ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ヤナギランと溶岩流

2012-09-02 17:43:55 | Weblog
 

 9月2日

 富士宮口、五合目。標高2400m、午後3時過ぎ。人々でにぎわう展望台から、さらに1376mも上にある山頂を見上げる。(写真上)
 とうとう、私はやって来た。長い間、山好きな私が、それでも今まで登らなかった山、富士山。正確に言えば、なかなか登る気にはならなかった山というべきだろうが。

 日本人が誰でも思うように、その高さからその姿から、日本一の山だということは百も承知の上で、私は長い間、富士山に登りたいとは思わなかったのだ。
 むしろ、私が今こうしてあるような山登り愛好者でなかったならば、逆に単純な気持ちで日本一の山に登ってやろうと思い、とっくの昔にあの頂きに立っていたことだろう。

 その昔のこと、志を抱いて東京へ向かう若き日の私は、明け染めた夜行寝台特急列車の窓の傍に立ちつくしていた。
 富士川の鉄橋を渡り、田子の浦の海岸付近を通る鉄道の線路から、掛け値なしの高さで、高まりそびえ立つ白銀の富士の高嶺・・・。
 3700m余りもの信じられない標高差で、それもさえぎるものもなく真っ正面に、これほど高い山を見上げたのは、私には初めてのことだった。
 自然界が作り上げた、その余りにも巨大な高まりを前に、私はただ言葉もなく立ちつくすばかりだった。まるで初めて神の奇跡を目の当たりにした人のように・・・。

 その後長く住むことになった東京の街から、晴れた日の朝夕には、西の空に富士の姿を探すのが、私の楽しみの一つになった。
 そこで山行を重ねた奥多摩や秩父、上信越の山々、さらに八ヶ岳、北アルプス、南アルプスなどの山々の頂から、まず最初に目が行くのは、富士の見える方向だった。

 しかしそれでも、富士山に登りたいとは思わなかった。それは、山が高いからでも時間がかかるからでもない。私には、富士山はその神聖な美しい姿のままに、あくまでも遠く近くに眺める山であったからである。
 とは言いつつも、一方では自然そのものであるべき山頂に、現代科学技術の象徴たる大きな気象レーダー・ドームが鎮座しているのも気になっていた(それが気象予報に欠かせないものであったにせよ)。
 さらに、山岳鑑賞派の立場から言えば、他の山々よりははるかに高い独立峰であるがゆえに、頂上からの展望は俯瞰(ふかん)するだけになるだろうという心配もあった。(山々の展望の楽しみは、同程度あるいは少し低いところから、その対象の山を見て鑑賞する所にあるのだ。富士山はひとり高すぎるのだ。)

 そして富士山に登る時の、山登りそのものの楽しみ方にまで、その思いが及ぶのだ。つまり富士山は、私が目指す、できるかぎり静かな登山からは遠く隔たった所にある大衆娯楽的な楽しみ方の山であり、あえて言えばそのテーマ・パーク的な雑踏を何よりも恐れたからである。
 それならば、混みあう夏に登らずに、雪の降り出す秋から積雪期の冬、そして大量の雪が残る春などの時期に登ればいいのだろうが、そこはヒマラヤ遠征の氷雪訓練が行われるほどの山であり、今までに何人もの死者が出ているのだ。
 つまり、その山の形からして、頂上から一気にふもとまで続く氷雪の斜面は、一度スリップしたらただ奈落へと滑っていくだけであり、そのことは、ザイル仲間もいなくていつも単独行動している私を、躊躇(ちゅうちょ)させるには十分なものだった。

 以上の様々な理由から、私は今まで富士山に登らなかったのだが、それがなぜ今になって、富士山五合目に降り立って、山頂を目指す気になったのか。
 理由は一つ。年を取ったからである。

