出合いはこの日の午後3時。
場所は天理市滝本町。
出逢う地に目印を決めておいた。
そこは、上の地蔵がある地。
連絡してくださったのは、知人の写真家Kさん。
数日前、Kさんが、石仏地蔵の上の地蔵を撮っていたときである。
ご近所に、たぶんお住いでは、と推定された女性がいろいろ話してくれた。
戦中前後の話題かもしれませんが、あらためて当家に行くことになり、お誘いの同行を願われた。
おそらく、その女性が伝えたい過去に体験された歴史ではないだろうか。
過去、暮らしてきた民俗話題の可能性がありそうな取材に同行させてもらった。
どうぞ、あがってください、と玄関の間。
そこで語ってくださった女性はYさん。
生まれ育った築130年の古民家暮らし。
明治28年の築造。
応接の間にしたリフォームしたその2階はかつて女中さんが住み込んでいた。
おじいさんが集めた引き札に手造りした鹿の麦藁細工。
来年に行われる奈良県立民俗博館のイベント・ワークショップに参加する、という。
その話題に、県立民俗博物館・学芸員のお二人の名前が出てきて、びっくらぽん。
後日、お二人に確認をとったらお家に伺い、数々の民俗資料を・・・
腰を抜かすほど驚かしてくれた昭和6年生まれのYさん。
お喋りは止まらず、メモを取るのもたいへんになってきた鹿の麦藁細工。
材に小麦は黒くなるから使用不可。
麦は照りがあるから作品としても成り立つ。
テーブルに置いた数十頁の原稿用紙。
記憶、体験を書留めた資料。
腰痛が酷くなってきたから稲作は息子にと指導したが、水を入れた田んぼを見にいかへんから、稲地が乾いてもうて・・・
平成10年、室生寺五重塔を破壊した台風7号による影響に持ち山の樹木が全壊。
確かに、奈良県全域に襲いかかった平成10年9月22日に上陸した台風7号の脅威。
「奈良県地方気象台によれば、午前6時半に暴風警報。その約3時間後、の午前9時50分には、全県に大雨・洪水警報を発表。風雨が激しくなってきたのは、台風の中心が紀伊水道に達したころからで、雨のピークは台風の中心が県内を通過する前、風のピークは通過する前後にやってきた。各地の雨量は、22日午後4時の時点で大台ケ原が565ミリ。上北山村は354ミリ。十津川村の玉置山で274ミリ、大宇陀町は85ミリ。奈良市は62ミリだった」。
また「風速は、22日の午後3時に観測した数値は、最大風速が南南西の風。秒速13.1メートル。最大瞬間風速は、西の風が37.6メートル(※午後3時30分に計測)。この風速は、昭和36年9月に発生した第二室戸台風に次ぐ3番目の強風だった」
そのころの私は、朝から勤務していた事務所に居た。
相方、課長のY氏とともに、すべての部下を早期に帰宅させ、外の荒れぐらいを見ていた。
課長、あの旗はもうじきぶっ飛ぶのでは、と話していたとき。
まさに、その通りの事態に、我々も腰をあげて帰宅の途に就いた。
地下鉄御堂筋は、特に問題もなく近鉄難波に着いた。
さて、ここからは、近鉄奈良線に乗り換え。
生駒山を越え。トンネルを抜けたそこは奈良県の生駒駅。
こりゃぁ、どこまでいけるやろか。
乗換駅の西大寺駅について発令された近鉄橿原線が運行停止。
情報は、遅々としてわからなかったが、近鉄橿原線の田原本町辺りに立っていた、
架線を支える鉄柱が総倒れ。
パンタグラフに電気が送られず、列車は立ち往生。
つまり西大寺駅で帰宅者も立ち往生していた時間帯。
後に聞いた隣に住むご主人。
西大寺駅から徒歩で帰ってきた、という。
息子たち二人は、かーさんを待っていた。
外を見ていた二人が、あっ、飛んだと叫んだようだ。
そう、我が家の駐車場の屋根がぶっ飛んだのだ。
