今年も開催された県立民俗博物館の企画展。
2月から3月にかけて展示されるひなまつり。
2月12日(土)よりはじまった展示は「古民家でひなまつり」。
展示会場は県立大和民俗公園内に施設化した古民家。
無料で入場(座敷不可、土間まで)、拝見できる古民家施設。
今年もまた、旧臼井家住宅地。
公園に入ってすぐ左。
古民家建物がすぐ見える。
会期は、先行している関係から、3月6日(日)まで。
閉園時間近くになれば、そのアナウンスがあるから、よく耳を澄ませてね。
一方、大物は県立民俗博物館の本館展示。
「古民家でひなまつり」より、一週間遅らせた2月19日(土)から3月27日(日)までの期間展示。
会場は本館だから、午前9時から午後4時までの展示する「博物館でひなまつり」。
今回は、京都芸術大学が協力している。
授業に民俗文化財の修復実習作業。
長期間に亘った修復期間。
立派な御殿雛は、江戸時代に近畿圏で広がった雛飾り。
京都御所を見立てた御殿に雛人形を飾る。
戦後においては、百貨店や人形店で販売される雛人形は、段飾りが主流を占め、御殿雛は見られなくなった。
展示の御殿雛は、御所市寺内町の豪商の家に江戸末期から明治時代を経て昭和6年まで受け継がれていたもの。
幅約4メートルにもおよぶ大型の御殿雛に圧倒される。
経年劣化が進んだ御殿。
木部の破損やゆがみ、接合部の緩み、襖や障子などに紙の破れなどが見受けられ、修復は、それぞれの素材に応じた修復技術が必要になった、と授業生は語る。
当時、担当した学芸員から、聞いたたいへんな作業。
その一部が、ネットに公開されている。
館内入館に観覧料金は、大人が200円に大学生は150円。
なお高校生以下および65歳以上は無料。
現在は、古民家に一部展示。
御殿雛などの大きな展示物は、毎年において収蔵庫より選択し、よりテーマに沿った展示をしてきた。
毎年の展示を愉しみにしている方たちは、実に多い。
かつて私ども民俗を撮るカメラメンが展示してきた「私たちがとらえた大和の民俗」写真展の展示期日をどうするか、検討した結果、入館が多い時季に合わせたこともある。
それが、ひな祭りの期間だった。
今回、最後になった「私たちがとらえた大和の民俗」古民家写真展も、その時季に寄り添うかたちで、展示日を決めた。
まぁ、早い話がひな祭り企画展に便乗したワケであるが・・・
只今、10回目になる「私がとらえた大和の民俗」写真展の仕掛中。
令和4年、今月の2月23日(水・祝)から3月27日(日)までの期間。
展示会場は、旧臼井家住宅地から、歩いてすぐ近くの旧荻原家住宅ならびに旧赤土離れ座敷。
古民家活用の写真展は、今回が2回目。拝見された方々も、私たちカメラメンも、古民家展示に助けられた。
風情のある古民家の屋内展示。
おそらく、日本全国において古民家屋内展示したのは県立民俗博物館が初だったろう。
これまで何度も議論した古民家活用。
実行できたのは、本館の耐震工事であった。
本館の工事中は一切すべての展示もできない。
ならば、と決めた古民家活用。
本館工事を終えてリニューアル展示をした県立民俗博物館。
導線を広げ、明るく見やすいようになったリニューアル展示。
これまでの暗いイメージから脱した。
ただ、残念なことに、私たち大和のカメラマンが学芸員とともに活動してきた写真展は、今回の第10回をもってラスト展示。
県立民俗博物館の意向によって幕を閉じる。
さて、本題は「令和4年のならみんぱくのひなまつり」である。
先にあげた京都芸術大学が協力し、京都御所を見立てた御殿に飾った雛人形。
細かい部分を拝見。
衛視の立ち姿を観るのも、また愉し・・
古風な内裏雛を観るとき、いつも頭の飾りを観てしまう。
どことなくわかりそうな享保雛に古今雛。
私が尤も被写体にしたい麗しき内裏雛。
