鎌倉、室町、戦国時代末期まで続いた大内氏の繁栄と滅亡をアオサギの飛行姿と一緒に紹介しましょう。
大内氏は、日本と明との間の貿易(日明貿易=勘合貿易)による膨大な利益によってその繁栄を支えていました。
当時の明王朝は朝貢貿易、すなわち冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認めなかったため、室町幕府将軍が明皇帝に対して朝貢し、明皇帝からの頒賜物を日本に持ち帰るという建前での貿易でした。
室町幕府の支配権を確立するための資金を必要としていた足利義満(1358~1408年)は、建前を捨てて実利を取りましたが、幕府の権力が確定した1411年、朝貢は屈辱であるとして貿易が停止されています。しかし財政基盤が落ちた6代将軍足利義教時代(1432年)にまたも貿易は復活しています。
日明貿易では、明で購入した糸や書画骨董などの商品が、日本で10倍で売れたというので、貿易による利益は莫大なものだったようです。
応仁の乱(1467~1477年)以後の遣明船は、管領家の細川氏、大内氏、博多や堺の有力商人に請け負わせる方式を取るようになり、大内氏はこの貿易による利益で繁栄を続けることができたのです。
相国寺の僧の日記などによれば、室町中期の貿易船の輸出総額は600万貫(現在の価値で600億円くらいか)、それで購入した明の商品が日本で10倍になるなら、総額6000万貫(6000億円)となる計算です。(大内氏にはその三分の一くらい渡ったかもしれません)
大内義興は、こうして稼いだ資金を使って山口に亡命してきた足利義稙を奉じて上洛、将軍職に復帰(1516年)させることで、大内氏が永久的な遣明船派遣の管掌権を得ています。上洛の主目的はこの貿易管掌権だったのでしょう。
1519年に大内義興が山口に戻ってしまうと、これに反発した細川高国は大内氏に対立姿勢を見せて1523年に遣明船を派遣、大内方が細川方を明の寧波で襲撃して遣明船を焼き払う寧波事件が発生しています。
参考文献:大内氏の興亡 古川 薫著