8月28日
三日前のことだ。日も暮れた夜の8時過ぎ、家の前で車が止まって、誰かが下りてきて玄関のカギをガチャガチャと開けながら、そのうえ小さく、ニャオニャオと鳴いている。そして、家の中に入ってきて、ベランダ側のドアを開けた。
ワタシは、ベランダの隅にあるネコ小屋で寝ていたが、飛び起きて逃げようとした。しかし、待てよ、ニャオニャオと鳴き続ける声は、まさしくあの飼い主のものだ。ワタシは、照らし出されたベランダで、まだ信用できずに少し後ずさりをしながらも、一緒に鳴き交わした。
家の中に、おずおずと入って行く。あのバカたれ飼い主がやっと戻ってきたのだ。深皿いっぱいに入れられたミルクを、ワタシはただひたすらに飲んだ。久しぶりに飲むその味は、そこいらの溜まり水の味とは全然違う、何とも言えない濃くてサラリとした、まさにミルクの味なのだ。
ウーップ、もう一杯おかわりと。
さらに鳴いていると、ちゃんと魚を出してくれた。冷凍してあったもののようだが、これも久しぶりだからおいしくいただいた。食べ終わり、飼い主の顔を見上げながら、ニャーオと鳴く。
さて、これでワタシも、普通のネコなみの生活が送れるというものだ。
「何が嬉しいかといって、久しぶりに戻ってきた家に、ミャオが元気で待っていてくれたいたことほど嬉しく、心幸せな気分になるものはない。お互いに連絡を取れないままの、一カ月だもの。
それは、母が元気でいた時のように、私がかけた電話に、もしミャオがちゃんと受話器を取って返事してくれれば、これほど心配しなくていいのにとも思うのだが。
しかし考えてみれば、電話も電報もなかった昔は、連絡手段といえば、長く時間がかかってようやく届く手紙くらいしかなく、それだけに、相手を思う気持ちや絆(きずな)はより深くなり、ようやく会えた時の互いの喜びは、いかばかりだったかとも思う。
科学・文化の発達はこうして、人々から少しずつ個々の感動を奪い去ってきたのだ。今や私たちは、個々に対する時よりは、むしろ集団で味うべく作られた感動に入り込むしかなくなってきたのだろうか。
もっともそうではなく、旧態然とした私とミャオの関係が、それだからより感動的なものになったとは、さらさら思わないのだが。
つまり、その再会の一瞬を除けば、相変わらずぐうたらで無責任なオヤジと、甘ったれでよく鳴く、年寄りの雑種ネコの、なれ合い生活でしかないからだ。
とはいっても、前回、6月に帰った時(6月14日の項)の、そしてそれ以降のミャオの深いケガの状態から、7月の終わりに家を離れた時のこと(~7月21日の項まで)を思えば、よくぞ元気でいてくれたと、本当にありがたいくらいの回復ぶりだったのだ。
6月の時の、あのガリガリにやせ衰えていた体と比べると、毛づやもよくしっかりと太っていた。エサを毎日やりに来てくれていたおじさんには、足を向けて寝られないぞとミャオにも言ったのだが、分かっているかどうか。おじさんには、お礼の花畑牧場の”もちっぷす”くらいのお土産では申し訳ないのだが、ただ、それでさえ遠慮しようとするくらいで。
誰でもみんな、一人では生きていけないのだ。
ミャオのことで嬉しかったのは、その元気な体だけではない。その心もすっかり元に戻っていたのだ。思えば、あの頃は、全く悲しくなるほどの毎日だった。ミャオの痴呆的、反抗的な態度と家の中でのところかまわずのトイレ行為・・・思い出したくもない修羅場(しゅらば)の日々だったのに・・・それが、また前のように、自分で家を出て外でするようになったのだ。
それも近くの散歩の時なぞ、私の目の前で、軽く地面を掘って、そこにして見せるのだ。私は、変な趣味はないから、とても人さま、いやネコさまのトイレ姿なんぞ見たいなんて思わないのに。
まだ九州は夏の盛りなのに、ミャオのことが心配で早めに帰ってきたのだが、やはりあの北海道の涼しさから比べれば、気温も高いし、最も山の中だから30度にはならないのだが、蒸し暑くて、毎日の風呂と寝るまでの夜のクーラーは欠かせないのだ。
こうしてミャオが元気ならもっと後になって、涼しくなってから戻ってきてもよかったと思うが、それは結果論だ。物事には、そう単純ではない表と裏、プラスとマイナス面がいつも半々にあるものだ。それを人はいつも、運命という言葉で片付けたがるのだ、良い時も悪い時も。
しかし果たして、それほど断言できるものなのか・・・。前回書こうとした映画についての話は、この運命についての軽やかな、そしてあまりにも重い問題を描いていたのだ。
この二つの映画は、半年前などに録画していたものを、最近たまたま続けて二本見たものであり、別段それぞれにかかわりがある作品だというわけではない。
