ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

いい季節だなや

2023-04-27 22:35:56 | Weblog



 4月27日

 ”・・・早咲きのリンゴのはなッコがさくころは、おらだちのいちばんたのしい季節だなやー”

(「リンゴ追分」小沢不二夫作詞 米山正夫作曲 美空ひばり歌 1952年)

 ”リンゴの花びらがー風に散ったよなー”の歌い出しで知られる、美空ひばりの歌う『リンゴ追分』の、間奏部のセリフであるが、いつも今頃の季節になると思い出してしまう。

 その昔、東京での仕事を離れて、いったん母のいる九州に戻り、それでも北海道に住むことをあきらめきれずに、そこから毎年北海道へと一往復するようになったのだが。
 しかし、九州と北海道の間の距離、2000㎞は遠い。当時、飛行機には今のような大幅割引はなく、おいそれと乗れるものではなく、時間はかかるが寝台列車の乗り継ぎで、何とか北海道は十勝へとたどり着くようにしていたのだ。
 ただ途中で、東京の友達の家に泊めてもらって、そこで何日かを過ごしたりして、つまり、映画を見たり美術館やクラシックのコンサートに行ったり、大きな本屋で本の探し物をしたりと、それはそれなりに、自分の文化芸術嗜好の愉しみの、いくらかの補給にもなったのであって、まあそうした旅行も、若い時だからできたことなのだが。
 もちろん、長距離旅行ゆえに見るべきところも多くあって、毎年でも見飽きることもなかったのだ。例えば寝台列車の広い車窓から見える富士山や、青函連絡船から見える函館山、北海道上陸後に列車に乗り換えて、風光明媚な大沼を前景にした渡島駒ケ岳(おしまこまがたけ)の姿を眺めてなど、忘れがたいものばかりで。(飛行機で往復している今では上空からのジオラマ風景としてしか見られないのだが。)

 ところで、そんな寝台列車の旅のルートは、通常の東北本線だけではなくて、日本海側の景色も見たくなっては、遠回りにはなるが、何度か奥羽本線側を選んだこともあった。
 いつもは、東北本線から連絡船へとあわただしく乗り換えるだけで、青森、弘前で途中下車をして、街中を見て回ることもなかったのだが、ある時思いついて、有名な弘前城を見に行ってみることにしたのだ。
 それは連休前のことで、まだ桜の満開には少し早くて、ちらほらの状態だったのだが、そんな静かな城内を散策して、西側に開けたところに出た。そこには、私の期待していた展望が広がっていた。
 白い花が咲いているリンゴ畑が見えて、遠くには、山という漢字の形そのままの姿で、残雪の岩木山が見えていた。

 そこで、冒頭にあげた「リンゴ追分」の歌を思い出したのだ。
 この歌は、詞に曲に歌手にと見事にそろった名曲であり、日本の不世出の名歌手である、美空ひばりを代表する一曲だとも言えるのだが、この時、彼女は何と15歳の少女だったのだ。
 もともと、彼女の歌はすべてが、彼女の名歌唱があってのものであり、他の歌手の歌では聞きたくはないと思えるほどの、唯一無二の歌手であったのだと思っている。
 そして私は、彼女がいた同じ時代に重なって生きていたから、彼女の歌を知り聞くことができたのだし、同じようにまた、2023年のWBCの野球決勝で、大谷翔平があげた雄たけびを聞くことができたのも、この日まで私が生きていたからこそのことなのだろう。

 つまり誰でも、自分が生まれる以前のことなどは、資料や映像で知るだけのことで、本当のところなど分かりもしないし、これからいつ訪れるともわからぬ、死後の世界、自分の意識が遮断され、存在自体が消失した後のことなどは、知りようもないことだし、生きていることとは、日々の出来事を、自分の意識のもとで判断できるからのことなのだと思う。
 これまで自分が生きてきた人生は、人間それぞれにあたえられた期間内のことであり、例えば美空ひばりの生涯を例にとれば、それは、単に(1937~1989)とカッコで区切られた歳月で表記されることでしかない。
 つまり、個々にとっては、様々な形でその期間内にあてはめられた人生があるのだし、そこには、生まれ落ちてすぐに死にゆく赤ん坊から、そしてまだ子供の時に、大切な青年時代に、働き盛りの時に、年老いてから、それぞれに様々な理由で、自分の人生を終え、あるいは終わらせられる人々がいるということだ・・・人生の寿命などは平均化された座標に過ぎず、他人と比べることもないのだろうが。

