マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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上比曽のイノコ

2014年03月17日 07時44分34秒 | 大淀町へ
稲の藁を手にした子供たちが地区を巡っていく。

大淀町の上比曽の子たちだ。

出かけた先は新婚さんの家。

前庭で持ってきた稲の藁を振り上げて地面を叩く。

そのときに唄われる詞章は「ここの嫁さん いつもろた 三月三日の朝もろた イワシさんびき 酒五合 しんまい藁で祝いましょ」。

これを繰り返して、地面を打った稲の藁は家の屋根に放り上げる。



なぜにこのような行為をするのか判っていない。

屋根に上げられた稲の藁は自然に返るまでそのままにしていると云う。

婿さんをもらった家では、「ここの婿さん いつもろた 五月五日の朝もろた」の詞章に替るらしい。

新米藁で叩くのは村の収穫を祝った作法。

新婚さんの家でするのは、子供の誕生の願い。

いわば村の子孫繁栄を願う行為である。

新婚家の繁栄は村の繁栄に繋がる、いわば、収穫を祝う農村の生産は地区の繁栄でもあるのだ。

叩く稲の藁は「どてんこ」と呼ばれていた。

「・・・祝いましょ」に続いて、「どてんこ どてんこ」と囃していたことを思い出す。

前日の村の人が集まって「どてんこ」を作っていたそうだ。

中にはダイコンの葉を詰めている。

稲の藁だけであれば、軽くて地面を叩くには力が要るし、叩いたときには音が出にくい。

そういうことでダイコンの葉を詰めている上比曽の「どてんこ」。

この年は大勢の子供たちで3軒の新婚家を祝ったが、新婚家がなければイノコ行事は行われない。

数年前は新婚の家はなかった。

前年は3軒だったが、私が初めて取材した平成19年は1軒だった。

数年間なくて、平成23年、24年、25年と続く新婚家。

旧村でありながら、これほど新婚さんが多いことに希望がもてる村の繁栄。

稲の藁には地下に潜む悪い霊魂を鎮める力があるとされる。

地面を叩いて田畑が豊かに実るよう祈っていた。

多産のイノシシにあやかり子宝に恵まれるように、新婚の家の繁栄に願いを込めるイノコ行事は県内各地の多くにあったが、今は数少ない。

桜井市の高田で行われている「いのこ暴れ」もその一つだ。

高取町の佐田にもある。

高取町では薩摩や兵庫も行われていたと聞いている。

明日香村の下平田も継承されている。

田原本町の味間では藁棒で叩くデンボ突きが中断したが、新婚家の祝いは今でも続いている。

桜井市の箸中においても新婚家を祝う亥の子祭があった。

「亥の子の晩に 餅のつかん家は 煎茶のどんぶり粥 嫁さんと婿さんとさねててかへ 起きててかへ 新米藁を祝たろわ」と囃していた。

夕暮れの頃、中垣内の子供たちは嫁さんをもらった家とか婿養子をとった家に出かけて、藁棒で地面を叩いていた。

少子高齢化の時代。

いつしか子供もいなくなって、新婚家も見られなくなった。

この年もなかったと聞いている。

昭和36年に発刊された『桜井市文化叢書 民俗編』には笠地区で「笠の亥子」があったと記されている。

12月22日のことである。

サトイモのズイキを稲藁に包んだ棒を子供が持って集落を巡った。

夕方に各家の門を叩いて始めたイノコの所作。

囃していた唄は「いのこの晩に 餅搗かぬ者は せん茶のどぶどぶ ここの姉さん寝てか 起きてか 新米藁で祝たろけ 千夜来い万夜来い 大鼓のほそねじしよないから 大根からい 人参しよ人参あるまい一本しよ」であった。

村の人に尋ねてみたが、見たことも聞いたこともないと云うから随分前に途絶えたようである。

かつて田原本町の味間でも同じように「イノコの晩に モチの搗かん家は・・・云々」と囃子たてて新婚の家を巡ってデンボで叩いていた。

「イノコの晩に モチ搗かん家は おうちのねーさん起きなはるか 寝てはるか・・・」と思い出す農家の人もいた。

同町の笠形ではホウデンと呼ばれる藁ズトで地面を叩きながら「嫁はん起きてるけ 寝てるけ 新米わらでいぉたろけ」と囃していた事例が『田原本町の年中行事』に残されている。

同本には「亥の子の晩に 餅つかん家は せんちゃのどんぶりこおきみやん(人名)起きてるけ 寝てるけ 新米わらでいぉたろけ」の東井上地区。

「亥の子の晩に 餅つかん家は ・・・ ここのねえさん起きてるけ 寝てるけ」だった多地区などもあった。

平成18年に発刊された『続 明日香村史 中巻』によれば、檜前地区にもあったようだ。

子供たちがデンボと呼ぶ稲の藁を作って「亥の子の晩に 餅つかん家は 箸でいえ建てて 馬のフンで壁塗って ボボの毛で屋根葺いて ここの嫁さんいつもろた 三月三日の朝もろた イワシ三匹 酒五合 しんまい藁で祝うたろう もうひとつおまけに祝うたろか」と囃していた。

