ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

彼岸花

2020-09-24 21:43:53 | Weblog



 9月24日

 前回の記事を見てみると、一月近くも前の暑い日が続いていたころだ。
 思い出したくもない、あのまとわりつくような高い湿度の熱気・・・私は、若いころから寒さに比べて暑さが苦手だった。
 もちろん夏にも山に登っていたが、それは北アルプスや南アルプスのように、高い山の上が涼しいからであって、平地に降りてくるたびに、あのムッとする熱気に包まれて、うんざりしたものだった。
 かと言って、海や川が嫌いだというのではない。泳ぎは得意で、何キロもの遠泳をすることもできるほどなのだが、もう最近は何年も海や川に行っていないし、むろん泳いでもいない。
 今さら、いい所を見せようと泳ぎに行ったところで、不慣れな水の中の運動で足がつったりして、危ないだけだ。年寄りには、”君子危うきに近寄らず”ということで、ただ眺めるだけにしておいた方がよさそうだ。

 さて、そんな記録的な暑さに加えて、コロナ禍さらに検定試験受講などもあって、この夏は家にいただけの思い出しかない。
 しかし、それを不運だ不満だと思った所で、自然のなせるわざに対しては”せんなき”ことで、それよりはむしろ逆の見方をして、それだからできたことや得したことがあったと考えたほうがよさそうだ。
 人は皆、日常を崩す出来事が起きて初めて、それまでの繰り返すだけだった日常がいとおしく感じられるようになるのだ。あの高橋ジョージの”ロード”の歌詞のように・・・”何でもないような事が、幸せだったと思う。”
 今もなお外出を控えて、家にいて平穏な日々を送っていることが、実は私にとっては幸せなことなのだ。

 先日、あのNHKの「歴史秘話ヒストリア」で、名匠小津安二郎(1903~1963、「東京物語(1953年)」「晩春(1949年)」「麦秋(1951年)」などの他に「彼岸花(1958年)」という題名の映画もある)監督が紹介されていたが、2012年のイギリスの映画協会主催の「映画監督が選ぶベスト映画」で、彼の「東京物語」が堂々の第1位に選ばれているほどだが、彼が戦後、淡々とした日常を静謐(せいひつ)な映像で描き続けたのには、戦時中に、中国大陸での死者と隣り合わせの過酷な従軍体験があったからであり、その時の辛い思いの裏返しとしての、穏やかな日本の日常風景が必要だったのだろうか。(この「ベスト映画」での2位があのスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅(1968年)」であり、3位がオーソン・ウェルズの「市民ケーン(1941年)」だったことからもその価値の大きさがわかる。

 そして、その番組の中で彼の生涯が紹介されていて(原節子との話が出てこなかったのが残念ではあるが)、同じ中国戦線で従軍していて偶然出会った、山中貞夫(1909~1938、「人情紙風船」「丹下左膳余話 百万両の壺」など)監督との数十分の語らいの時の写真が残されていたが、彼はそのまま戦場で病死することになる。
 29歳という余りにも早すぎる死・・・戦争でいかに多くの惜しむべき才能が失われたことか。

 比べて、私たちはいかに平和な時代に生まれ育ってきたのかと思ってしまう。
 何事もないから退屈だなどと思ったことは一度もない。何事もない中での平穏な暮らしこそが、生きものとして最上の暮らしなのだと思う。

 ところで今年のコロナ禍によって、いつもの北海道での日々は消えてしまったし、山々も花々も紅葉も青空も見ることはできなかった。ライブカメラで見る今年の大雪山の紅葉も変わらない光景だが・・・。
 ただ私の記憶の中には、長年にわたる(人生の半分以上の)北海道での思い出が蓄積されている。
 あの砂漠を行くラクダが、苦行の歩行の中でも、反芻で(はんすう)しながら小さな満足を自分に与えるように、私も、この今の時代の殺伐(さつばつ)とした光景の中で、ひとり思い出を反芻しながら生きていくことにしよう。それだけで十分だ。

 つまり、行動し続けることがもっと重要であった、若き日の活動すべき時期に、私は様々な冒険の日々を送ることができたし、一方ではこうして、行動的な活動を控えるようになった年寄りになって、家にいるべくコロナ禍が起きたことで、若い時の日々の経験が、何と時期を得たものだったかがよくわかるのだ。

 最近、若い男女の俳優二人が相次いで、自ら命を絶ったというニュースが流れていた。
 人がうらやむほどの容姿に恵まれ、前途洋々たる俳優人生も広がっていたのに・・・。
 私は、人それぞれの人生の区切りのつけ方に、それは個人の生き方なのだし、あれこれ言う気はないが、ただただもったいない人生だと思う、それぞれに30代という若さで亡くなってしまうなんて。
 私は若いころ、前にも何度も書いてきたことだが、フランスの作家にしてレジスタンスの闘士であり、政治家でもあったあのアンドレ・マルロー、さらにはヘミングウェイや三島由紀夫などに共通する、行動主義的な考え方から導き出された、無謀とは隣り合わせの、”生きるための死”という概念にとらわれていた。