怖くて、怖くて怯えていた長男と次男は、まだ小学生のころに見た光景は、今も記憶に残っているようだ。
私は、といえば、順番にめぐってきたタクシー乗車で帰路に就いた。
そのことはともかく、ここ天理市滝本町も、また多くの木々が倒木状態。
偲びないYさんは、独りでこなしたという、檜、杉に桜樹の植林。
その山はどこですかと聞けば、蔵にあったという明治24年12月の『山邊郡山邊村瀧本官有地取調實測全図 地主総代‥云々』を広げてくれた。
破損、甚だしかった地測図を綺麗に整備し、屏風にした、と話すYさん。
表具の勉強をしていたから、自分一人で屏風を作ったというから、これもまた、驚きもんのYさんの能力がすごい。
昔に着ていた木綿絣の着物は、捨てるには偲びないと、思い通りに仕立て直した孫服が着る洋服。
絣の柄、紋様が今も似合う、とわかって喜んで製作中。
青い柄を見て、思わずもんぺ向きだ、と思った。
木綿絣の着衣から、ふと尋ねた“ぶとくすべ”。
それなら、つい最近になって新たに作った、という。
地下の蔵にたしかあったと思うから探してみようってことで・・・
蔵から出てきた“ぶとくすべ”は、真ん中に心棒を据えて、綿生地をぐるぐる巻き。
藁紐をしっかり縛ってできあがり。
腰バンドに据えて使っていた、という形は、先だって提供した山添村切幡のT家とほぼ同じ。
新しい綿生地で作ったおむつ。
使い古したおむつは再生利用に“ぶとくすべ”と成す。
そういうことでありましょう。
そうそう、地下蔵に陶製のアイロンを手にしたYさん。
県立民俗博物館・学芸員のお二人も興味をもっていましたね、と伝えてくれた。
また、来年春になるのかどうかわからないが、リニューアルした県立民俗博物館の倉庫が整備されたら、御殿雛を運んでもらいますねん、と・・いっていたが・・
民俗話題に道具も豊富なY家。
玄関に多種類の護符。
門屋に唐臼。
おまけにパエリヤ用途に雌蕊だけを摘むサフランをどっさり栽培しているY家。
ここにもある、と示してくれたウスヒキ道具のカラウス。
今でも使えそうな綺麗さにうっとり見ていた。
たっぷり2時間越え。
次の機会もありそうな雰囲気を後にして場を離れた。
後日、県立民俗博物館・学芸員のお二人に、今日出会ったYさんがつくってくれた心棒巻き腰バンド“ぶとくすべ”情報を伝えた。
学芸員のMさんからのコメントは「ええぇ!それはびっくらぽんです。戦時下のくらし展での体験談、パン焼き器の持ち主がYさんでした。もんぺは一着。学芸員のTさんが、ありがたくいただいてましたが、”ブトクスベ“の話はしなかったですね…。ありがとうございます!」。
「そう、パン焼き器のことも話してくれて、その展示見てきましたよ、と伝えたら喜んではりました」。
その返信コメントが「ありがとうございます。それは良かったです!麦をいただいたので、県立大和民俗公園の一角。綿畑に蒔いて育て、来年の麦藁でつくる鹿のワークショップをする計画です。Yさんに応えるためにも整理作業を頑張ろうと改めて思いました」。
「なるほど、麦で繋がったご縁に、“ぶとくすべ”までくっついてきた❣。こりゃぁ、胸がワクワクしますね」。
その返信コメントが「いろんなご縁が繋がっていくのは素晴らしいです。麦よりも猪が怖いですが、大切に育てないと・・」。
荒らす猪対策は、シシ脅しに“ぶとくすべ”を・・・
Tさんからの返信コメント。
「田中さん、嬉しい&興味深いご連絡をありがとうございます☺️まさか、Yさんを介して繋がるとは、驚きです…!実は、先日の戦争の展示の中で体験談を伺ったのもYさんです。また、わたしはこのあいだもんぺをいただきました。」に返したコメント。