一つは、江戸時代ものの内裏雛は川西町結崎。
天保七年の作は奈良市の秋篠からもある。
2体を見比べていると、どことなく顔の表情が硬い、柔らかいにわかれる。
作者、或いは工房の違いであろう。
今回の展示にいちばん興味を惹いた雛人形は、陶器製の立ち雛。
京都でつくられたとされる立ち雛であるが、壁に立てることなく、寝かせた状態で展示していた。
手前に並べて展示していた紙製の雛人形は、私が入手してきた五条市南阿田の吉野川流し雛。
行事の一環に地域の婦人たちがつくった流し雛。
いずれも現地で購入した手つくり流し雛である。
一事例に、県立民俗博物館に寄贈した流し雛が、ここに展示していた。
今回も、また展示企画は横山浩子学芸員。
本日は、新聞記者の来館に、令和4年のならみんぱくのひなまつり取材を受けていた。
ちなみに、私がアップしたFBに、この立ち雛を、画面で観ていた知人のFさんから、「誰の作品ですか?」と、コメントされた。
「上段の立雛ですか?それとも下段の千代松紙でつくった紙雛のことですか?いずれにしても作者はお会いしたことはありません。立雛は京都の立雛作者。作風でネット探しましたがわかりません。紙雛は行事が行われた五條市南阿田に住む婦人たちがつくっていた竹舟とセットした紙雛」、と回答したら、「下に作者名をいれてほしかったです。いずれにしても素晴らしい作品です」と、返答された。
わかるものなら作者名は記載したいが、特に上部に配置した京都の立ち雛。
頭も衣装も陶器製。
手持ちに事例がない。
返答はしてみたが、もやもやが残る。
作者は、おそらく工房集団ではないだろうか。
300年前に造られた仏師が製作したと考えられる伏せ鉦が、後世に残されている。
例えば、「室町住出羽大掾宗味作」とか、「西村左近宗春作」の銘を刻印している打ち鉦である。
民俗史料など手掛かりは持ち合わせていないが、おそらく代表仏師の名を刻印したのでは、と思っている。
世にたくさん見られる(※残されている)鉦は、全国に散らばる。
大量に製作した可能性も否定できない。
あくまで推定であるが、独りコツコツした製作作業でなく役割をわけた集団作業では、と思っている。
横山浩子学芸員の話によれば、展示に回答のできない明治期にしているが、実は江戸期だった、という。
たぶんであるが、時季も、製作場所も不明。
工房集団で造りこんだ立ち雛ではと、推定されている。
工房であれば、作者の名は表に出ない。
実は、展示した立雛は学芸員が、個人的にあるところから買ってきたと話す。
大阪のある文化施設に展示していた京都の立雛の出里は、奈良・橿原の豪商宅にあったそうだ。
ただ、その豪商がどのような手段で入手したかは謎である。
あくまで推定であるが、当時は豪商が大量に買い付けて、なんらかの祝い事に配ったのでは、と・・
大阪の展示でわかった大量にあった、という立雛は同形。
つまり大量生産する工房があったからこそ、それが可能だったことと、配る風習があったことによる立雛の生い立ち・・・だから作者の名はわかりようなく、文書も遺されていない。
つまりは、回答できない江戸時代に生産された陶器製の立ち雛。
気になるものだから、その後に再度調べたネット情報に立ち雛はみつかるのか・・・
ニッポン放送がNEWSONLINEに公開していた「雛人形が江戸時代に立ち姿から座った理由とは?~雛祭りの歴史(1)~」。
平成30年の2018年1月19日から3月11日の期間に開催。
「井伊家伝来”砂千代姫のお雛さま”を、ホテル雅叙園東京の”百段雛まつり」に展示。
その一部を紹介しているニッポン放送のNEWSONLINE公開。
お雛さんの姿、形の変遷、文化歴史がわかる。
当展示に立ち雛があったが、横山学芸員は持ち込み展示した立ち雛とは、また違う。