その一つは、1991年制作のイタリア映画、『エーゲ海の天使』である。私は、この映画をその題名からしてお気楽な内容だろうと思い、長い間放っておいたのだが、今回見て、なかなかに見事なイタリア映画だったことが分かった。原題の『地中海』というタイトルこそが、時代の中で生きるさまざまな人生模様を描いている、この映画の内容にふさわしい。
物語は、第二次世界大戦の初めのころの1941年、イタリアの港を出たガリバルディ号(イタリア統一の英雄の名前)には、寄せ集めの兵隊からなる小隊が乗っていた。教養はあるが少しひ弱な隊長でもある中尉に、アフリカ戦線をくぐりぬけてきた軍曹、以下中尉付きの従卒、無線技士、ロバ飼い、山育ちの兄弟、元脱走兵のあわせて8名である。
エーゲ海の孤島に向かう彼らの任務は、偵察と通信、つまり大した仕事ではないのだが、上陸してしばらくすると、彼らが乗ってきた巡洋艦ガリバルディ号は、敵の飛行機に爆撃沈没されてしまい、さらに唯一の外部との連絡手段である無線機が、仲間内の誤解からケンカになり壊されてしまう。
島の男たちは戦いに駆り出されていて、老人と女子供しかいない島で、彼らは3年を過ごすことになる。そしてたまたま故障して、この島の砂浜に着陸した友軍の飛行機のパイロットから、ムッソリーニが失脚して、イタリアはドイツ軍、パルチザン、そして連合国によって三分割されているのだと知らされる。
やがて、迎えに来たイギリス軍の船でイタリアに戻ることになるが、その前に、あの妻思いの元脱走兵は、すでに島からボートで脱走していて、さらに島にいたただ一人の娼婦と愛し合う仲になっていた従卒の男は、彼女と結婚して島に残り、結局、帰還の船に乗り込んだのは残りの6人とロバ一頭だった
その後、三十年近くがたち、すっかり白髪頭になった元中尉が、その島に戻ってみると、そこには・・・。
島には連絡手段がなく、そこに3年もいなければならなくなったという設定は、明らかに作為的ではあるが、その他の話は、まさにありうるイタリア的な話だった。そんな8人の、それぞれの曰くありげな人物の設定が興味深い。
教養ある中尉の、ギリシア文明に対する尊敬の念と、ギリシアとイタリアは同じ人種だという思い。島の羊飼いの娘と山育ちの兄弟との、あけっぴろげな愛の姿は、まるでギリシア神話の時代を見ているかのようだったし、島一番の美人である娼婦の女は、母も祖母も娼婦だったから、私も娼婦になったのだと言っていたが、人類最古の職業の一つである娼婦の姿を、何の陰りもなく、男たちの救いの女マドンナとして明るく描いていて、それは、メリナ・メルクーリが演じた『日曜日はダメよ』('60)の娼婦を思い起こさせるものだった。ロバ飼いの男のロバに対する愛情は、あのフランスの詩人、ジャムの詩そのものの世界だ。
第二次大戦の主戦場ヨーロッパでは、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺が行われ、占領地での血なまぐさい弾圧と粛清(しゅくせい)の嵐が吹き荒れ、悲惨な地上戦と無差別空爆が行われていたころ、エーゲ海の孤島では、何事もなく島人と兵士たちとの穏やかな日々が続いていたのだ。
歴史とは書き残された史実だけではなく、それよりはるかに多い人々の日常があったのだ。
さらに、それをヨーロッパ文明の母なるギリシアと、その子供である偉大なるローマ帝国を作りあげたイタリアとの関係で、振り返り見て、さらにこの地中海には、ギリシア、イタリアだけでなく、東にはトルコがあり、オリエントがあり、南にはアフリカのイスラム文化圏があり、西にはその後の覇者となるスペインがあり、さらにはナポレオンのフランスがあったことにまで、思いが及んでいくのだ。
それらの、歴史的、地理的事実を踏まえて、ユーモア満ち溢れる中に、人生の真実を含ませて、見事に自分の国をイタリア人を描き切った、この映画のサルバトレス監督に対して、私は、さすがにと思わざるを得なかった。
あのロッセリーニやヴィスコンティから始まったイタリアン・ネオリアリズムの流れの一つは、デ・シーカ(『自転車泥棒』'48)、フェリーニ(『道』'54)、ピエトロ・ジェルミ(『鉄道員』'56)、タヴィアーニ兄弟(『父 パードレ・パドローネ』'77)、エルマンノ・オルミ(『木靴の樹』'78)、トルナトーレ(『ニュー・シネマ・パラダイス』'88)、などを経て、この映画やベニーニの作品(『ライフ・イズ・ビューティフル』'98)などにも延々と受け継がれてきていたのだ。
さて、この映画に戻って言えば、そのすべてにもろ手を挙げて拍手というわけではないのだが、例えば最初にあげた状況設定や、いかにもといった演技、少し古臭いカメラ回し、そしてラストなどは少し気になるところもあるのだが、今年、私がテレビ録画で見た映画の中ではベストの一つに入るだろう。
これらのイタリア映画について、書いていけばきりがない。特に、エルマンノ・オルミの『木靴の樹』は、私の映画ベスト1を争う一本でもあるからだ。
