7月15日
拝啓 ミャオ様
ようやく、曇りと雨の長い日々を抜けて、ぽっかりと空に青空が広がったように、快晴の日がやってきた。晴れるだろうということは、前日の天気予報でも分かっていたのだが、それでも、その朝になって晴れている空を見た時は、気持ちまでも、その空の彼方へ、山の上へと舞い上がっていくようだった。
朝、気温は11度にまで冷え込んでいた。そして夜明け前の空に、低い霧がただよい、その上に、日高山脈の山々が立ち並んでいた。確かに、予報どうりの天気で嬉しかったのだが、一方では、目の前の日高の山々にも少し未練があった。
というのは、今の季節は、どうしても、様々な花に彩られている大雪山のほうに足が向いがちになるからだ。まして、テントを持っての重装備で、沢から上がることを考えると、寄る年波で体力の落ちた今では、日帰りの沢登り以外の夏の日高縦走には、なかなか踏み出せないというところが本音だ。
山の見える傍に住んでいながら、登らないというのは、それらの山々に申し訳ない気もする。私が日高第一の山だと思っている、カムイエクウチカウシ山(1979m)に最後に登ってから、もう十年以上にもなる。
あの1903m峰の肩からの、カムイエクの雄姿を今一たび見たい、とは思っているのだが、果たしてその4度目にして恐らく最後になるだろう、カムイエクの頂にたつ日は来るのだろうか。
(世間では、昔からカムエクという愛称で呼ばれているが、同じ短縮形として言うなら、私は言葉の区切りから、カムイエクと呼びたい。)
ただし、今回の天気で、日高の山に向かわなかったのは、他にも理由がある。昔は七ノ沢まで入れた林道が、今ではそのずっと前で通行止めになり、1時間半以上も林道歩きをしなければならないということ。
さらに前回の時には、一日目にカムイエクの頂上にまで上がったのに、今はとてもそんな元気はない。さらにいえば、その前の日の大雨で、沢は入れないほどに増水しているだろうし、まして、天気も今日を最高に、明日は雲が増え、明後日になると、小さな雨のマークさえついていたからでもある。
そんな自分への言い訳をしながら、ずっと離れた所にある大雪へと、クルマを走らせる。途中、糠平(ぬかびら)付近から、快晴の空の下にウペペサンケ山、ニペソツ山、さらには石狩連峰と、次々に東大雪の山々の姿が見えてくる。
この三国峠越えの国道は、四季折々に姿を変える山々の姿が眺められて、何度通ってもあきることはない。
登山口の、高原温泉の広い駐車場はガランとしていた。営林署やヒグマ情報センターなどに勤めている人たちの車を除けば、旅館の前の車を入れても、数台ほどの車が停まっているだけだった。
7時前、近くの噴気硫黄臭のにおう登山口から、歩き始める。前回に山に登ったのは、九州にいたときの三俣山(6月18日の項)以来だから、なんと一ヶ月ぶりということになる。
エゾ、トドマツのひんやりとした木々の間の急坂を、ゆっくりと登って行く。前後には誰もいなくて、ルりビタキやビンズイ、そして離れた所で、ウソの鳴き声が聞こえている。
すぐに見晴台に着く。高原温泉の谷を隔てて、忠別岳(1963m)へと続く、緑と残雪に彩られたカルデラ壁の山稜が見える。
いいなあ、山は、やっぱりいいなあ。日ごろから木々に囲まれた、田舎の一軒家に住んでいても、やはり山に登るのは気分が良いものなのだ。
さらに、ここからの登りは、少し前まではぬかるみの道で、長靴の方が良かったくらいだったのだが、今では立派な木道や木枠が敷かれていてずいぶん楽になった。
登って行くと、視界が開けて、第一花畑の雪の台地に出る。行く手には、大きく緑岳(2020m)から小泉岳(2158m)、東ノ岳(2067m)へと続く山稜が横たわっている。
ゆるやかに傾いた雪渓斜面には、はるか彼方まで人の影もない。木道の隠れる辺りから、雪の上に足を踏み出し、あわせて四ヶ所にも分かれた雪渓をたどって行く。
