昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

鰊魚場にて・少年の日の想い出より

2006-05-14 16:42:10 | じゃこしか爺さんの想い出話
 

  ・・・樺太・真岡支庁・真岡郡・広地天茂泊魚場にて・・・

 終戦の翌年の春先でした。突然ソ連軍当局から小学校高等科の生徒に対して、鰊場への動員命令が発令されたのです。高等科と云えどもまだまだ13・4歳の子どもですから、親許を離れて漁業の使役に就くなんて事は、普通の日本人社会では到底考えられないことであり、ましてや女親たちにしてみれば、とんでもない野蛮な行為であったのです。
 当然反対運動は始められましたが、相手はソ連軍当局のこと、日本人社会の習慣理屈は通る筈も無く、一方的に押し切られて仕舞いました。
 ただ親たちの集団交渉により、一ヶ月間の予定期間が5日間短縮されたことが、せめてもの救いでした。

 こうして私たち高等科の生徒は、それから間もないある朝早く、少しばかりの着替えを詰めたリュックを背にして、小学校の校庭に集められました。
 身体の弱い生徒は免除されていたので、その朝集まった生徒数は、男子組の三組を合わせても七十人程度でした。その中でも私たちのクラスが一番少なくて20人でした。そのままソ連軍の幌付き軍用トラックに分乗させられ、学校を後にしたのです。学校近くに住む親たちが見送に来てましたが、中には泣いている母親が、結構居たのを覚えております。
 親たちのそんな心配をよそに、生徒の私たちの殆どは、悲しむどころか、冒険を前にした探検隊のような気分で、更に初めてのトラック乗車に興奮して、ただただ訳も無くはしゃいでいました。

私たちを乗せたトラック部隊は、途中一度も停まることも無くひた走り、やがて樺太のやや中央部に位置する久春内に到着、ここで初めてトラックから下されました。

 此処からの移動手段は鉄道便に切り替わりましたが、これまで鉄道便と言えば、炭砿鉄道の石炭運搬車を改造した程度のチャチな客車でしたから、本格的な鉄道それも客車が初めてのことだったのです。何もかもが珍しくて、それまでの長旅の疲れも見せず、トラック以上にはしゃぎ回っていました。
 
    (Ⅰ) コウリャン 

 目的地の真岡町広地村の魚場に着いたのは、もうかれこれ8時を大分過ぎておりました。持参した昼食は昼になる前に平らげていたのですから、それまでの時間の長さに閉口して、口数が減り漸く疲れを見せ始めたようでした。
 班毎に分けられそれぞれ別々の宿舎に連れて行かれました。私たちの班が収容された処は、村でもかなり大きな建物でしたが、そうかと云って旅館風でも集会所でも無く、恐らく村長さんか網元の家だったのでしょう。
 荷物を置き休む間も無しに、私たちは裸電球が灯る薄暗い食堂に集められました。其処にはもう既に食卓の上に食事が並べられていて、私たちは一斉に食べ始めました。少し落ち着いてから丼のご飯を良く見ると、赤い物が混じっていたのです。薄暗い電灯の下とは言いながら、それは紛れも無く赤飯でした。
 私たちは互いに頷き合い、その目は輝いておりました。私たちのために赤飯を炊いて呉れていたのです。私たち歓声を上げて喜び合い大感激でした。

 翌朝にも同じ食事が出されました。皆の目には再び喜びが走り一斉に掻っ込み始めて気付きました。明るい場所でのその赤飯だとばかりに思っていたのは、小豆とは全然違ったものででした。そこで私が係りの小母さんに訊ねてみると、それは「コウリャン=高粱」と言う雑穀だそうです。
 全員の気持ちは一気に萎み、夕べはとても美味しく感じた食事が急に色褪せて見え始め、心なしかその味も不味くなって仕舞いました。

  <続く>