私は初老男である。
5歳の女の子が亡くなった。
「保護先任者遺棄致死」
だという。
しかし、世間の人々はもうわかっている。
これは「殺人事件」だということを。
「いじめ」なるものだって、もう「傷害」であり、相手が死ねば「傷害致死」ないしは「殺人」である。
こんなのは、もう説明するような話ではないと思うのだ・・・・。
いまだ、こうした事態がそうした罪名に切り替わらないのは現在の「犯罪の現状」「法律による解釈」が一致していないからだ。
5歳の女児を殺した父親は、二度不起訴になっているという。
つまりは起訴相当には足りないが、書類送検されたということ。
検察が絡む事案を、女児のことで起こしていることは一般人の感覚では「ただ事」ではない。
児童相談所での聞き取りなどでも「充分反省した」と確認できたという。
私の感覚だが、これは口だけでなく父親は「本当に反省」していたのだと思う。
しかし、人間の感覚・精神・深層心理などというモノは、とてもそんなに簡単にできていない。
そうでなければ殺人・犯罪・薬物依存など起きてはいない。
そして、よく言われると様に「ほとんどビョーキ」としか言いようのない行動にでる。
狭い「家庭・家族・親子」という関係性において「標準」なんてものは無いのである。
それは人数が少なければ少ないほど、その関係した人間の意識がすべてを決定づける。
二人の大人。
それも夫婦。
二人の子供。
一人は1歳。
となれば二人の大人が家庭内のことのすべてを決定づけている。
ごく当然のことでありそんな家族はゴマンとあり、なんの問題もなく幸せな家庭が築かれている。
些細な波風が立っているにしてもだ。
しかし「些細なこと」であるかどうか、実はほとんどその家庭内で判断されることで他人からは分からない。
今回の事案で言えば児童相談所は、これ以上のかかわりを持つことはほとんど不可能だったと私は思っている。
香川から引っ越して東京に来れば、残念ながら香川の時のような対応ができないであろうことは素人のわたしでもよくわかる。
近所の人たちが児相に連絡することもできるし、事実あっただろう。
しかし、東京においてのそれが、香川の時と同じようにできるとは思えない。
さらに、5歳の女児がどういう状態であるか確認しようとしても、母親が拒否したら無理矢理部屋に踏み込むことは、警察であっても簡単にはできない。
逆に、本当になんともない状況で当事者となったら、踏み込まれたら大変だ。
児童相談所の職員が圧倒的に足りないのも、さもありなんと思う。
ある政治評論家が言っていた。
「民主主義は『時間』がかかる」
そうなのである。
誤謬の範囲をなるべく狭めていく上において、まさに人権を大切にすればするほどこうした犯罪の定義・行動における詳細を厳密にしなければならない。
ここまで縷々かいておいて、ナンであるが・・・・。
そんなことは全部すっ飛ばして「人間の尊厳・人間の性善」を信じられれば、起きない事案だ。
モラルなんてものは、少しずつ少しずつ積み上げて「崩さない」ようにするしかない。
様々な要素でそうしたモラルを加速度的に壊していってしまっている今の日本において、あまりに空しい提案ではあるけれど・・・・。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、得か損かや自分の感情ではなく「良心」に従って行動しますように。
May
私は自分の子供に手を挙げたことは一度もない。他人に暴力をふるっていいという観念は自分の子供であっても私自身に存在していない。