ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「スキマを開く」 20201202

2020-12-02 | Weblog

 

 ───河本英夫『臨床するオートポイエーシス』(2010、青土社)

  意識は選択の場所を開き、そこで注意を分散させることができる。
  車の運転をしながら、隣席の友人と話しこんでいるときでも、
  眼前の信号が赤に代われば、とっさに反応できる。
  意識は注意を分散的に活用するための場所を開いている。

  通常、知るという働きでは、意識は焦点化の方へ強いバイアスがかかってしまう。
  そしてそれを志向性と呼んで、意識の本性が志向性だなどと思いこんでしまう。
  ところが意識は、それじたい注意の場所を開き、そこに選択的な強さの違いをつけ、
  分散的に活用することもできる。

  …意識の本性は、心の働きに隙間を開き、
  選択を可能にするための遅延機能だという点で、
  一つの落ち着きどころを迎えている。
  ……自分自身に対して隙間を開き、
  自己の挙動を遅らせることに本来の働きがあると考えられる。

     *

記述が確定した確定項が示す〝世界〟へ同期することで得られるもの、失われるもの、その収支。
この収支を計算できるのは、ただ一人、
「個」(私)という実存、その心の内以外にはない。

収支計算を行うためには「確定項の外」へ、
いったん記述されざる位相に立たなければならない。

記述を確定した世界の中にあって生をやりくりするのではなく
世界を記述する記述そのものが生まれる場所へ
さまざまな世界記述がそこから立ち上がる始原的な位相への帰還

それはつねに、実存の身体的うごめき、
実存の声が告げる「異和」「ノイズ」「矛盾」「息苦しさ」が教え、うながす。

たとえば「法の正当性」を根拠づけるものは法の中には内在しない。
ある法の正当性を検証し、修正を導く拠点を法の内側に置くことはできない。
法内部では法の正当性は不問に付され、ただその遂行命令としての記述が埋めている。

「それは法に値する/法に値しない」という視線は法の外にある

同じく、ある社会体の本質を問う視線は社会体に内在しない。
社会体=関係のゲームが「生きるに値する/生きるに値しない」という視点
それはただ「内なるスキマ」──新たな選択を開く心的なスペースに立ち上がる

 

 

 

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