ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「ゲーマー、人類」 20201213

2020-12-13 | Weblog

 


「ファンタジーを立ち上げること。そのことに尽きます」
「えっ、お花畑?」
「新たな存在の可能性、つまり、いまここにない〝ありうる〟を思い描くこと。
新たなプレーの可能性をイメージすることでプレーヤーのからだも思考も活性化する」
「妄想?」
「子どもが自転車に乗る練習をするのも、一心に乗りたいと欲望すること、
自転車を乗りこなすファンタジーを感じているからです」
「変身する」
「そう。自転車の運転マニュアルをいくら読んでも自転車を乗れるようにはならない」
「わかるよ」
「人間の身体はロボットにはない精妙な学習能力、何より変化する力をそなえています」
「それが創発性?」
「新しいアイデアが生まれる、できなかったことができる体制を立ち上げる。
そのためにエクササイズする。身体をみずから作り変えることができる。そんなことです」

「そして大事なのは、そのための〝スペース〟を開いておくということです。
同時に、スペースを消すように動くものについて敏感である必要もある。
さらにいえば、そのための一般条件としての社会のありかたも問われる」

「いわば日常的なフラットで予測可能性に満ちた地平に、予測不可能な位相を開き、
新たな〝ありうる〟の可能性、存在可能のフィールドをキープする。
子どもにオトナを問わず、生命的活性の源泉としてファンタジーへの志向は共通します」
「う~ん」
「ファンタジーとは、人間の自由にとっての最大の果実、ともいえます。
新たな〝ありうる=存在可能〟をめがける根本動機であり、それをイメージすることともいえる」
「それがファンタジー?」
「既定のフレームを超える新しいイメージやアイデア、〝ありうる〟と出会う。
この世界における存在のフォームを書き換える可能性、その予期において生きること」
「アイデアねえ」
「サッカーの観客がスーパープレーに感動するのも、それを見たいと期待するのも、
みずからのそうした根源的な志向がサッカーに感応し活性化することを知っているからです」
「根源的な志向ねえ。おもしろきこともなき世をおもしろく、とか?」
「ええ。ルーティーンで埋まったフラットな日常から離陸する夢を描く」
「お花畑のイメージ」
「ある意味ではそう。しかし一群のプレーヤーたちは現実にそのことを成し遂げます」
「ファンタジーねえ」
「子どももそれを成し遂げるために日々遊び回っている」
「オトナもそうか」
「オトナもそうなのですが、意識内部にさまざまなノイズや指令が挿入されていて、
つまり、社会的な関係意識に媒介されることで、主体としての活動が弱められ、
ファンタジーをめがけて生きることの根本動機を見失っていく。
なので、お子様ランチとして片付けて処理することがオトナのふるまいだと思い込んでいる。
けれども、それは人間の実存を一番深いところで支えているものです」

「歴史的にはさまざまなファンタジーが立ち上がり、人間と社会を動かしてきた。
カミサマ、革命、恋、芸術、学問(真理探究)、エトセトラ。
それぞれに理由と根拠がある。けれど、本質は一つです──ファンタジー」

「ということは、コントロールの宇宙ではファンタジーは生成しない……」
「記述済みのアルゴリズムに従うなら、ゲームの未規定性、わくわくに出会うことはできない。
すべて説明可能な出来事として、どう処理するかというノウハウの問題にされてしまう」
「それ以外の情報はすべてノイズとして処理され、ごみ箱に入れられる」
「コントロールの宇宙では、ゴールは単なるA地点からB地点、C地点への移動といった、
単純な線形的な記述の内部ですべての問題が処理されてしまう。
つまり、いかに効率よくゴールにボールを運ぶか、その方法的思考だけが課題になる」
「かもしれない。プレーヤーの経験の意味は問われない」
「ファンタジーへの信頼があるとき、コントロールの宇宙は縮小し、背景にしりぞく。
信頼がゆらぎ、諦念と受容が支配するときファンタジーは消える――、このことも原理的です」

 

 

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