ちなみに、立ち雛は、江戸時代以前からあった、とされるそうだ。
記事にあった立ち雛は和紙でできていた。
頭部は、丸いが、装束部分は扁平。
自立できない紙つくりの立ち雛。
やがて時代はかわり、和紙つくりから布に移った。
以降、装束は豪華になっていく・・
そう、「立ち雛タイプの雛人形は、お雛様のルーツ?座雛と立ち雛との違いと成り立ち」伝えるブログ記事もある。
お雛さまのはじまりは、立ち雛から・・。
「人形(※ひとかた)に成形した立ち雛。紙に神霊の代わりに据え、災いは川に流す」。
つまりは五条市南阿田の吉野川流し雛に相当する。
「千代紙で作ったお雛さんを流して罪や穢れを流して祓い清める」。
まさにそうである。
最近、販売されている立ち雛の姿を見てみよう。
京都の木村桜士堂がネット販売している立ち雛は御所立雛。
江戸時代のような風情は消え、現代的な様相。
今の時代に好まれる、どっちかといえばアニメチックかな。
山形県の人形の栄光も立ち雛を販売しているが、こちらも現代風。
「雛まつりの起源は、上巳の節供という三月のはじめに行われた祓いの行事。紙など簡素な素材で作った人形に、人間の穢れを移し、水に流すなどして処分した。立雛は祓いに用いた形代の人形から発展したと考えられ、その歴史は坐雛よりも遡る」と解説していた京都国立博物館・文化遺産オンラインがヒットした。
横山学芸員が、持ち込み展示した立ち雛に、より近い存在。
右手にある立ち雛が、まさしく同等レベル。
モノクロ画像であるが、カラーの彩りが蘇ってきそうな立ち雛。
文化遺産オンラインに見つかった同等レベルの立ち雛の時代は表記されていない。
似ている立雛に古式立雛を並べて比較。
古式立雛よりも、さらに年代は遡るのでは、と推定した立ち雛の様相に感動、感動である。
(R4. 2.19、20 SB805SH 撮影)
(R4. 3. 5 SB805SH 撮影)
2月から3月にかけて展示されるひなまつり。
2月12日(土)よりはじまった展示は「古民家でひなまつり」。
展示会場は県立大和民俗公園内に施設化した古民家。
無料で入場(座敷不可、土間まで)、拝見できる古民家施設。
今年もまた、旧臼井家住宅地。
公園に入ってすぐ左。
古民家建物がすぐ見える。
会期は、先行している関係から、3月6日(日)まで。
閉園時間近くになれば、そのアナウンスがあるから、よく耳を澄ませてね。
一方、大物は県立民俗博物館の本館展示。
「古民家でひなまつり」より、一週間遅らせた2月19日(土)から3月27日(日)までの期間展示。
会場は本館だから、午前9時から午後4時までの展示する「博物館でひなまつり」。
今回は、京都芸術大学が協力している。
授業に民俗文化財の修復実習作業。
長期間に亘った修復期間。
立派な御殿雛は、江戸時代に近畿圏で広がった雛飾り。
京都御所を見立てた御殿に雛人形を飾る。
戦後においては、百貨店や人形店で販売される雛人形は、段飾りが主流を占め、御殿雛は見られなくなった。
展示の御殿雛は、御所市寺内町の豪商の家に江戸末期から明治時代を経て昭和6年まで受け継がれていたもの。
幅約4メートルにもおよぶ大型の御殿雛に圧倒される。
経年劣化が進んだ御殿。
木部の破損やゆがみ、接合部の緩み、襖や障子などに紙の破れなどが見受けられ、修復は、それぞれの素材に応じた修復技術が必要になった、と授業生は語る。
当時、担当した学芸員から、聞いたたいへんな作業。
その一部が、ネットに公開されている。
館内入館に観覧料金は、大人が200円に大学生は150円。
なお高校生以下および65歳以上は無料。
現在は、古民家に一部展示。
御殿雛などの大きな展示物は、毎年において収蔵庫より選択し、よりテーマに沿った展示をしてきた。
毎年の展示を愉しみにしている方たちは、実に多い。