「ほんと、まさか、まさかのご縁繋がり。お名前正しくはKさんでしたか。ありがとうございます。
山中家で試着した、もんぺ着衣はぴったりフイットですね。農家さんのように見え、現代的洋装は、採寸してもらって縫いはったんやろか?」
「かせや」の屋号で商売していた質屋業。
Y家は都祁白石が里。
何代も前の人が白石から、滝本に移ってきた、という。
Yさんが、突然に謳いだした詞章。
「友田、白石ごばんと おもてなぜに ウラ毛ができんやろ」が口に出る。
友田、白石は旧都祁村の盆地部。
気候の上でも平たんより気温が低い土地。
二毛作なら麦に米。
表に稲なら、裏に麦を栽培するが、寒い土地だけに麦の栽培は不向きだったようで、そのことを揶揄した「ウラ毛では麦もできんやろ」ということのようだ。
滝本町に神社は三社もある。
ハリノウ、サカグチは桃ノ尾村。
カケハシ(梯/熊橋)に鎮座する石上神社だけを神社庁に登記したそうだ。
ここ下滝本に、今も神社がある。
桃尾ノ瀧に行く道中に見る石上神社がそれにあたり、下滝本は滝本下氏神社と滝本下神社社殿の2社。
古くから伝わる宮座があったが、村座に移した。
Y家がトーヤに務めたのが最後に村座になった。
20年前に記録したビデオに最後の宮座を収録したそうだ。
神饌御供を供えていた祭具、道具は燃やす意見もあったが、大切な道具だけにY家が残した、という。
かつてはモッソがあった。
五升餅にモッソ。
これらは檜の葉に乗せて供えた。
また、サトイモに茶大豆を擦ったくるみで塗したクルミモチというから亥の子のときであろう。
宮座行事は10月14日のヨミヤに継承されたが質素になった。
氏神社はスガ神社。
急な石段があるようだが苔生えに滑るらしく、御供下げしたおさがりをもらうようだ。
(R3. 9.12 SB805SH/EOS7D 撮影)
場所は天理市滝本町。
出逢う地に目印を決めておいた。
そこは、上の地蔵がある地。
連絡してくださったのは、知人の写真家Kさん。
数日前、Kさんが、石仏地蔵の上の地蔵を撮っていたときである。
ご近所に、たぶんお住いでは、と推定された女性がいろいろ話してくれた。
戦中前後の話題かもしれませんが、あらためて当家に行くことになり、お誘いの同行を願われた。
おそらく、その女性が伝えたい過去に体験された歴史ではないだろうか。
過去、暮らしてきた民俗話題の可能性がありそうな取材に同行させてもらった。
どうぞ、あがってください、と玄関の間。
そこで語ってくださった女性はYさん。
生まれ育った築130年の古民家暮らし。
明治28年の築造。
応接の間にしたリフォームしたその2階はかつて女中さんが住み込んでいた。
おじいさんが集めた引き札に手造りした鹿の麦藁細工。
来年に行われる奈良県立民俗博館のイベント・ワークショップに参加する、という。
その話題に、県立民俗博物館・学芸員のお二人の名前が出てきて、びっくらぽん。
後日、お二人に確認をとったらお家に伺い、数々の民俗資料を・・・
腰を抜かすほど驚かしてくれた昭和6年生まれのYさん。
お喋りは止まらず、メモを取るのもたいへんになってきた鹿の麦藁細工。
材に小麦は黒くなるから使用不可。
麦は照りがあるから作品としても成り立つ。
テーブルに置いた数十頁の原稿用紙。
記憶、体験を書留めた資料。
腰痛が酷くなってきたから稲作は息子にと指導したが、水を入れた田んぼを見にいかへんから、稲地が乾いてもうて・・・
平成10年、室生寺五重塔を破壊した台風7号による影響に持ち山の樹木が全壊。
確かに、奈良県全域に襲いかかった平成10年9月22日に上陸した台風7号の脅威。