 振り返る過去は、余りにも長い歳月だったのに、向うべき未来には、どれほどの年月が残されているかもわからない。
 年を取れば、それだけ長年培(つちか)ってきた自分の思いにとらわれ、物事に執着しては偏屈(へんくつ)になっていき、大きくふくらんだ自分の殻(から)の中に閉じこもるものなのだ。その外に見える死の世界・・・。
 それをなるべく見ないようにと、過去の思い出の糸を吐き出しながら自分の殻の内側を覆い、今の仕事に没頭しては生きているのだ。

 私には、さらなる今を生きるために、より多くの過去となるべき思い出作りの糸が必要だったのだ。それでも年寄りの冷静さで、自分のできる範囲内で、まだ体力のある今のうちにと考えたのだ。
 そこには、日本一の山という、さらなる勲章飾りを求める年寄りの強欲さもあっただろうし、世界遺産なんぞに登録されたら、ますます混雑することになるだろうからという思いもあったからだ。

 私は、7月の山開き前から、ネットや雑誌などで富士山のことについていろいろと調べたあげく、登山者が少なくなるであろう8月下旬に、どのみち九州の家にも帰らなければならないし、その旅の途中に登ることにしたのだ。もちろん、天気予報を調べたうえで、その日を決めた。

 飛行機で北海道から東京に着き、乗り換えて新幹線の品川駅に、しかしそこで、予定していた時間の”こだま”には間に合わなかった。
 空港での預け荷物の受け取りに時間がかかるので、手荷物としてまとめられるだけの大きさのザックにして、機内持ち込みができない登山用ストックさえも置いてきたのに。

 そして新富士駅に着いたが、一電車遅れたために、次は3時間近く待って夕方の最終バスがあるだけだ。ここで降りた登山客は、若い外国人一人だけだった。話しかけてみるが、当然彼はここで待ってバスで行くという。
 私は、相乗りもあきらめて、大枚一枚をひとりで払うことにしてタクシーに乗った。お金で時間を買うことにしたのだ。
 ドライバーは御婦人だった。彼女に頼んでスポーツ店に寄ってもらい、登山用のストック一本を手に入れた。(登山口で買えるだろう富士登山でおなじみの金剛杖を持って登りたくはなかったからだ。)

 富士宮口五合目までの1時間20分ほどの間は、彼女といろいろな話をしていて、そんなに時間がかかったとは思えなかった。
 しかし、もう登山者は少ないだろうと思っていたこの時期なのに、五合目駐車場までの路肩には、かなり下の方まで路上駐車の車が並んでいた。夏のマイカー規制が終わって(知らなかった)、どっとみんながやってきたのだ。

 まるで避暑地の観光地のようににぎわう五合目から、私は歩き出した。まだ3時半にならないくらいだから、今日の目的の新七合目には、5時までには着くだろう。
 今の時間には下から雲が上がってきて、ガスに包まれることの多い山の天気としては、悪くはなかった。青空があちこちに見えていたし、右手には宝永山火口の稜線も見えていた。
 今の時間でさえも、こんなに多くの上り下りの人々が行きかう道に、うんざりしていた私の目に華やかな色の一群が目に飛び込んできた。(写真)

 

 灰色や赤茶色の火山礫(れき)の斜面に、点々とオンタデやイタドリの緑が散在し、その緑が密集した一隅に、それだけに目立つ、濃い桃色の花をつけた一群があったのだ。その立ち姿から、ヤナギランらしかった。
 しかし、私が今まで目にしてきたヤナギランは、もっと高度の低い1500m前後の高原地帯であった。こんな火山礫地の標高2500mもあるような所にと、その時には半信半疑だったのだが、後で調べてみて、数少ない富士山の花の中にも、ヤナギランの名前があったのだ。