 ただ年寄りなった今、それらに対する想いは、若き日の目の前で燃え盛る炎のごときものではなく、対岸の遠くに見える篝(かがり火)のごとくでしかないのだが、最近、死を望む難病女性に薬物投与を行って、死に至らしめたとして二人の医師が逮捕されていたが、そうした自殺ほう助の問題と相まって、さらにはそう遠くはないだろう老齢の自分の行く末のことを考えれば、生と死の問題は哲学的な意味合いだけではなく、”後始末”としての現実的な問題をも含んでいるのだ。

 ところで、こうして一年中九州の家にいたことで、私は自分の家の庭で初めて見たものがあった。
 いずれも盛夏から秋のはじめ咲く花であり、一つはサルスベリの木の赤い花、もう一つは緋色のヒガンバナ(彼岸花、別名マンジュシャゲ曼殊沙華、ユリ科ではなくヒガンバナ科に分類されるとか)である。
 ヒガンバナは、母が近くの空き地にあった球根を取ってきて植えておいたものであるが、私は今までこの時期には北海道にいて、初秋のお彼岸の時期に咲く、庭のヒガンバナを一度も見たことがなかった。
 このヒガンバナは、変わった植生の仕方で、雪も積もる寒い冬の間は青々と茂った葉が目立つものの、春には枯れ始めて、夏には盛り上がった球根だけが残っていた。
 春から秋にかけて北海道にいた私が知っているのは、そこまでだった。
 そしてこの秋の初めに、庭の片隅に、緑の茎が伸びて、その先にいくつものツボミをつけている草花を見つけて驚いた。(写真上)
 私は、そこにヒガンバナのむき出しの球根があるのを知ってはいたが、その先のことは知らなかったのだ。
 そして数日を待たずに、そのつぼみが開き始めて(下の写真上)、さらにあっという間に、ほとんどのツボミが開いて、緋色繚乱(りょうらん)の華やかさになった。(下の写真下)





 何をか言わんや。
 この記録的な猛暑になった今年に、それも九州の家で脂汗を流しながら耐えてきたことへの、”倍返し”がこれだったのだ。ありがとさーん(坂田師匠の古いギャグ)。
 百の辛いことがあっても、一つの幸せで、人は耐えていけるものなのだ。
 さらに満開になったこのヒガンバナに、ある日、大きな蝶が飛んできて蜜を吸っていた。
 大型の蝶、カラスアゲハだ(昆虫初心者でしかない私にはミヤマカラスアゲハとの区別はつかないが、写真下)



 それは、カラスという名前をつけたくないほどの見事な瑠璃(るり)色と、ヒガンバナと同じ緋色の斑紋をつけていた。
 しかし、よく見ると、そのチョウの右側の後翅(うしろばね)の突起部分が大きく欠けていた。
 それは飛び回る時の舵(かじ)の役目をするためのものかもしれないし、7,8月に孵化(ふか)した夏型のチョウだろうが、一部ボロボロになっても飛び回り、ひたすらに吸引食事をしているそのチョウの姿に、私は胸打たれてしまった。
 生きものとして生まれてきたものにとって、目的はただ一つ・・・”生きる”ということだけなのだ。

 それなのに人間だけが、その生きるということを深刻に問題化させ、賢(さか)しらに意味づけして、感情の制御もできずに、気まぐれな自己矜持(きょうじ)だけで生きていき死んでいく。
 そうではないだろうと思う。
 ”生きとし生けるもの”としてこの世に生を受けたものは、自分の命のかぎりに生き抜くことが、すべてのものの大前提としてあるはずなのだ。
 ただそれも、自分が比較的健康であり、差し迫る身体的環境的危機がないから言えるのであって、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の災害の中で、果たして冷静に対処できるのか、天上から降ろされた一本の蜘蛛(クモ)の糸に、われ先にしがみつくのではないのか・・・わからない。

 またこむずかしい話になってしまったが、ただこの時のチョウを見て思ったのは、どんなに自分が艱難辛苦(かんなんしんく)の中にいようとも、まずは必死で生きることなのだよ、強く教えられた気がしたのだ。

 さていつものように、ここまで書いてきて、もう十分な量だという気もするが、最初に書いておこうとしたことの半分もすんでいない。
 そこで、映画についてもう一本だけあげておきたい。それは今月のはじめにNHK・BSで放映されたイタリアの名匠フランコ・ゼフィレッリ(1923~2019)監督の作品の「ロミオとジュリエット」(1968年)である。
 もちろん、公開時から今までに何度か見ている映画ではあるが、久しぶりに見て何度も胸が熱くなり、涙を抑えることができなくなった。(鬼の眼に涙。)

 原作は言うまでもなく、あのシェイクスピアの戯曲であり、そのセリフがそのままシェイクスピア劇調に語られていて(今の若い人にはなじめないだろうが)、もしこれが現代語風な日本語吹き替え版ならば私は見る気もしなかっただろうが、しっかりと作られた舞台劇風な映画になっていたのだ。
 監督のゼフィレッリは同じイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの下で学んだ人で、その後オペラ界で舞台演出を任されるほどになるのだが、この映画でも、舞台衣装が素晴らしく、絵画などから見る当時の様子をほうふつとさせるばかりだ。特に、キャピュレット家の舞踏会の場面は、ヴィスコンティ監督の名画「山猫(1963年)」での舞踏会とともに忘れられない、豪華絢爛(ごうかけんらん)さにあふれていた。

