「大和郡山の祭りと行事」を解説されると知って応募要領を見る。
主催は奈良県庁。
申し込みは葉書投函もあるが、ネット申請をした。
申し込みは「第3回郷土学習講座~奈良を知ろう!学ぼう!~「大和郡山の祭りと行事」受講参加申し込みフォーム」に沿って入力する。
入力はしてみたもののちゃんと行っているのかどうか疑わしいからもう1回入力投稿したが、反応は却ってこなかった。
諦めた申し込みであったが、間近になって入力したメールアドレスに返答された番号が19番で受付された参加券が届いていた。
参加券メールを送ってくれた所管課は奈良県教育委員会事務局/人権・地域教育課だった。
印刷した参加券付きメールを持参、会場受付のある大和郡山市三の丸会館小ホールに出かけた。
ほぼ満席になった会場に写真家Sさんが座っていたからともに聴講した。
会場に顔見知りの人たちに出会う。
一人は同市豊浦町に住むNさん。
もう一人は市観光VGCの前会長。
他にも知人が会場におられそうだが・・。
司会が紹介する本日のテーマを話す講師は奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さん。
数年前まで奈良県立民俗博物館に在籍されていた。
本日の講演テーマは「大和郡山の祭りと行事」。
そのタイトルで企画展が行われたのはずいぶん前の平成22年度事業だった。
図録は350円で今も立民俗博物館で販売している。
企画展当時までに取材した市内行事の数々を網羅している。
大和郡山の年中行事は実に多彩であり多様な形式、形態で継承されてきた。
鹿谷さんが博物館に異動されて間もないころに伺った。
そこで言われた大和郡山の行事を調べてほしい、だ。
手掛かりはほとんどない。
市内観光協会が発行するパンフに少し。
それだけで調べるには無理がある。
鹿谷さんが手元に渡してくれた市内に鎮座する神社系の資料。
それに書いてあるのは場所と神官名に電話番号ぐらいなもの。
行事の一切が書かれていない。
神社に出向いて神官に教えを乞う。
乞う、といっても何を尋ねるのかさっぱりわいてこない。
とにかく一歩、一歩を進めるしかないと思って休みの日に駆けずり回った。
企画展の開催は平成22年12月11日から翌年の平成23年2月6日までだった。
行事をとらえた写真だけでなく展示物品もとお願いされて協力をお願いした取材先。
心温かくも、さまざまな展示物品の出展協力してくださった。
忘れもしない奮闘ぶりに加えて解説までも。
これらは現ブログに残している。
あれから8年、今も続けている大和郡山の年中行事調査。
神社、寺行事に地域、或いは講行事から家の習俗までも。
実際に取材した数は3月現在で323行事。
下見段階の未調査行事数は136行事もある。
とてもじゃないが無理。
匙を投げたわけではないが、時間がない。
取材してから中断になった行事は3件。
再調査もできていない行事は多々あるから、中断はさらに増えているものと思われる。
さて、始まった講演である。
聴講のすべてをメモるのは困難。
断片的なメモ録であるが、下記に列挙しておく。
聞き間違いがあるかもしれない。
その点、ご容赦願いたい。
「大和郡山市が・・8年、9年・・」。
現在活動中の奈良民俗文化研究所の紹介。
「小泉神社などの行事を拝見して奈良盆地にある大和郡山の行事は大阪の影響を受けたダンジリが多い」という。
庶民の生活文化の“民俗”に対して、東南アジアを勉強するのは“民族”。
自分のことを調べる場合が“民俗”。
庶民の暮らし、有形文化財問わず、価値が高いとはいえない生活の移り変わりがわかるものが、“民俗”であるという。
太鼓踊りの踊りは無形文化財。
太鼓や笛は有形文化財。
今回は指定されていないものも含めてお話します、と本題に移った。
東山中に対して西山中と呼んだ時代もあったが現在は死語。
村の人は“ヒロミ”に行ってくる、といえばそこは奈良盆地部。
“ヒロミヤッコ”の呼び名もあったらしいが・・。
宇陀に最東が“奥”。
奈良坂辺りは大和の北になる。
口吉野に奥吉野を南山と呼んで区分けしていた。
「大和へ行く」とはどこになるのか。
大和は国中(※くんなか)だと高齢者はいう。
伊豆七条町に子どもが集落を巡って“フクマル“呼びをする火の習俗がある。
お盆も火を焚く。
1月の迎え火にとんども火。
神仏送り迎えに火が要る。
外川町に砂撒きがある。
正月さんの道。
神迎えは山の暁。
川の砂。
盆地の西側に残っている砂の道、或いは砂撒きは家々を砂で繋ぐ。
大阪・四條畷依りにある上田原の地。
そこではお日さんマークの他、不思議な形を砂で描く庭絵がある。
