
桜井市の笠・天満神社に東座・西座の宮座がある。
藍染展で知り合った奥さんの旦那さんは東座の一老。
ミヤモトとも呼ばれるらしい。
届いた年賀状に「一度、笠の行事を取材してほしい」と書いてあった。
お話しを伺いたく立ち寄った。
ケイチン弓打ちは諸般の事情で日程が替わり、すでに終えていた。
一老が云うには永年途絶えていた牛の藁草履を奉納する「テンノオイシキ」を平成26年に復活したそうだ。
「テンノオイシキ」は牛頭天王を祭る「天王会式」が訛ったのであろう。
立ちあげたのは「ツナウチ保存会」。
大字以外の人たちによる復活である。
その日は7月14日。
県内各地で行われている祇園祭と同じ日である。
祇園さんの祭りは八坂神社(八阪神社とも)、杵築神社、素盞嗚神社で行われている。
各社は江戸時代までは牛頭天王を祭った神社。
明治に入って神社名を代えられた。
いずれの神社でも夏祭りと称する祇園さんの祭りだ。

一老が話していたとおりの牛の藁草履は一足半。
これを牛頭天王宮の鳥居に架けてあった。

一老が子供のころの様相。
「テンノオイシキ」にお酒の肴があった。
牛頭さんの前というから御供であろう。
それをお重に詰め込んで食べていたそうだ。
現在は14日でなく、直近の日曜日に行っているそうだ。
ちなみに一老がいうには牛頭天王宮はかつて「センモリ」と呼ぶ山に鎮座していたらしい。
「センモリ」は「千森」。
「チンモリ」とも呼んでいるが、今は「チモリ」になるそうだ。

牛頭天王宮が鎮座する地のお堂らしき建物がある。
もしかとすれば地蔵堂であるかもしれない。
昭和36発刊の『桜井市文化叢書 民俗編』によれば石の地蔵尊を祀り、8月24日が会式だと書いてあった。
しかもだ。
地蔵堂の境内に庚申石があり、雌雄二つの草鞋を供えてあり、それは5月の田植え前に村の青年たちが集まって作り上げたというのだ。
豊作祈願の草鞋は確かにあった。

牛の藁草履である。
シュロの毛も入れて編み込んだ雄雌の草履を一足ずつ作って合体させる。
庚申さんの処に吊るす草履は、今でもそこに残っていたのである。
「テンノオイシキ」は「天王会式」。
もしかとすれば地蔵堂僧侶による仏式行事であったかもしれない。
牛頭天王宮の鎮座地は一老家からすぐ近くだった。
一老が話した藁草履があった牛頭天王宮の燈籠に「寛政四年(1792)十一月吉日 天王宮常夜燈」の刻印があった。
一方、「安永九庚子(1780)天 西国九月吉日」の刻印がある庚申さんの前には旧暦閏年の庚申日待ちの痕跡もあった。

ちなみに2月初めの日曜日。
月並祭に合わせて行われるイチン弓打ちの正式行事名は蟇目祭(ひきめさい)。
笠の結鎮(ケイチン)講の行事である。
講中が竹を編んで鬼の的を作る。
弓は桜の木で弦は麻苧(現在はナイロンロープ)だ。
矢はカヤススキの鏑矢。
それにススンボの竹を先に付ける。
矢は7本作る。
年齢順に宮座の東座・西座十二人衆のうち長老の一老から六老が東、西、南、北、天、地に矢を射る。
残った七老以下は鬼の的をめがけて矢を射る。
鬼を仕留めるということだ。
一老が話す笠のこと。
笠は南組(大久保)、西組、庄中中組、東組、千森の五垣内。
千森は上組、中組、奥組の三つに分かれ、合計は七垣内になる。
50年前の笠は103戸もあったが、現在は60戸。
ほぼ半数になった。
七垣内それぞれに座があり、東座と西座に分かれる。
昔は六座もあった。
それぞれの座から二人ずつマツリに出仕する。
戸数が減ったことによって今は東座と西座の二座になった。
一老の話しはまだまだ続く。
かつては名替えがあった。
ある年齢に達すれば呼び名を替える儀式である。
何々ザエモン(佐衛門)とかウエモン(上衛門)があった。
替えた呼び名を提灯に書いてつらくったそうだが、今はされていない。
ちなみに天満神社のマツリ(九月当屋)は10月25日だった。
今は近い日曜日に移ったようだ。
東座、西座の両座それぞれに年齢順の六人衆(一老~六老)が年中行事を務める。
マツリは天満神社の分霊を家で祀るトーヤ(当屋)家(大当屋の大頭)が接待をする。
トーヤ家は注連縄を一年間、屋根に揚げておく。
トーヤ家の当人は拝殿で丸帯を締めて、相撲を取組むような恰好をする。
そう書いていたのは『桜井市文化叢書 民俗編』だ。
(H27. 2.15 EOS40D撮影)
藍染展で知り合った奥さんの旦那さんは東座の一老。
ミヤモトとも呼ばれるらしい。
届いた年賀状に「一度、笠の行事を取材してほしい」と書いてあった。
お話しを伺いたく立ち寄った。
ケイチン弓打ちは諸般の事情で日程が替わり、すでに終えていた。
一老が云うには永年途絶えていた牛の藁草履を奉納する「テンノオイシキ」を平成26年に復活したそうだ。
「テンノオイシキ」は牛頭天王を祭る「天王会式」が訛ったのであろう。
立ちあげたのは「ツナウチ保存会」。
大字以外の人たちによる復活である。
その日は7月14日。
県内各地で行われている祇園祭と同じ日である。
祇園さんの祭りは八坂神社(八阪神社とも)、杵築神社、素盞嗚神社で行われている。
各社は江戸時代までは牛頭天王を祭った神社。
明治に入って神社名を代えられた。
いずれの神社でも夏祭りと称する祇園さんの祭りだ。