かつて私ども民俗を撮るカメラメンが展示してきた「私たちがとらえた大和の民俗」写真展の展示期日をどうするか、検討した結果、入館が多い時季に合わせたこともある。
それが、ひな祭りの期間だった。
今回、最後になった「私たちがとらえた大和の民俗」古民家写真展も、その時季に寄り添うかたちで、展示日を決めた。
まぁ、早い話がひな祭り企画展に便乗したワケであるが・・・
只今、10回目になる「私がとらえた大和の民俗」写真展の仕掛中。
令和4年、今月の2月23日(水・祝)から3月27日(日)までの期間。
展示会場は、旧臼井家住宅地から、歩いてすぐ近くの旧荻原家住宅ならびに旧赤土離れ座敷。
古民家活用の写真展は、今回が2回目。拝見された方々も、私たちカメラメンも、古民家展示に助けられた。
風情のある古民家の屋内展示。
おそらく、日本全国において古民家屋内展示したのは県立民俗博物館が初だったろう。
これまで何度も議論した古民家活用。
実行できたのは、本館の耐震工事であった。
本館の工事中は一切すべての展示もできない。
ならば、と決めた古民家活用。
本館工事を終えてリニューアル展示をした県立民俗博物館。
導線を広げ、明るく見やすいようになったリニューアル展示。
これまでの暗いイメージから脱した。
ただ、残念なことに、私たち大和のカメラマンが学芸員とともに活動してきた写真展は、今回の第10回をもってラスト展示。
県立民俗博物館の意向によって幕を閉じる。
さて、本題は「令和4年のならみんぱくのひなまつり」である。
先にあげた京都芸術大学が協力し、京都御所を見立てた御殿に飾った雛人形。
細かい部分を拝見。
衛視の立ち姿を観るのも、また愉し・・
古風な内裏雛を観るとき、いつも頭の飾りを観てしまう。
どことなくわかりそうな享保雛に古今雛。
私が尤も被写体にしたい麗しき内裏雛。
一つは、江戸時代ものの内裏雛は川西町結崎。
天保七年の作は奈良市の秋篠からもある。
2体を見比べていると、どことなく顔の表情が硬い、柔らかいにわかれる。
作者、或いは工房の違いであろう。
今回の展示にいちばん興味を惹いた雛人形は、陶器製の立ち雛。
京都でつくられたとされる立ち雛であるが、壁に立てることなく、寝かせた状態で展示していた。
手前に並べて展示していた紙製の雛人形は、私が入手してきた五条市南阿田の吉野川流し雛。
行事の一環に地域の婦人たちがつくった流し雛。
いずれも現地で購入した手つくり流し雛である。
一事例に、県立民俗博物館に寄贈した流し雛が、ここに展示していた。
今回も、また展示企画は横山浩子学芸員。
本日は、新聞記者の来館に、令和4年のならみんぱくのひなまつり取材を受けていた。
ちなみに、私がアップしたFBに、この立ち雛を、画面で観ていた知人のFさんから、「誰の作品ですか?」と、コメントされた。
「上段の立雛ですか?それとも下段の千代松紙でつくった紙雛のことですか?いずれにしても作者はお会いしたことはありません。立雛は京都の立雛作者。作風でネット探しましたがわかりません。紙雛は行事が行われた五條市南阿田に住む婦人たちがつくっていた竹舟とセットした紙雛」、と回答したら、「下に作者名をいれてほしかったです。いずれにしても素晴らしい作品です」と、返答された。
わかるものなら作者名は記載したいが、特に上部に配置した京都の立ち雛。
頭も衣装も陶器製。
手持ちに事例がない。
返答はしてみたが、もやもやが残る。
作者は、おそらく工房集団ではないだろうか。
300年前に造られた仏師が製作したと考えられる伏せ鉦が、後世に残されている。
例えば、「室町住出羽大掾宗味作」とか、「西村左近宗春作」の銘を刻印している打ち鉦である。
民俗史料など手掛かりは持ち合わせていないが、おそらく代表仏師の名を刻印したのでは、と思っている。
