(Ⅱ)サイダー瓶探し
その日の朝食後直ぐに移動して次に割り当てられた収容先は、その家から五百米ほど離れた浜辺の番屋でした。細長い平屋で土間と畳敷きとに二分割されていて、土間には暖房用の大きな薪ストーブ据え付けられていました。
此処は寝起きだけで、食事は初めての夜に泊まった網本の家ですることになったのです。
私たち割り当てられた作業は、桟橋に横付けされた漁船からの鰊運搬でした。桟橋に横付けされた漁船から陸地の加工上までの間には、トロッコ用の線路が敷かれていた。そのトロッコ押しが私たちの仕事だったのです。
珍しく時化が続いて魚場での作業は少なかった。そんな日の私たちは何もする事が無くて終日ブラブラして過ごしていた。
その内にクラスの誰かがサイダーの空き瓶集めの話を持って来た。何でも空き瓶を5本持って行くと中身1本と取り替えてくれるとのことだった。時化続きで仕事が無いのを幸いに、私たちは其処の地域全体を隈なくサイダー瓶を探し回ってうろつき始めた。日毎に食事の量が減りその内容も貧しくなって行く状況下では、例え一本のサイダーであっても私たちには充分に魅力的であった。
級友の中には大胆な奴がいて、民家の庭にまで入り込み保管している中持ち出す者や、管轄の広地村ばかりかでなく隣の村々へと出掛ける始末で、遂には村民からの苦情も出始め、教師の知る事になり一切の外出は禁止されて仕舞った。しかし食事や作業の往き帰りに上手く立ち回り、仲間同士で庇い合い教師の目を盗んで空瓶集めを続けていた。
多寡がサイダーにしろ、食料と甘い物に飢えていた上に、共同責任で仕出かすスリルが何物にも替え難いものであり、あの時のサイダーの甘さはその後暫らく忘れられなかった。
(Ⅲ)ウニ獲り
漁期が後半に差し掛かる頃になると、晴れた日が続いて絶好の漁日和かと思われる日が続いたが、何故か鰊はサッパリ獲れなくなっていた。その内ソ連監督官と漁民との間にいざこざが出始めていた。
しかしそんな事には全くお構い無しに、私たちは果たすべき仕事が無いのを幸いに、村内をうろつき廻り食事時になると、何処からとも無く現れるのです。
その日は朝早くから快晴で暖かい日であった。ちょうど大潮とかで引き潮の時刻には、かなり沖まで歩いて行けるほど遠浅となった。
野良犬のようにうろつき回ることに飽き始めて私たちは、村の子ども達に混
じって海に入った。初めての遠浅がただただ物珍しくては、衣類が濡れて行くことなど全く意に介さず、ただただはしゃぎ回っていた。
その内村の子ども達を真似て「ウニ」獲り獲りを始めた。近くの漁師が教えて呉れた方法の海水に浸してだけで怖々食べてみると、磯の香りとほの甘い美味さが思っていた以上で、その後はすっかり虜になっていた。
私は逸早く番屋に戻ってサイダー瓶を持ち出して遠浅の海に戻り、級友の間を駆け巡って、ただ面白半分に集めているだけの級友からウニを貰い受けた。
程なくしてサイダー瓶一本のウニの瓶詰めが出来上がった。
早速く番屋の物置から塩を貰い瓶詰め込み封をして、下着で包んでリュックの底の方に仕舞いこんだ。
ウニを味わっているうちに、おふくろの大好物だったのを思い出していたのである。おふくろは肉類が大の苦手で、恐らく生前中にはただの一度も食べなかった。その半面海産物は大の好物で、炭鉱街では珍しい鮫なども器用に捌いていた。物珍しげに見ている私たちに、皮の剥き方などを教えて呉れた。
私が作ったサイダー瓶のウニは、衣類で二重三重巻きにしてリュックに入れて、帰りの道中は殆ど胸に抱え込むようにして持ち帰った。家に着くなり直ぐにおふくろに渡した。母は受け取って電灯で透かして見ていたが、やおら封を切って味見を始めた。心配気に様子を見守っていた私に満面の笑みを向けた。
如何にも満足そうな母の笑顔を見て、私も心からホット息を付いた。