一老が話していたとおりの牛の藁草履は一足半。
これを牛頭天王宮の鳥居に架けてあった。

一老が子供のころの様相。
「テンノオイシキ」にお酒の肴があった。
牛頭さんの前というから御供であろう。
それをお重に詰め込んで食べていたそうだ。
現在は14日でなく、直近の日曜日に行っているそうだ。
ちなみに一老がいうには牛頭天王宮はかつて「センモリ」と呼ぶ山に鎮座していたらしい。
「センモリ」は「千森」。
「チンモリ」とも呼んでいるが、今は「チモリ」になるそうだ。

牛頭天王宮が鎮座する地のお堂らしき建物がある。
もしかとすれば地蔵堂であるかもしれない。
昭和36発刊の『桜井市文化叢書 民俗編』によれば石の地蔵尊を祀り、8月24日が会式だと書いてあった。
しかもだ。
地蔵堂の境内に庚申石があり、雌雄二つの草鞋を供えてあり、それは5月の田植え前に村の青年たちが集まって作り上げたというのだ。
豊作祈願の草鞋は確かにあった。

牛の藁草履である。
シュロの毛も入れて編み込んだ雄雌の草履を一足ずつ作って合体させる。
庚申さんの処に吊るす草履は、今でもそこに残っていたのである。
「テンノオイシキ」は「天王会式」。
もしかとすれば地蔵堂僧侶による仏式行事であったかもしれない。
牛頭天王宮の鎮座地は一老家からすぐ近くだった。
一老が話した藁草履があった牛頭天王宮の燈籠に「寛政四年(1792)十一月吉日 天王宮常夜燈」の刻印があった。
一方、「安永九庚子(1780)天 西国九月吉日」の刻印がある庚申さんの前には旧暦閏年の庚申日待ちの痕跡もあった。

ちなみに2月初めの日曜日。
月並祭に合わせて行われるイチン弓打ちの正式行事名は蟇目祭(ひきめさい)。
笠の結鎮(ケイチン)講の行事である。
講中が竹を編んで鬼の的を作る。
弓は桜の木で弦は麻苧(現在はナイロンロープ)だ。
矢はカヤススキの鏑矢。
それにススンボの竹を先に付ける。
矢は7本作る。
年齢順に宮座の東座・西座十二人衆のうち長老の一老から六老が東、西、南、北、天、地に矢を射る。
残った七老以下は鬼の的をめがけて矢を射る。
鬼を仕留めるということだ。
一老が話す笠のこと。
笠は南組(大久保)、西組、庄中中組、東組、千森の五垣内。
千森は上組、中組、奥組の三つに分かれ、合計は七垣内になる。
50年前の笠は103戸もあったが、現在は60戸。
ほぼ半数になった。
七垣内それぞれに座があり、東座と西座に分かれる。
昔は六座もあった。
それぞれの座から二人ずつマツリに出仕する。
戸数が減ったことによって今は東座と西座の二座になった。
一老の話しはまだまだ続く。
かつては名替えがあった。
ある年齢に達すれば呼び名を替える儀式である。
何々ザエモン(佐衛門)とかウエモン(上衛門)があった。
替えた呼び名を提灯に書いてつらくったそうだが、今はされていない。
ちなみに天満神社のマツリ(九月当屋)は10月25日だった。
今は近い日曜日に移ったようだ。
東座、西座の両座それぞれに年齢順の六人衆(一老~六老)が年中行事を務める。
マツリは天満神社の分霊を家で祀るトーヤ(当屋)家(大当屋の大頭)が接待をする。
トーヤ家は注連縄を一年間、屋根に揚げておく。
トーヤ家の当人は拝殿で丸帯を締めて、相撲を取組むような恰好をする。
そう書いていたのは『桜井市文化叢書 民俗編』だ。
(H27. 2.15 EOS40D撮影)