 ならばだ。その不確定なる人生を、年寄りはどう生きていくべきなのか。
 そこで、前にもあげたことのある、『万葉集』のあの大伴旅人(おおとものたびと)の一首を。

 ”生ける者 つひにも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな”

(『万葉集(一)第三巻三四九 中西進訳注、講談社文庫)

 現代語に訳する必要もない有名な歌であり、古今東西を通じての、万人の思うところなのではないだろうか。
 この歌は、『万葉集』の ”酒を讃(ほ)むる歌十三首” の中の一首であり、酒好きな人たちにとっての、時代を越えての酒飲み賛歌集になっているのだ。

 私は、山登りの後などにビールを飲む程度で、酒に浸るほどのタイプではないのだが、この歌にあるのと同じような気持ちで、残り少ない人生を、質素でつつましやかに、しかし自分の心のうちでは、楽しく生きていければ良いと思っている。
 一日一日が、何事もなく静かに平穏に過ぎてゆくこと、それが年寄りにとっては一番なのだ。

 朝、洗濯をして青空のもとで衣類を干し、坂道の散歩に出かけては、遠くの山々を眺め、四季折々の草花や樹々を見ては悦(よろこ)びにひたり、家に戻ってきては、バッハを聴きながらうたた寝をして、合間合間に日本の古典文学(今は冬からの『枕草子(まくらのそうし)』をようやく読み終えるところだ)を少しづつ愉(たの)しみながら読んでゆき、簡単な夕食を作って食べ、少しテレビを見て、寝る前に温かい風呂に入り、ベッドの上で本を読みながら、眠りにつく。
 簡単な衣食住があって、ともかくは自分で動き回れる健康さえあれば、それだけでも結構なことだ。

 私は、鈍感な人間ゆえか、そんな単純な毎日の繰り返しでも、寂しさや退屈さを感じることもないし、そして外に向かっては、自分の出処進退をわきまえていたからこその、今の平穏があるのであり、他人の迷惑にならぬように、静かに生きてゆくことができれば、それだけで十分だと思っている。

 前回の記事から、何と3か月もたってしまった。
 何かあったわけではない。ただぐうたらな怠けぐせがついて、毎日が、おおむね穏やかに流れて行くのに、身を任せていただけのことで。
 手術したところからの、病気の転移はまだ確認されてはいないが、年寄りゆえか、体中のあちこちに不都合な個所が出てきて、その度ごとに病院に行ったり、ネットで調べては、疑心暗鬼(ぎしんあんき)になってしまったりもしたが。
 ただし、現実に転移が見つかったとしても、もう歳だし、その時が寿命だと思うしかない。根は単純な脳天気じじいだから、ニワトリがココッと鳴いて首を振るごとに、前のことを忘れ、産んだ卵のことも忘れてしまうと言われているように、私の心配も一晩寝れば忘れているだけのことだ。人はそれを、年寄りの物忘れだという。

 このブログも、その認知症予防のボケ防止のために、つまりは自分の健康寿命を延ばして生きていくためにも、これからも書き続けなければならないのだと、久しぶりにこの原稿を書きながら思ったところです。ココッ!

 ”走れ走れコウタロー”のごとくに走っていくこと・・・そういえばあの山本コウタローさんも去年お亡くなりになったし、私には前回書いた東京の友達のことが、いまだに信じられなくて。
 ”おまえ、ほんとうはまだ東京の家にいるんじゃないの。”

 ともかく、今まで思いのままにため込んできた様々なことがらが、あれやこれやとあって、これからは自分のためにも、なるべく早く書いていきたいと思っているのだが・・・。

(写真上は、咲き始めた庭のツツジの花。写真下は、散歩途中新緑の山の斜面にフジの花が点々と咲いていた。)