平成11年に発刊された『奈良県立民俗博物館だより』にも明日香村下畑地区で行われていたイノコまつりが書かれている。

各家を巡って「ホーレン」と呼ぶ稲の藁で打ちつけていた。

内部には「クワエのヤ」を入れていたとある。

詞章は「いのこのばんに おもちつかんいえに はしでいえたて かやでやねふき うしのくそでかべぬって ここのよめさんいつもらう 三月三日のあさもらう」であった。

かつては旧暦の11月15日であったが、12月1日に移ったとあるが、戦時中に中断したようだ。

上平田ではデンゴロモチと呼ばれる藁棒であった。

「いのこのばんに もちつくいえは はしのいえたてて うまのけで やねふいて ここのよめさん いつもろた 三月三日のあさもろた いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやる」と囃して新婚の家を中心に各戸を回っていた。

越(こし)でも同じくデンゴロモチと呼ばれる藁棒だった。

「いのこのばんに もちのつかんいえは はしのいえをたてて うまのくそで やねふいて しんまいわらでいおてやろ ここのよめさんいつもろた 三月三日のあさもろた いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやろ」と囃して新婚の家を巡っていた。

ここで気になったのが屋根に稲藁を放り投げる上比曽の在り方である。

各地域の詞章に見られた「屋根葺き」である。

「ボボの毛で屋根葺いて」とか「かやでやねふき」がある。

もしかとすればだが、稲藁はカヤ葺きに際して投げられるカヤの束ではないだろうか。

カヤ屋根を補修する場合に行われるサシガネ。

屋根に上がった職人は一本、一本を挿し込んでいく。

一旦下に下りることなく、屋根に揚げて補給する。

その作業を模しているのでは、と思ったのである。

このようなイノコの行事にはイノコノモチ、アンツケモチ、ボタモチなどとよばれるモチがつきものであった。

「モチツクイエ」、或いは「モチツカンイエ」の台詞がそのモチを意味するのであろう。

東山地区では餅を搗かない家を「いのこのばんに もちつかんうちは・・・・」と囃した。

それはとんでもないケチであると揶揄されたという台詞であった。

また、天理市の藤井でもかつてイノコもあったそうだ。

男の子が村中を歩いて「いのこのばんに モチつかんいえは・・・しんまいワラでいおぅたれ ぺったんこ ぺったんこ」の囃子言葉があったことを六人衆が思い出された。

家の門口をワラ棒で叩いたあとは菓子をもらったそうだ。

昨年に取材した故郷の大阪南河内郡の河南町では「いのこ いのこ いのこのばん(晩)に じゅうばこ(重箱) ひろて(拾うて) あけて(開けて)みれば きんのたま はいた(入った)ったー ちょこ(しっかりの意)いわい(祝い)ましょ ことし(今年)もほうねん(豊年)じゃ らいねん(来年)もほうねんじゃ おまけ」であった。

その昔はもっと卑猥な台詞があったことを聞いた。

重箱と言えば天理市の楢町にあった興願寺の亥の子の十夜。

「十夜の晩に 重箱ひろって あけてみれば ホコホコまんじゅう にぎってにれば 重兵衛さんの キンダマやった」と歌ったそうだ。

それは如来さんのご回在の日であって如来イノコと呼んでいたと『楢町史』に記されている。

重兵衛さんの台詞は消えた河南町であるが、重箱といい、キンノタマは同じだ。

遠く離れた大阪と天理に繋がる詞章があったことに驚きを隠せない。

昭和28年に発刊された『奈良縣総合文化調査報告書』では吉野川流域・龍門地区のイノコ行事の一節が紹介されていた。

亥の子の日にはイモモチを作った。

ダダイモと呼ぶサトイモをご飯とともに搗き混ぜる。

小豆の餡を塗したオハギである。

作るのは慶びごとのあった家だ。

この日に若衆(子供)が祝いに行くと云って、ボテと呼ぶ新米藁で作った藁棒。

内部にはクワイ(慈姑)の「ヤ」というところに入れた。

そうすることでよく音がするとある。

それがどの地区であったのか記されていないが各地区の詞章が書かれてあった。

吉野町香束では「いのころもちの おねさんわ ねててかな おきてかな しんまいわらで いわいましょ」。

同町峯寺では「ここのよめさん いつもろた さんがつみつかのあさもろた しんまいわらで いわいましょ」だ。

同町西谷では「ここのよめはん いつもろた いわし三匹 酒五合 しんまいわらで いおたろか」である。

かつて行われていた県内各地のイノコ行事は史料に残るだけとなったが、山間、平坦問わずこれほど多くの地域で行われていたのである。

(H25.11. 3 EOS40D撮影)


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