Fish On The Boat

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『明恵(みょうえ) 夢を生きる』

2024-08-01 22:44:30 | 読書。
読書。
『明恵(みょうえ) 夢を生きる』 河合隼雄
を読んだ。

鎌倉時代の高僧・明恵(みょうえ)が若い頃から何十年も書き続けた、いわゆる夢日記である『夢記(ゆめのき)』は、散逸してしまったものも多いながらも、大半が現代に残されているそうです。その夢についてユング派心理学者・河合隼雄が読み解くのが本書なのでした。フロイト以前に、こんなに夢の素材が残されているのは稀有な事例だとか。

明恵上人といえば華厳宗の人ですが、浄土宗を起こして日本仏教界に革命を起こした法然を厳しく批判した僧侶として知られていると思います。ですが、だからといって、頭の固い守旧派というタイプでもないのです。たとえば江戸時代の終わりまで基本的なルールとなっていた北条泰時作成の「貞永式目」の基盤となっている考え方は、当時、泰時が明恵から大きな影響を受けたがため、明恵の精神が息づいたものとなっていると、山本七平は指摘しているそうです。日本仏教の歴史としては、法然の方がビッグネームで、明恵は名前が少しばかりでるくらいだそうですが、歴史の実際面においては、裏で大きな影響を与えた人なのかもしれません。

また、一人の人物としても、夢への向き合い方が軽薄ではなく、夢の持つ深長さを見損ねなかった人でもあったようです。著者が言うところをかいつまむと、夢というものはその時点での、その人物の精神レベルや人格的到達のレベルを反映していたりもしますし、深層意識が現われてきたり、もっと深い意識レベルに沈潜していることで見た夢には、共時性(シンクロニシティ)が発生したりします。そのような深い夢を見ながら、そういった夢を大切に扱い、日常にフィードバックするようなかたちで人間的に成長していったのが明恵であると言えそうです。ある種の、夢との理想的な向き合い方や付き合い方を成し遂げた人だと言えるのだと思います。

さて、明恵の見た夢自体とその解釈もおもしろいのですが、斜め読みでの引用と感想という形にしようと思います。ちょっと脱線気味に読んだほうが、僕にはおもしろかったので。



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コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。イデオロギーは、むしろ切り捨てることに力を持っている。イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界をつくろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまで正しい存在となってくる。
しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生と死、善に対する悪、のような受け入れがたい半面が存在していることを認めざるを得ない。そのような自分自身も入れこんで世界をどう見るのか、世界の中に自分自身を、多くの矛盾と共にどう位置づけるのか、これがコスモロジーの形成である。
コスモロジーは論理的整合性をもってつくりあげることができない。コスモロジーはイメージによってのみ形成される。その人の生きている全生活が、コスモロジーとの関連において、あるイメージを提供するものでなくてはならない。(p101-102)
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→明恵は、その当時、バンバン!とイデオロギーを打ちだしていったたくさんの僧侶とは違い、母性的な包含のスタイルつまりコスモロジーのほうの僧侶だったと捉えることができるようです。著者は、現代においては、こういったコスモロジーの思想のほうが生じつつあると見ています。よって、明恵を見ていくことは、現代を創っていく上でのヒントになると言えるのでしょう。



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手水桶の水に一匹の虫が落ちて死にかかっているので、これを助けるようにと言う。良詮が驚いて手水桶を見にゆくと、果たして蜂が一匹溺れて死にそうになっていた、などというエピソードが述べられている。他にもこのような逸話が多く記載されており、(中略)深い無意識層にまで下降すると、このようなことがよく生じると、現在の深層心理学では考えられており、明恵の修行の深さが窺い知れるのである。(p152)
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→ただ、こういった共時性や偶然の一致などに対して、一般の人は首を突っ込まないほうがよいようなことも述べられています。激しい混乱を身に招いてしまうみたいになってしまいます。まあ、そりゃそうですよね。別の本(『たまたま』 レナード・ムロディナウ著)にあった知見ですが、「意味が存在するときにその意味を知ることが重要であるように、意味がないときにそこから意味を引き出さないようにすることも同じくらい重要である。」とありましたが、これはこういった共時性になどに対する精神衛生上大切な心構えであるでしょう。不用意につっこんではいけない。もともと通常の意識の弱い人や、極端に身体疲労している人などは、こういった体験で気がヘンになってしまうことも珍しくない、と書かれています。明恵はもしも現代にいたとしてもそうとう合理性の秀でた人で、ましてやその合理性は鎌倉時代当時ではありえないくらいのレベルにあったと考えられる人です。だからこそ、不可思議ともいえる共時的体験などをしても、健全でいられたのかもしれません。



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われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、その背後において失われたものに対する悲しみとの、両者を共にしっかりと体験することによって、バランスを保つことができる。(p243)
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→選択をするということは、何かを得ながら何かを失うことだと著者が述べている部分です。このことについて、最近では「トレードオフ」と呼ばれていますよね。



引用はここまでです。あとは特に残しておきたいなと思ったトピックを。

少なくとも数世紀の間、警察も監獄も精神病院も必要とせず平和に暮らしたというマレー半島のセノイ族の話がありました。彼らは見た夢を分析する習慣があって、「では次に同じ夢を見たらこうしよう」と意識を介入させ、夢を「体験」していき、「体験」を蓄積していく。これが精神の健康を保つ、というのが著者・河合隼雄の弁です。ちょっと調べたら、別の著者による『夢を操る: マレー・セノイ族に会いに行く』という本が出てきました。こういった一民族の習慣が医療のヒントや知見となったりしないのでしょうか。まあ、どちらの本も30年以上前のものですけれども。

もうひとつ。

明恵が弟子に言っている、次のことが刺さりました。一人で修行すると、静かだし何ひとつ邪魔立てされず便利なように思われるが、実際は知らず知らず時間にゆとりがあることにごまかされて、なまけ怠ってしまう危険性がある、というのがそれです。僕も一人になれたらどれだけ読書や原稿が捗るかと思っていましたけれど、いま一人になってみると(仮の一人暮らし期間中です)明恵の言うことがよくわかるのです。でも、心身の調子はもう間違いなく上がってきたんですけどね。

といったところでした。河合隼雄さんの著書は膨大に残されているので、読んでも読んでもまだまだといった感じですし、その心理学の深さや難しさはどうしてもこういった読書だけでは消化して身につけることは難儀です。それでも、読みものとしておもしろいですし、ちょっとばかりの心得は僕でもつけることができるのが嬉しいところです。


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