 さらに、この映画を成功させたのは、何と言ってもジュリエットを演じたオリヴィア・ハッセーであり、原作の年齢に近い16歳という若々しい美しさにあふれていて、髪の毛の色がブロンドではなくブルネット(日本でいう黒髪)なのが、イタリア風で舞台設定にかなっている。
 彼女が、初めて現れる場面、名前を呼ばれて窓から上半身を乗り出した時、そして舞踏会で初めてロミオとジュリエットが出会い、お互いにひかれあって見つめ合う場面、その時広間では吟遊詩人によって、あの名作曲家ニーノ・ロータによる有名な主題歌が歌われていて、懐かしさといとおしさに、年寄りの乾いた目からも涙がこぼれるほどだった。さらに、教会での二人だけの結婚式をあげる場面、しかし、ロミオは両家の若者たちの争いに巻き込まれて、はずみでジュリエットの従兄を殺してしまい、この街から追放になる前に、一緒に過ごした初めての二人だけの夜、そして朝が来て二人が別れる場面。その後、良かれと仕組んだものがあだになり、ラストシーンで、ジュリエットはロミオが自分の傍らで息絶えているのを見て、自らも後を追うのだ・・・なんという若い二人の悲劇だろうか・・・もう涙はとめどなくあふれてきて、画面さえもぼやけてしまうほどだった。
(このシェイクスピアの悲劇は、さらに「ハムレット」「オセロ」「リヤ王」「マクベス」へとつながっていくのだ。)

 まだまだ他にも、マイケル・ヨーク演じるキャピュレット家のティボルトの姿は、まるであのカラヴァッジョの描いた肖像画のようで・・・などなど。
 ともかく、総合的に見て、このゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」は私の映画のベスト10の一本に入れたい映画ではあった。
 他にも多くの映画化された「ロミオとジュリエット」があり、1996年のアメリカ映画で、レオナルド・ディカプリオが演じた「ロミオとジュリエット」なども話題を集めたそうだが、日本語吹き替えの現代版ということもあって見る気にさえならない。(むしろミュージカルとして舞台をがらりと変えて、ニューヨークの場末の町ウェスト・サイドでの物語に設定した、ロバート・ワイズ監督、ジェローム・ロビンス振り付けによる「ウエスト・サイド物語(1957年)」は、今の時代にでも通用する斬新さがあった。)
 さらには、同じようにシェイクスピア劇によるというローレンス・ハーヴェイ(私には「アラモ(1960年)」の大佐役の印象が強い)が主演した1954年のイギリス映画も評価が高いということだが、私にはこのゼフィレッリによる映画があれば充分である。
 ちなみにこのゼフィレッリは続いて、鳥や魚に説教したとされるアッシジの聖フランチェスコの、清貧な生活を甘んじて受け入れながら神に仕える姿を描いた、「ブラザーサン・シスタームーン(1972年)」という佳作も生み出しているが、その後アメリカに渡り、何本かの映画を撮った後、再びヨーロッパに戻り、オペラ演出、衣装などで本領を発揮することになる。
 なお付け加えれば、この映画の最初の口上役は、何とあの本場イギリスの名シェイクスピア役者、ローレンス・オリビエである。

 それでもなお、私は変わらずに日本の古典文学を読み続けていて、今は「宇津保(うつほ)物語」の終わりに差しかかったところであるが、「源氏物語」を書いた紫式部や「枕草子」のを書いた清少納言が、当時夢中になって読んでいたというのがよくわかる。
 ちなみに、イギリスのシェイクスピア(1564~1616)が活躍したのは、エリザベス1世統治下、スペインの無敵艦隊を破り、イギリスの覇権が世界に波及し始めたころであり、清少納言(966~1025)や紫式部(970から978ごろ~1014)が宮廷に勤めて作品を書き上げたのは、平安時代の中期、藤原時代とも呼ばれたころである。
 日本の古典文学は、時代にかんがみて世界の文学と比べる以前に、それ以上の世界に誇るべき内容と広がりを持っているのだから、日本人として読み継いでいくべき精神的な遺産だと思うのだが。

 おそらくこれらの作品は、今は日本文学研究者たちとごく少数の愛好者たちだけのものなのだろうが、印刷と併せてデジタル保存が可能な今の時代、無視される時代が長く続くとしても、後年誰かがその扉を開けて、また新たな系譜をつないでいくのだろう。
 なあに、すべてにおいて、世の中そんなに捨てたものじゃないんだから。

 あの不快な夏の暑さが過ぎ、今やフリースを着こんで靴下をはく季節になってしまった。
 しかし、私の北海道は、どこに行ったのだろうか。
 CDを整理していて、久しぶりに現代音楽の Arvo Pärt(アルヴォ・ペルト、1935~)を聴いた。
 秋の雨が降っている。