そのたびごとに、こみいった機械相手の作業なんか、もうやめてやると思ってしまうのだ。パソコンなんてなくったって生きていけると。
 ミャオには、人間ほどに知らないことや便利でないことがいっぱいあるけれども、どれほど心穏やかに、機械へのストレスを感じることもなく、生きていることか。ところが悲しいことに、便利さを覚えてしまった我々人間は、そこに害悪があると知っていても(今深刻な環境問題など)、その便利な生活を捨て去ることはなかなかできないのだ。
 できることは、自分なりの限度を知ることだ。自分に言い聞かせるために書いているこのブログについても、同じことが言える。・・・とここまで書いてきて、それが数時間前に、パソコン上で誤って消してしまった記事とは、すっかり別な話になってしまったのに気づくが、まあいいか。

 ともかく、あと数日で、ミャオとはしばしのお別れだ。半年近く一緒に暮らしてきて、今私のそばで、安心して横になっているミャオを見るのはつらい。ふと、このまま、ずっとここにいようかという気にさえなるのだ。
 別れといえば昔より、この人の世の常なるを・・・。


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