「奈良県地方気象台によれば、午前6時半に暴風警報。その約3時間後、の午前9時50分には、全県に大雨・洪水警報を発表。風雨が激しくなってきたのは、台風の中心が紀伊水道に達したころからで、雨のピークは台風の中心が県内を通過する前、風のピークは通過する前後にやってきた。各地の雨量は、22日午後4時の時点で大台ケ原が565ミリ。上北山村は354ミリ。十津川村の玉置山で274ミリ、大宇陀町は85ミリ。奈良市は62ミリだった」。
また「風速は、22日の午後3時に観測した数値は、最大風速が南南西の風。秒速13.1メートル。最大瞬間風速は、西の風が37.6メートル(※午後3時30分に計測)。この風速は、昭和36年9月に発生した第二室戸台風に次ぐ3番目の強風だった」
そのころの私は、朝から勤務していた事務所に居た。
相方、課長のY氏とともに、すべての部下を早期に帰宅させ、外の荒れぐらいを見ていた。
課長、あの旗はもうじきぶっ飛ぶのでは、と話していたとき。
まさに、その通りの事態に、我々も腰をあげて帰宅の途に就いた。
地下鉄御堂筋は、特に問題もなく近鉄難波に着いた。
さて、ここからは、近鉄奈良線に乗り換え。
生駒山を越え。トンネルを抜けたそこは奈良県の生駒駅。
こりゃぁ、どこまでいけるやろか。
乗換駅の西大寺駅について発令された近鉄橿原線が運行停止。
情報は、遅々としてわからなかったが、近鉄橿原線の田原本町辺りに立っていた、
架線を支える鉄柱が総倒れ。
パンタグラフに電気が送られず、列車は立ち往生。
つまり西大寺駅で帰宅者も立ち往生していた時間帯。
後に聞いた隣に住むご主人。
西大寺駅から徒歩で帰ってきた、という。
息子たち二人は、かーさんを待っていた。
外を見ていた二人が、あっ、飛んだと叫んだようだ。
そう、我が家の駐車場の屋根がぶっ飛んだのだ。
怖くて、怖くて怯えていた長男と次男は、まだ小学生のころに見た光景は、今も記憶に残っているようだ。
私は、といえば、順番にめぐってきたタクシー乗車で帰路に就いた。
そのことはともかく、ここ天理市滝本町も、また多くの木々が倒木状態。
偲びないYさんは、独りでこなしたという、檜、杉に桜樹の植林。
その山はどこですかと聞けば、蔵にあったという明治24年12月の『山邊郡山邊村瀧本官有地取調實測全図 地主総代‥云々』を広げてくれた。
破損、甚だしかった地測図を綺麗に整備し、屏風にした、と話すYさん。
表具の勉強をしていたから、自分一人で屏風を作ったというから、これもまた、驚きもんのYさんの能力がすごい。
昔に着ていた木綿絣の着物は、捨てるには偲びないと、思い通りに仕立て直した孫服が着る洋服。
絣の柄、紋様が今も似合う、とわかって喜んで製作中。
青い柄を見て、思わずもんぺ向きだ、と思った。
木綿絣の着衣から、ふと尋ねた“ぶとくすべ”。
それなら、つい最近になって新たに作った、という。
地下の蔵にたしかあったと思うから探してみようってことで・・・
蔵から出てきた“ぶとくすべ”は、真ん中に心棒を据えて、綿生地をぐるぐる巻き。
藁紐をしっかり縛ってできあがり。
腰バンドに据えて使っていた、という形は、先だって提供した山添村切幡のT家とほぼ同じ。
新しい綿生地で作ったおむつ。
使い古したおむつは再生利用に“ぶとくすべ”と成す。
そういうことでありましょう。
そうそう、地下蔵に陶製のアイロンを手にしたYさん。
県立民俗博物館・学芸員のお二人も興味をもっていましたね、と伝えてくれた。
また、来年春になるのかどうかわからないが、リニューアルした県立民俗博物館の倉庫が整備されたら、御殿雛を運んでもらいますねん、と・・いっていたが・・
民俗話題に道具も豊富なY家。
