ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

坂口安吾「教祖の文学」 (1947年「新潮」)

2020-12-22 | 参照

───出典「青空文庫」から抜粋

私は然し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や実朝の歌や徒然草が何物なのか。
三流品だ。私はちっとも面白くない。私も一つ見本をだそう。
これはただ素朴きわまる詩にすぎないが、私は然し西行や実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ。
宮沢賢治の「眼にて言ふ」という遺稿だ。


だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず
血も出つゞけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといい風でせう
もう清明が近いので
もみぢのわかめと毛のやうな花に
秋草のやうな波を立て
あんなに青空から
もりあがつて湧くやうに
きれいな風がくるですな
あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄(こんぱく)なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを言へないのがひどいです
あなたの方から見たら
ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やつぱりきれいな青ぞらと
すきとほつた風ばかりです


半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当りの話だけれども、
徒然草の作者が見えすぎる不動の目で見て書いたという物の実相と、
この罰当りが血をふきあげながら見た青空と風と、まるで品物が違うのだ。
思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目。
そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見ていやしない。
つまり小林の必然という化け物だけしか見えやしない。
平家物語の作者が見たという月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいうそんな月が一体そんなステキな月か。
平家物語なんてものが第一級の文学だなんて、バカも休み休み言いたまえ。
あんなものに心の動かぬ我々が罰が当っているのだとは阿呆らしい。
本当に人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当った奴でなければ、書けないものだ。
思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目などには、
宮沢賢治の見た青ぞらやすきとおった風などは見ることができないのである。
生きている奴は何をしでかすか分らない。
何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、
悲願をこめギリギリのところを這はいまわっている罰当りには、
物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。
自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。
芸術とはそういうものだ。

歴史の必然だの人間の必然などが教えてくれるものではなく、
偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、
その賭によって見ることのできた自分だけの世界だ。
創造発見とはそういうもので、思想によって動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。

人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない。
歴史というお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、
自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。
仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、
自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらえて行くのだ。


人間一般は永遠に存し、そこに永遠という観念はありうるけれども、
自分という人間には永遠なんて観念はミジンといえども有り得ない。
だから自分という人間は孤独きわまる悲しい生物であり、はかない生物であり、死んでしまえば、なくなる。
自分という人間にとっては、生きること、人生が全部で、彼の作品、芸術の如きは、
ただ手沢品(しゅたくひん)中の最も彼の愛した遺品という外ほかの何物でもない。

人間孤独の相などとは、きまりきったこと、当りまえすぎる事、そんなものは屁でもない。
そんなものこそ特別意識する必要はない。そうにきまりきっているのだから。
仮面をぬぎ裸になった近代が毒に当てられて罰が当っているのではなく、
人間孤独の相などというものをほじくりだして深刻めかしている小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当っているのだ。

自分という人間は他にかけがえのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、
自分の人生を精いっぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。
人間一般、永遠なる人間、そんなものの肖像によって間に合わせたり、まぎらしたりはできないもので、
単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。

文学も思想も宗教も文化一般、根はそれだけのものであり、
人生の主題眼目は常にただ自分が生きるということだけだ。
良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたという兼好法師はどんな人間を見たというのだ。
自分という人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたって何も見ていやしないのだ。
自分の人生への理想と悲願と努力というものが見えなければ。

人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。
なぜなら、死んでなくなってしまうのだから。自分一人だけがそうなんだから。
銘々がそういう自分を背負っているのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。
それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ。

小説なんて、たかが商品であるし、オモチャでもあるし、そして、又、夢を書くことなんだ。
第二の人生というようなものだ。有るものを書くのじゃなくて、無いもの、今ある限界を踏みこし、
小説はいつも背のびをし、駈けだし、そして跳とびあがる。だから墜落もするし、尻もちもつくのだ。

 

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