 1時間余りで、新七合目の小屋に着いた。標高2790m、高山病にならないためにもここで一晩過ごせば、幾らかは順応できるはずだ。
 比較的きれいな小屋で、宿泊者も少なく、二畳分一ますで区切られていて四つの枕があり、混んでいる時には四人で寝るのだろうが、私一人だけに割り当ててくれた。
 ただし食事は、富士山の山小屋の定番メニューのカレーだとしても、ご飯とルーだけ、あとはお茶が一杯というのは、少し物足りなかった。せめて彩りの野菜と、インスタントの味噌汁くらいは欲しかった所だ。

 前回の南アルプスの山行の所でも書いているように、最近の山小屋の食事は昔と比べれば格段においしくなったのに、これでは余りにも貧弱すぎる。もっともその分、一泊二食(朝食はおにぎり弁当)の料金が南北アルプスの山小屋と比べればずいぶんと安いのだ。
 この食事のための食材などの物資の運搬は、南北アルプスなどで使われているヘリコプターが気流の影響で使えないので、少量しか運べないブルドーザーに頼るしかなく、そのためなのかもしれないが。
 さらに言えば、昔は悪く言えば垂れ流しで、その後も溜め置き式だったトイレが、すっかり清潔なトイレになっていて、その設備のために多額の費用がかかっていて、経費削減の余波を受けているのかもしれない。(当然のことながら、富士山のトイレはすべて有料である。)

 夕方、外に出ると、小屋の裏手に斜光線に照らし出された溶岩流の見事な連なりが見えた。それはまるで、火山の造形見本になるような、溶岩の流れを示していた。(写真)

 

 遠くから見ると、優美な線を引いてそびえる富士山だが、その山肌は、ザクザクの火山礫だけではなく、巨大な噴石やこうした溶岩流の塊、さらには繰り返された噴火の跡を示す重なった地層などがむき出しになっていて、まだ新しい火山の噴火の痕跡(こんせき)をあちこちに見ることができるのだ。
 気の遠くなるような地球の歴史から比べれば、まだほんの少し前の時代に噴火がおさまっただけの、新しい火山であり、昔地学の時間に教わった死火山ではなく、休火山であり、最近では、東海・東南海地震に連動して噴火するかもしれない活火山だともいわれているのだ。

 とすると、この富士山の地質学的な歴史からいえば、今の美しい姿は、ほんのひと時の仮の姿かもしれない。
 さらに今の富士山の山体は、一般的に川や沢によって浸食されていく他の山と違って、全表面的な雨や雪の浸食だけでなく、風化などによる浸食作用の力も大きく、特に西側の大沢崩れが今やお鉢稜線にまで迫ってきているし、北側の吉田大沢も落石が繰り返され、少しづつ崩壊が始まっているようだ。

 今だけの、仮の姿の美しさ・・・いつか噴火して、あるいは崩壊してゆく不安を抱えて、それだからこその今ひと時の美しさが、今のうちに登っておかなければという人々の思いと重なるのかもしれない。

 夕日は、西側の山体の稜線に隠れて見えなかったが、下界の上にある積乱雲は次第に収まり、明日も晴れてくれるだろう。
 
 その後で、食事の時に同席した同年代の父親と女子大生娘の二人連れと、食事の後もしばらく話が続いて、話題は、山の話から若い時にできること、果ては宗教の話にまで及んで、なかなかに考えさせられる意義あるひと時だった。
 明日は午前1時に起きて登り、頂上でご来光を迎えるつもりだという二人とともに、7時半には部屋に戻り、床についた。

 しかし、いつものようになかなか眠れない。そのうえに、幾らかの高山病の影響からか少し頭が痛かったが、心配するほどではなかった。
 むしろ、明日の頂上からの展望がどれほどのものかという期待と、そしてその後そのまま下山するのか、それとももう一晩頂上の山小屋に泊まって、こちら側からは少し隠れてしまうご来光を改めて見直すのか。

 考えても始まらない。すべては、明日の天気と体調次第なのだから・・・いつしかうとうとと、眠りに入っていくようだった。

 (次回へと続く。)

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