“ゾウガイ”、“ドウガイ”などの名がある注連縄。
他に呼び名があれば教えてほしいと・・いわれるが。
自宅に戻ればメモしているから・・と心の中で呟いた。
奈良市・西ノ京の奥柳の地。
ここに“ソウガイ”系統があった。
矢口の座の注連縄、繋がりなのか、東明寺・八阪神社の行事の綱組みの際の掛け声が“チョーサじゃ チョーサじゃ”。
境内に描いた枠組みは「早生」、中生」、「晩稲」の三種。
綱組みの輪の中に入ったら蛙になるといった長老。
昔はそう言った、と・・。
ツナカケは村の入り口にかける。
粥占(かゆうら)からの作付け。
神名帳(じんみょうちょう)を詠みあげるオコナイがある。
現在はオコナイと呼ばずに法会と呼ぶ。
これらはこうなってほしいという予祝(よしゅく)。
野迫川村・北今西のオコナイにカズラ組みがある。
正月早々に行われるそれに“ハナ”を飾る。
大和郡山の小林町のオコナイは内陣を叩く。
湯立ての湯。
昭和60年の春日おん祭りに復活した湯立て。
“ソネッタン”というのは里の巫女。
加奥さん、坂本さんが祓ってくれる“シャンコシャンコ”。
大昔の絵に大宿所の御湯(みゆ)がある。
子どもが囃し立てる踊りがある。
その絵図に平鉦も打ち鳴らす情景も描いている。
昔、“オンダ”行事があった富雄の添御縣坐(そうのみあがたにいます)神社。
田んぼに松苗とごーさん札が苗代に立てていた。
椿の花を添えて水口に祭っていた。
金丸講の本山は城下町内にある薬園寺。
井戸野町の行者講行事に子どもが町内を巡って御触れをする。
常福寺に鉦があった。念仏講が残した鉦は9枚。
文化十三年(1816)に“天下一”称号の刻印がある慶安五年(1652)製作の鉦。
額田部村へ寄進した“樋口久太夫”の鉦。
寄進者は48の念仏講に寄進したそうだ。
白土町に子どもの“チャチャンコ”がある。
8月7日からの毎日。
14日まで続ける、他では見られない極めて珍しい子どもの涅槃講。
打つ鉦の音から“チャチャンコ”の名がついたと思われる。
山田町の秋祭り。
“デンデラコ”の名称は太鼓の音から・・。
小林町・杵築神社に奉納した絵馬が珍しい。
絵馬に書いてある文字が“堂頭”。
町の子どもたちが集落を巡って金もらい。
絵馬に名前を書いてもらって奉納する。
これらの事例から、大和郡山市の祭りのキーワードはコドモ“では、と締めくくられた。
(H31. 3.10 記)
主催は奈良県庁。
申し込みは葉書投函もあるが、ネット申請をした。
申し込みは「第3回郷土学習講座~奈良を知ろう!学ぼう!~「大和郡山の祭りと行事」受講参加申し込みフォーム」に沿って入力する。
入力はしてみたもののちゃんと行っているのかどうか疑わしいからもう1回入力投稿したが、反応は却ってこなかった。
諦めた申し込みであったが、間近になって入力したメールアドレスに返答された番号が19番で受付された参加券が届いていた。
参加券メールを送ってくれた所管課は奈良県教育委員会事務局/人権・地域教育課だった。
印刷した参加券付きメールを持参、会場受付のある大和郡山市三の丸会館小ホールに出かけた。
ほぼ満席になった会場に写真家Sさんが座っていたからともに聴講した。
会場に顔見知りの人たちに出会う。
一人は同市豊浦町に住むNさん。
もう一人は市観光VGCの前会長。
他にも知人が会場におられそうだが・・。
司会が紹介する本日のテーマを話す講師は奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さん。
数年前まで奈良県立民俗博物館に在籍されていた。
本日の講演テーマは「大和郡山の祭りと行事」。
そのタイトルで企画展が行われたのはずいぶん前の平成22年度事業だった。
図録は350円で今も立民俗博物館で販売している。
企画展当時までに取材した市内行事の数々を網羅している。
大和郡山の年中行事は実に多彩であり多様な形式、形態で継承されてきた。
鹿谷さんが博物館に異動されて間もないころに伺った。
そこで言われた大和郡山の行事を調べてほしい、だ。
手掛かりはほとんどない。
市内観光協会が発行するパンフに少し。
それだけで調べるには無理がある。
鹿谷さんが手元に渡してくれた市内に鎮座する神社系の資料。
それに書いてあるのは場所と神官名に電話番号ぐらいなもの。
行事の一切が書かれていない。
神社に出向いて神官に教えを乞う。
乞う、といっても何を尋ねるのかさっぱりわいてこない。
とにかく一歩、一歩を進めるしかないと思って休みの日に駆けずり回った。
企画展の開催は平成22年12月11日から翌年の平成23年2月6日までだった。
行事をとらえた写真だけでなく展示物品もとお願いされて協力をお願いした取材先。