雪の大好きな私には、大雪山への様々なコースの中でも、今だからこその、夏の時期に歩きたい道の一つでもある。しかし、この広大な雪渓が大分溶けるころの、8月半ばころになって、ようやくエゾコザクラの大群が赤く辺りを染め、他にも遅ればせながら、チングルマやエゾツガザクラ、アオノツガザクラなどが咲いて、一大お花畑になるのだ。
ひとりっきりで歩いて行く青空の下の、広い雪原の何と心地よいことだろう。行く手には、緑岳の大きな山体があり、その右手に、この大雪山を囲むように屏風(びょうぶ)、武利(むりい)、武華(むか)の山なみが連なり、振り返ると、遠く音更・石狩連峰と、鋭い頂を傾けるニペソツ山(2013m)が見えている。
雪渓が終わると、高いハイマツの茂るトンネルの道を、ぐるりと山腹をめぐるように回り込み、潅木帯を抜けると見晴らしが開け、いよいよ緑岳南面の、一大岩塊斜面の登りになる。
そこで、今日初めて出会ったツアー客団体らしい7,8人を抜いて行く。傍らには、イワブクロやメアカンキンバイの花が咲いていて、振り返るたびに、高根ヶ原から、忠別岳、さらに彼方のトムラウシ山(2141m)の姿が、次第にせりあがってくる。
少し汗もかいていたが、さわやかに吹きつける風が心地よく、何より頭上を覆う青空が嬉しい。遠くには、阿寒の山や、日高山脈の連なりも見えていた。
3時間足らずで、緑岳の頂に着く。トムラウシ方面の眺めはもとより、ここでようやく見える、残雪を刻んだ旭岳(2290m)と白雲岳(2230m)の姿が素晴らしい。一休みした後、ゆるやかな稜線をたどって行く。
もうホソバウルップソウやエゾオヤマノエンドウ、イワウメ、タカネスミレ、チョウノスケソウなどの主な花たちの盛りは過ぎていた。その代わりに、赤いエゾツツジが点々と広がり、所々に、黄色のチシマキンレイカや白いイワツメクサの花がアクセントをつけている。
分岐の所から、白雲岳避難小屋の方へ降りて行くと、小さな流れの傍には、キバナシオガマ、白いエゾノハクサンイチゲにチシマクモマグサ、さらに赤いエゾコザクラの小さな群落もあった。
白雲岳分岐付近から続く大きな雪渓を横断して、小屋に着く。ゆっくりと花を見て山を楽しむためには、今までにも何度も泊ったことのある、この小屋に今日も泊まるのが一番なのだが、天気が心配なこともあって今回は日帰りの計画にしたのだ。
さてそこで、またしてもの十名ほどのツアー客たちが、同じ方向に向かうのをやり過ごすために、雪渓を掘って作られた水場で、冷たい水を補給する。二張りのテントがあり、休んでいる大きなザックの登山者もいた。
小屋の管理人の若い彼と、今年の雪や天気やヒグマの話をする。今年はまだ見かけないが、去年は親子三頭連れが辺りをうろついて大変だったとか。
幸いにして、この北海道ではもう何十年もの間、登山者がヒグマに襲われ殺された事件は起きていないが、私の住む十勝平野の真ん中、帯広近郊の防風林の所で(あんな人里でと思うようなところで)、つい一月ほど前に、山菜取りの人が、ヒグマに襲われて犠牲になっているのだ。
鈴をつけて用心するにこしたことはない。(’08.11.14の項参照。)
さて、白い花の咲くウラジロナナカマドの潅木帯や、大ぶりの黄色いチシマノキンバイソウの群落の傍を抜けると、眼前には、高根ヶ原からトムラウシ山へと広大な光景が開けて、道の左側はゆるやかな雪渓が続いている。雪が大好きな私は、道を離れてその雪原の上を気持ちよく下って行き、再び登山道に出たところで戻る。
いよいよ、高根ヶ原の風衝地(ふうしょうち、年間を通じて風が強く当たる裸地)の、花々を見ながらのトレッキング道になる。そして、長らく通行止めになっている三笠新道の分岐辺りから、所々にコマクサの群落が目につくようになる。
残念ながら旭岳には雲がかかってきたが、石狩連峰や、トムラウシ山を背景にして、なかなかに絵になる眺めだ。他にもチシマゲンゲやクモマユキノシタなどの群落もある。
しかし、もう12時半だ、自分の体力と帰りのことを考えると、ここが限度だった。つい何年か前までは、まだ先のあの大好きな忠別沼まで日帰りで往復していたというのに。