<終り>
その日の朝食後直ぐに移動して次に割り当てられた収容先は、その家から五百米ほど離れた浜辺の番屋でした。細長い平屋で土間と畳敷きとに二分割されていて、土間には暖房用の大きな薪ストーブ据え付けられていました。
此処は寝起きだけで、食事は初めての夜に泊まった網本の家ですることになったのです。
私たち割り当てられた作業は、桟橋に横付けされた漁船からの鰊運搬でした。桟橋に横付けされた漁船から陸地の加工上までの間には、トロッコ用の線路が敷かれていた。そのトロッコ押しが私たちの仕事だったのです。
珍しく時化が続いて魚場での作業は少なかった。そんな日の私たちは何もする事が無くて終日ブラブラして過ごしていた。
その内にクラスの誰かがサイダーの空き瓶集めの話を持って来た。何でも空き瓶を5本持って行くと中身1本と取り替えてくれるとのことだった。時化続きで仕事が無いのを幸いに、私たちは其処の地域全体を隈なくサイダー瓶を探し回ってうろつき始めた。日毎に食事の量が減りその内容も貧しくなって行く状況下では、例え一本のサイダーであっても私たちには充分に魅力的であった。
級友の中には大胆な奴がいて、民家の庭にまで入り込み保管している中持ち出す者や、管轄の広地村ばかりかでなく隣の村々へと出掛ける始末で、遂には村民からの苦情も出始め、教師の知る事になり一切の外出は禁止されて仕舞った。しかし食事や作業の往き帰りに上手く立ち回り、仲間同士で庇い合い教師の目を盗んで空瓶集めを続けていた。
多寡がサイダーにしろ、食料と甘い物に飢えていた上に、共同責任で仕出かすスリルが何物にも替え難いものであり、あの時のサイダーの甘さはその後暫らく忘れられなかった。
(Ⅲ)ウニ獲り
漁期が後半に差し掛かる頃になると、晴れた日が続いて絶好の漁日和かと思われる日が続いたが、何故か鰊はサッパリ獲れなくなっていた。その内ソ連監督官と漁民との間にいざこざが出始めていた。
しかしそんな事には全くお構い無しに、私たちは果たすべき仕事が無いのを幸いに、村内をうろつき廻り食事時になると、何処からとも無く現れるのです。
その日は朝早くから快晴で暖かい日であった。ちょうど大潮とかで引き潮の時刻には、かなり沖まで歩いて行けるほど遠浅となった。
野良犬のようにうろつき回ることに飽き始めて私たちは、村の子ども達に混
じって海に入った。初めての遠浅がただただ物珍しくては、衣類が濡れて行くことなど全く意に介さず、ただただはしゃぎ回っていた。
その内村の子ども達を真似て「ウニ」獲り獲りを始めた。近くの漁師が教えて呉れた方法の海水に浸してだけで怖々食べてみると、磯の香りとほの甘い美味さが思っていた以上で、その後はすっかり虜になっていた。
私は逸早く番屋に戻ってサイダー瓶を持ち出して遠浅の海に戻り、級友の間を駆け巡って、ただ面白半分に集めているだけの級友からウニを貰い受けた。
程なくしてサイダー瓶一本のウニの瓶詰めが出来上がった。
早速く番屋の物置から塩を貰い瓶詰め込み封をして、下着で包んでリュックの底の方に仕舞いこんだ。
ウニを味わっているうちに、おふくろの大好物だったのを思い出していたのである。おふくろは肉類が大の苦手で、恐らく生前中にはただの一度も食べなかった。その半面海産物は大の好物で、炭鉱街では珍しい鮫なども器用に捌いていた。物珍しげに見ている私たちに、皮の剥き方などを教えて呉れた。
私が作ったサイダー瓶のウニは、衣類で二重三重巻きにしてリュックに入れて、帰りの道中は殆ど胸に抱え込むようにして持ち帰った。家に着くなり直ぐにおふくろに渡した。母は受け取って電灯で透かして見ていたが、やおら封を切って味見を始めた。心配気に様子を見守っていた私に満面の笑みを向けた。
如何にも満足そうな母の笑顔を見て、私も心からホット息を付いた。
<終り>