玄関に多種類の護符。
門屋に唐臼。
おまけにパエリヤ用途に雌蕊だけを摘むサフランをどっさり栽培しているY家。
ここにもある、と示してくれたウスヒキ道具のカラウス。
今でも使えそうな綺麗さにうっとり見ていた。
たっぷり2時間越え。
次の機会もありそうな雰囲気を後にして場を離れた。
後日、県立民俗博物館・学芸員のお二人に、今日出会ったYさんがつくってくれた心棒巻き腰バンド“ぶとくすべ”情報を伝えた。
学芸員のMさんからのコメントは「ええぇ!それはびっくらぽんです。戦時下のくらし展での体験談、パン焼き器の持ち主がYさんでした。もんぺは一着。学芸員のTさんが、ありがたくいただいてましたが、”ブトクスベ“の話はしなかったですね…。ありがとうございます!」。
「そう、パン焼き器のことも話してくれて、その展示見てきましたよ、と伝えたら喜んではりました」。
その返信コメントが「ありがとうございます。それは良かったです!麦をいただいたので、県立大和民俗公園の一角。綿畑に蒔いて育て、来年の麦藁でつくる鹿のワークショップをする計画です。Yさんに応えるためにも整理作業を頑張ろうと改めて思いました」。
「なるほど、麦で繋がったご縁に、“ぶとくすべ”までくっついてきた❣。こりゃぁ、胸がワクワクしますね」。
その返信コメントが「いろんなご縁が繋がっていくのは素晴らしいです。麦よりも猪が怖いですが、大切に育てないと・・」。
荒らす猪対策は、シシ脅しに“ぶとくすべ”を・・・
Tさんからの返信コメント。
「田中さん、嬉しい&興味深いご連絡をありがとうございます☺️まさか、Yさんを介して繋がるとは、驚きです…!実は、先日の戦争の展示の中で体験談を伺ったのもYさんです。また、わたしはこのあいだもんぺをいただきました。」に返したコメント。
「ほんと、まさか、まさかのご縁繋がり。お名前正しくはKさんでしたか。ありがとうございます。
山中家で試着した、もんぺ着衣はぴったりフイットですね。農家さんのように見え、現代的洋装は、採寸してもらって縫いはったんやろか?」
「かせや」の屋号で商売していた質屋業。
Y家は都祁白石が里。
何代も前の人が白石から、滝本に移ってきた、という。
Yさんが、突然に謳いだした詞章。
「友田、白石ごばんと おもてなぜに ウラ毛ができんやろ」が口に出る。
友田、白石は旧都祁村の盆地部。
気候の上でも平たんより気温が低い土地。
二毛作なら麦に米。
表に稲なら、裏に麦を栽培するが、寒い土地だけに麦の栽培は不向きだったようで、そのことを揶揄した「ウラ毛では麦もできんやろ」ということのようだ。
滝本町に神社は三社もある。
ハリノウ、サカグチは桃ノ尾村。
カケハシ(梯/熊橋)に鎮座する石上神社だけを神社庁に登記したそうだ。
ここ下滝本に、今も神社がある。
桃尾ノ瀧に行く道中に見る石上神社がそれにあたり、下滝本は滝本下氏神社と滝本下神社社殿の2社。
古くから伝わる宮座があったが、村座に移した。
Y家がトーヤに務めたのが最後に村座になった。
20年前に記録したビデオに最後の宮座を収録したそうだ。
神饌御供を供えていた祭具、道具は燃やす意見もあったが、大切な道具だけにY家が残した、という。
かつてはモッソがあった。
五升餅にモッソ。
これらは檜の葉に乗せて供えた。
また、サトイモに茶大豆を擦ったくるみで塗したクルミモチというから亥の子のときであろう。
宮座行事は10月14日のヨミヤに継承されたが質素になった。
氏神社はスガ神社。
急な石段があるようだが苔生えに滑るらしく、御供下げしたおさがりをもらうようだ。
(R3. 9.12 SB805SH/EOS7D 撮影)