従走路を行きかう人と挨拶(あいさつ)を交わしながら、その一人から先ほど、三笠分岐のところで、ヒグマが横断するのを見たと聞かされた。この辺りは、ヒグマが目撃されることの多い所なのだ。
さてこのまま、登り道を小屋まで戻って行くよりは、直接緑岳の分岐へと雪渓をたどって近道した方が良い。そして緩やかな雪の斜面を下り、谷に下りて、そこから再び雪渓を登り返す。雪のある時期にしかできないルートだ。振り返ると、数mもの高さの雪渓の彼方に変わらず、トムラウシ山が見えている(写真上)。
分岐へと登り返し、もう人影もないなだらかな稜線をひとりたどって行く。午後のやわらかな光線が、行きとは違った光景に見えて、何度も立ち止まっては写真に収めた(写真下、旭岳と白雲岳)。
緑岳に登り返し、さらには岩塊斜面をただひたすらに下っては、再びあの雪渓帯に出て、雪をすべるように歩いて行く。しかし、最後の、木枠道の急な下りのところに差し掛かると、とうとう両膝(ひざ)に限界がきた。
余りの痛さに、足を横にして、カニ歩きをするしかなかった。あの、九重、黒岳・平治岳(6月10日の項)の時と同じだ。
そしてやっとの思いで登山口にたどり着く。もう5時前だった。往復、10時間。つい何年か前までは、同じくらいかかったけれども、さらに往復3時間くらい先の忠別沼まで行ったのに。
しかし今日の行程は、やはり長すぎる。小屋泊まりにするか、もっと短く7時間くらいですむ所にしなければいけないのに、山登りに関しては、何というごうつくばりなバカおやじなのだろう、私は。
まさにそれは、広沢虎造の浪曲『清水次郎長伝』の中の、「石松三十石船」の一節、「馬鹿は死ななきゃ直らない」の、お粗末な一席だったのだ。
二日後の今日、さすがに筋肉痛で、よたよたの状態であり、情けない限りだ。こんな状態で、果たして来週に控えた、本州遠征の山旅に耐えられるだろうか。
ところで昨日の新聞の文化欄に、フランスの経済哲学者、セルジュ・ラトゥーシュの書いた『経済成長なき社会発展は可能か?』が、今月刊行されたということで、その彼へのインタヴューの要約記事が載っていた。
その内容は、「いくら経済が成長しても、人々を幸せにしないし、成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。」 ということなのだが、まさしく、それは今回のような、私の登山のし方にさえ当てはまるのではないのかと思った。
つまり、登山のための登山が、強引に目的化され、わずかばかりの喜びのために、無駄な労力が費やされ自らが危険にさえなっているからだ。
その彼が解決策の一つとして述べている、「地域社会の自立こそが必要」だという言葉は、まさしく無理をしない頼らない適度な登山こそが、私を幸せにするのだと、勝手に解釈してみた。
ともあれ、この本は、現代社会に暮らす人々が、地球環境の破壊などによる将来への不安に対して、おぼろげに考えているある方向へと、一歩踏み出すように求めている、ということなのだろうか。
彼は、こうも言っている。「我々の目指すのは、つつましい、しかし幸福な社会だ。」
それは何と、先日(6月22日の項)少し触れたことのある、あのギリシア時代のエピクロス学派の主張する所であり、その後の西洋哲学史の中では、快楽主義と誤認され、余り取り上げられることもなかったのだが、今にしてとも思うし、ましてこれは、大きく言えば東洋的な、さらに日本的な、例えばあの中世の隠者文学の思想などにも、通じる所がある考え方だ。
西洋の考え方の一つが、今、東洋的な倫理観の方向へと近づいてきたのだ、というのは言いすぎかもしれないけれど、つまりそれは、西洋のキリスト教的倫理観として、内包されているもののひとつでもあるのだから。とはいっても、ともかくこの本は一読する必要があるだろう。
さて、最後になるけれども、ミャオ、母さん、おかげで今回の登山では年甲斐もなくムリをして疲れたけれど、十分楽しんで、無事に戻って来れました。ありがとうございます。
飼い主より 敬具
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