世にたくさん見られる(※残されている)鉦は、全国に散らばる。
大量に製作した可能性も否定できない。
あくまで推定であるが、独りコツコツした製作作業でなく役割をわけた集団作業では、と思っている。
横山浩子学芸員の話によれば、展示に回答のできない明治期にしているが、実は江戸期だった、という。
たぶんであるが、時季も、製作場所も不明。
工房集団で造りこんだ立ち雛ではと、推定されている。
工房であれば、作者の名は表に出ない。
実は、展示した立雛は学芸員が、個人的にあるところから買ってきたと話す。
大阪のある文化施設に展示していた京都の立雛の出里は、奈良・橿原の豪商宅にあったそうだ。
ただ、その豪商がどのような手段で入手したかは謎である。
あくまで推定であるが、当時は豪商が大量に買い付けて、なんらかの祝い事に配ったのでは、と・・
大阪の展示でわかった大量にあった、という立雛は同形。
つまり大量生産する工房があったからこそ、それが可能だったことと、配る風習があったことによる立雛の生い立ち・・・だから作者の名はわかりようなく、文書も遺されていない。
つまりは、回答できない江戸時代に生産された陶器製の立ち雛。
気になるものだから、その後に再度調べたネット情報に立ち雛はみつかるのか・・・
ニッポン放送がNEWSONLINEに公開していた「雛人形が江戸時代に立ち姿から座った理由とは?~雛祭りの歴史(1)~」。
平成30年の2018年1月19日から3月11日の期間に開催。
「井伊家伝来”砂千代姫のお雛さま”を、ホテル雅叙園東京の”百段雛まつり」に展示。
その一部を紹介しているニッポン放送のNEWSONLINE公開。
お雛さんの姿、形の変遷、文化歴史がわかる。
当展示に立ち雛があったが、横山学芸員は持ち込み展示した立ち雛とは、また違う。
ちなみに、立ち雛は、江戸時代以前からあった、とされるそうだ。
記事にあった立ち雛は和紙でできていた。
頭部は、丸いが、装束部分は扁平。
自立できない紙つくりの立ち雛。
やがて時代はかわり、和紙つくりから布に移った。
以降、装束は豪華になっていく・・
そう、「立ち雛タイプの雛人形は、お雛様のルーツ?座雛と立ち雛との違いと成り立ち」伝えるブログ記事もある。
お雛さまのはじまりは、立ち雛から・・。
「人形(※ひとかた)に成形した立ち雛。紙に神霊の代わりに据え、災いは川に流す」。
つまりは五条市南阿田の吉野川流し雛に相当する。
「千代紙で作ったお雛さんを流して罪や穢れを流して祓い清める」。
まさにそうである。
最近、販売されている立ち雛の姿を見てみよう。
京都の木村桜士堂がネット販売している立ち雛は御所立雛。
江戸時代のような風情は消え、現代的な様相。
今の時代に好まれる、どっちかといえばアニメチックかな。
山形県の人形の栄光も立ち雛を販売しているが、こちらも現代風。
「雛まつりの起源は、上巳の節供という三月のはじめに行われた祓いの行事。紙など簡素な素材で作った人形に、人間の穢れを移し、水に流すなどして処分した。立雛は祓いに用いた形代の人形から発展したと考えられ、その歴史は坐雛よりも遡る」と解説していた京都国立博物館・文化遺産オンラインがヒットした。
横山学芸員が、持ち込み展示した立ち雛に、より近い存在。
右手にある立ち雛が、まさしく同等レベル。
モノクロ画像であるが、カラーの彩りが蘇ってきそうな立ち雛。
文化遺産オンラインに見つかった同等レベルの立ち雛の時代は表記されていない。
似ている立雛に古式立雛を並べて比較。
古式立雛よりも、さらに年代は遡るのでは、と推定した立ち雛の様相に感動、感動である。
(R4. 2.19、20 SB805SH 撮影)
(R4. 3. 5 SB805SH 撮影)