ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(61)

2009-06-26 19:35:55 | Weblog

   


6月26日
 拝啓 ミャオ様


 ミャオ、ごめんね。オマエをまた、ひとりぼっちにしてしまって。いつものこととはいえ、私との別れで、オマエは、また、一転してノラの生活へと、逆戻りすることになったのだ。
 後ろ髪を引かれる思いで、オマエと別れた私だけれど、いつも、そんなつらい境遇にオマエを追いやるしかない、自分が、ただただ悲しい。
 二日前の朝、少し早いけれど、いつもの散歩にとオマエを連れ出した。しかし、私は出発前で急いでいたから、途中でひとり家に戻り、家の戸締りをしていたところ、開けていた玄関から、突然、オマエは走りこんできた。
 いつもなら、そのまましばらく、野原で過ごして、午後になって戻ってくるのに、オマエは、いつもと違う私の気配を感じたのだろう。
 仕方なく、キャット・フードを器に入れて、オマエの体ごとベランダの外に出し、内側からドアの鍵をかけた。さらに、玄関のドアの鍵もかけて、外に出た。
 気になってベランダのほうに回ると、オマエは振り返り、私を見て、ミャーと鳴いた。許してくれ、ミャオ。私は、急ぎ足で家を離れた。
 バス停までの、20分ほどの道のりの間、振り返って私を見たミャオの顔が、何度も目に浮かんだ。

 「神様、飼い主である私のために、このネコをお助けください。風の中の草をお助けになるように。飼い主が、心の中で泣いておりますれば・・・。」(フランシス・ジャム『子供の死なぬための祈り』より転用)

 同じように、いつも思い出すことだが、それは私の子供の頃の、去っていく母の思いでもあったのだ。(去年の5月11日の項)
 まだしばらくは、ミャオのことを思うつらい気持ちから、離れられないだろう。しかし、そうしてばかりもいられない。戻ってきた、北海道での毎日があるからだ。

 二日前に、私は、さわやかな青空が広がる、北海道の十勝に帰ってきた。ただ、さすがに3週間も留守にした家のまわりには、一面に草が生い茂っていた。
 家に入ると、ひんやりと涼しい。夕方の外の気温が、23度もあるのに、家の中は16度くらいだ。
 そして、昨日今日と、朝早い時間に、草刈をした。まだまだ残りがあって、1週間くらいはかかるだろう。しかし、汗をかいても、家の中に戻れば、冷房が効いているような涼しさだ。
 しかしこの二日、帯広では30度を越える暑さになっている。もっとも、そこからはずっと離れた田舎にある我が家は、さらに、樹々に囲まれているから、ひと夏を通じても、30度を越えることは少なくて、いつも帯広よりは2、3度くらい低い。
 夏の日差しは、ここでも暑いのだが、日陰や家の中では、サラッとして涼しいし、同じように夜も涼しい。これが、私が北海道に住みたいと思った理由の一つでもある。
 話を聞けば、この3週間、つまり私が九州に居た間、ここ十勝地方では天気が悪くて、気温が低く、なんとストーヴに火を入れるほどだったとか。九州では、梅雨とは思えない、連日の晴れの日が続いていたというのに。

 庭には、白いフランスギクや、紫や桃色のストック(のぼりふじ)の花が咲いているし、藪(やぶ)のようになってしまった生垣には、ハマナスの赤い花がいたるところに咲いている。
 日中は暑くて、外での仕事はやりたくない。カメラを持って、家の周りを歩く。野原には、点々と、ヒオウギアヤメ(写真)とエゾフウロ(写真・後)の花が咲いている。青空の下、吹き渡る風が心地よい。ミャオがいない寂しさは、何とか他のことで紛(まぎ)らわせるしかないのだ。

 今朝早く、NHK・BSで、3年前の、鈴木雅明指揮によるバッハ・コレギウム・ジャパンの、神戸・松蔭女子大チャペルにおける演奏が、放映されていた。
 この組み合わせの演奏は、前にも何度か、テレビで放送されていたが、やはり何度聞いても良い音楽だと思う。バッハが好きな演奏家たちが奏でる、バッハの音楽を聞くことは、バッハの愛好家たちにとっての、この上ない喜びなのだ。
 オルガン・コラール前奏曲からの一曲と、管弦楽組曲・第一番からの曲を、間に挟んで、前後に、教会カンタータの第128番「ただキリストの昇天のみが」と、第74番「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」が演奏されていた。
 この二つのカンタータの、ソロ・アリアの楽章の、何という純粋な天国的な美しさ・・・チェロとオルガンの通奏低音の上に、ソロの歌声と、オーボエのメロディーが入れ替わり立ち代り、告白の言葉をつむいでいくのだ。
 
 バッハの四つの声楽の大曲、「マタイ受難曲」に「ヨハネ受難曲」、さらに「ロ短調ミサ曲」と「クリスマス・オラトリオ」、そして、器楽曲の「平均律クラヴィア曲集」と、無伴奏のヴァイオリンとチェロのためのそれぞれの六つの曲。
 それだけあれば、他に音楽がなくても、、私は心安らかに生きていける気がする。やはり、私にとって、いかに他の様々な曲を聞こうとも、帰するところは、野原の中を駆け巡るような、時には明るく、ある時は哀しい、あのバッハのせせらぎの音なのだ。
 つまり、私には、バッハは確かに、小川(BACH)ではなく、すべての音の響きの源たる音の大河なのだ。


 ところで、このテレビでの演奏の、二番目に弾かれたオルガン・コラール前奏曲は、第727番「わたしは心から待ち望む」である。
 ミャオ、私は、オマエとまた元気で会えることを、心から待ち望んでいる。元気でいてくれ。

                     飼い主より 敬具


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