心温かくも、さまざまな展示物品の出展協力してくださった。
忘れもしない奮闘ぶりに加えて解説までも。
これらは現ブログに残している。
あれから8年、今も続けている大和郡山の年中行事調査。
神社、寺行事に地域、或いは講行事から家の習俗までも。
実際に取材した数は3月現在で323行事。
下見段階の未調査行事数は136行事もある。
とてもじゃないが無理。
匙を投げたわけではないが、時間がない。
取材してから中断になった行事は3件。
再調査もできていない行事は多々あるから、中断はさらに増えているものと思われる。
さて、始まった講演である。
聴講のすべてをメモるのは困難。
断片的なメモ録であるが、下記に列挙しておく。
聞き間違いがあるかもしれない。
その点、ご容赦願いたい。
「大和郡山市が・・8年、9年・・」。
現在活動中の奈良民俗文化研究所の紹介。
「小泉神社などの行事を拝見して奈良盆地にある大和郡山の行事は大阪の影響を受けたダンジリが多い」という。
庶民の生活文化の“民俗”に対して、東南アジアを勉強するのは“民族”。
自分のことを調べる場合が“民俗”。
庶民の暮らし、有形文化財問わず、価値が高いとはいえない生活の移り変わりがわかるものが、“民俗”であるという。
太鼓踊りの踊りは無形文化財。
太鼓や笛は有形文化財。
今回は指定されていないものも含めてお話します、と本題に移った。
東山中に対して西山中と呼んだ時代もあったが現在は死語。
村の人は“ヒロミ”に行ってくる、といえばそこは奈良盆地部。
“ヒロミヤッコ”の呼び名もあったらしいが・・。
宇陀に最東が“奥”。
奈良坂辺りは大和の北になる。
口吉野に奥吉野を南山と呼んで区分けしていた。
「大和へ行く」とはどこになるのか。
大和は国中(※くんなか)だと高齢者はいう。
伊豆七条町に子どもが集落を巡って“フクマル“呼びをする火の習俗がある。
お盆も火を焚く。
1月の迎え火にとんども火。
神仏送り迎えに火が要る。
外川町に砂撒きがある。
正月さんの道。
神迎えは山の暁。
川の砂。
盆地の西側に残っている砂の道、或いは砂撒きは家々を砂で繋ぐ。
大阪・四條畷依りにある上田原の地。
そこではお日さんマークの他、不思議な形を砂で描く庭絵がある。
“ゾウガイ”、“ドウガイ”などの名がある注連縄。
他に呼び名があれば教えてほしいと・・いわれるが。
自宅に戻ればメモしているから・・と心の中で呟いた。
奈良市・西ノ京の奥柳の地。
ここに“ソウガイ”系統があった。
矢口の座の注連縄、繋がりなのか、東明寺・八阪神社の行事の綱組みの際の掛け声が“チョーサじゃ チョーサじゃ”。
境内に描いた枠組みは「早生」、中生」、「晩稲」の三種。
綱組みの輪の中に入ったら蛙になるといった長老。
昔はそう言った、と・・。
ツナカケは村の入り口にかける。
粥占(かゆうら)からの作付け。
神名帳(じんみょうちょう)を詠みあげるオコナイがある。
現在はオコナイと呼ばずに法会と呼ぶ。
これらはこうなってほしいという予祝(よしゅく)。
野迫川村・北今西のオコナイにカズラ組みがある。
正月早々に行われるそれに“ハナ”を飾る。
大和郡山の小林町のオコナイは内陣を叩く。
湯立ての湯。
昭和60年の春日おん祭りに復活した湯立て。
“ソネッタン”というのは里の巫女。
加奥さん、坂本さんが祓ってくれる“シャンコシャンコ”。
大昔の絵に大宿所の御湯(みゆ)がある。
子どもが囃し立てる踊りがある。
その絵図に平鉦も打ち鳴らす情景も描いている。
昔、“オンダ”行事があった富雄の添御縣坐(そうのみあがたにいます)神社。
田んぼに松苗とごーさん札が苗代に立てていた。
椿の花を添えて水口に祭っていた。
金丸講の本山は城下町内にある薬園寺。
井戸野町の行者講行事に子どもが町内を巡って御触れをする。
常福寺に鉦があった。念仏講が残した鉦は9枚。
文化十三年(1816)に“天下一”称号の刻印がある慶安五年(1652)製作の鉦。
額田部村へ寄進した“樋口久太夫”の鉦。
寄進者は48の念仏講に寄進したそうだ。
白土町に子どもの“チャチャンコ”がある。
8月7日からの毎日。
14日まで続ける、他では見られない極めて珍しい子どもの涅槃講。
打つ鉦の音から“チャチャンコ”の名がついたと思われる。
山田町の秋祭り。
“デンデラコ”の名称は太鼓の音から・・。
小林町・杵築神社に奉納した絵馬が珍しい。
絵馬に書いてある文字が“堂頭”。
町の子どもたちが集落を巡って金もらい。
絵馬に名前を書いてもらって奉納する。
これらの事例から、大和郡山市の祭りのキーワードはコドモ“では、と締めくくられた。
(H31. 3.10 記)