ところで、この映画に登場する人々は、確かに戦時の運命の中にあった人たちなのだが、その中で、娼婦と従卒の男との結婚式の宴の終わりのころ、意気盛んな軍曹と戦場をともにしてきた部下である無線士が、前に座る軍曹の話に答えて言う、『私は運命には従うだけです』。軍曹は、力を込めて『運命は変えられるんだ』と反論し、そして『おれは国に帰りたいんだ。人々を愛したいんだ』と続ける。うつむいて話を聞いていたいた部下の無線士は、顔を上げて熱い眼差しで軍曹を見る。『私も人を愛しています。軍曹、あなたを愛しています』。ぼうぜんとする軍曹。
おそらく、映画を見ていた人々はここで大爆笑したことだろう。監督は、しっかりと、掛け合い漫才の一シーンも仕掛けていたのだ。
余分なことまで書いてきて、次の映画に関することは簡単にまとめるしかなくなってきた。もう一本の映画は、フランス映画の『美しき運命の傷痕(きずあと)』(原題は『地獄』、2005年)である。
あのポーランド出身の名監督、キシエロフスキー(1941~96)が、ダンテの『神曲』の三篇「地獄編」「煉獄編」「天国編」を基にした映画の原案を作っていたのだが、映画化する前に残念ながら亡くなってしまい、それを同じポーランド出身のタノヴィッチ監督が完成させたものだ。
ストーリーは、よくあるパターンだが、話を前後させて少しミステリー仕立てで作られている。3人姉妹の長女ソフィー(エマヌュエル・ベアール)は夫の浮気を知って怒りに駆られる毎日である。次女のセリーヌ(カリン・ヴィアール)は、時々郊外の老人施設に通っては母を介護する日々を送っていたが、ある日から、自分に近づいてきた若い男に胸をときめかせていた。三女のアンヌ(マリ・ジラン)は、恩師である大学教授(ジャック・ペラン)と深い関係になり彼を愛しているが、彼からはこれ以上はと拒まれている。
この三姉妹の父は、妻からある修羅場を見られて告発され、刑務所に入る羽目になり、出所した日に娘たちに会いに行くが拒否され、その時の争いのケガがもとで、妻は介護施設に入ることになり、絶望した彼は自殺してしまったのだ。
そんな暗い過去を持ちながら、成長した三姉妹の人生にも、再び暗い運命の影が忍び寄っていたのだ。そして、それぞれに、ギリギリのところで女の決断を迫られることになる。その三姉妹の思いを代弁するかのように、車いすに座った母親が、冷たい顔のままで言うのだ。「私は、何も後悔してはいない」と。
ちなみに、ダンテの『神曲』の「地獄編」では、邪淫(じゃいん)、貪欲(どんよく)、暴力、欺瞞(ぎまん)、裏切りなどの罪を犯した者たちが、地獄の責め苦を受ける様が描かれていたが、この映画で告発された罪は何だったのだろうか。
ちなみに、タイトルバックに映し出されていたのは、カッコウによる託卵(たくらん)の果ての、ヒナドリのおぞましい光景だった。もっともそれが、カッコウにとっての生きる道なのだが・・・。
そして、ここでの運命については、あの大学教授が、教室で学生たちを前に講義をしているところで、巧みに説明されていた。
「二百年前に、合理主義者たちは運命に代わるものを見つけ出した。神と理性が同等の時代になり、運命は存在しなくなった。しかし人知を超えたことへの説明が必要であり、そこで偶然を持ち出してきたのだ。しかし私は、運命ととらえるほうが好きであり、そのほうが粋(いき)だとも思う。運命には約束の意味があるが、偶然は、たんに力学的なものだ。」(この話は、後に彼の運命も決めることになるのだが・・・。)
それにしても何とわかりやすい、運命についての説明の仕方だろう。それは私が、前にも書いたことのある、運命についてのとらえ方とは大きく異なり、個人の情を取り入れたところが興味深いし、こんな講義なら、だれでも哲学が難しいものではなく、言葉の理解を深める説明の仕方だと気づくだろう。
最後になったが、この映画はポーランド映画作家たちによって作られたものだが、明らかにフランス映画の洗練された情景があちこちに見られたし、俳優たちの共演も見ごたえがあったが、一方ではカメラなどに見られるように、作りすぎ力みすぎなところがあって、私には今ひとつ映画に集中できなかったきらいもある。
原題である『地獄』にふさわしい情景といえば、それはアンチテーゼ(否定的)にいえばだが、貞潔なる者と愛欲に身を沈める者という相反する姉妹の、それぞれの神の不在と孤独を描いた、あのベルイマンの名作『沈黙』('63)や『叫びとささやき』('73)がすぐに思い出されるが、この映画は完成度からいっても遠く及ばないものだった。
それでも、確かに、見ごたえのあるフランス映画を観たのだという満足感は残ったのだが。
運命とは、単なる偶然のめぐり合わせなのか、変えられるものなのか、受け入れ従うべきものなのか・・・そして時は過ぎゆく・・・。