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林房雄の小説から西南戦争のきっかけとなった薩摩藩火薬庫襲撃事件と、アオアシシギの飛行を併せて紹介しましょう。<・・・>が小説からの引用

鹿児島私学校党の反乱を恐れた木戸孝允は、渋る大久保利通を強引に説得、大久保の政府は傭船を鹿児島に派遣し、深夜密かに弾薬の搬出を図ったことから、私学校徒による薩摩藩火薬庫襲撃事件が発生しています。

明治維新前の薩摩藩士は、持ち高1石につき8.1合の録米(総計32400石)を藩庫に納め、藩はその録米で銃器と火薬を製造、この制度は何と明治9年秋まで続いていたのです。(木戸孝允はこの事情を知らなかったのでしょう)

鹿児島藩の兵器火薬製造所は、明治4年の廃藩置県で名目上陸軍の所轄に移されていますが、中に保管されているものは、藩士の録米で調達されたもの、すなわち鹿児島士族のものという意識が私学校生徒にはあったのです。

私学校徒による薩摩藩火薬庫襲撃事件後の私学校大講堂では<村田新八が何か発言をしようとしたとき、桐野利秋の大声がひびいた。「議論は無用だ。もはや大義名分論にこだわっている時ではないぞ。ただ断の一字あるのみ。君側清掃、厚徳新政、この大目的のために旗鼓堂々と出発するのだ。正兵も奇兵もあるものか。今は西郷先生の決裁をあおぐのみだ>

<そうだ決裁。断の一字。賛成。賛成。叫び声と共に私学校大講堂もゆれる拍手がわきおこった。桐野は西郷の前に出て「先生、御決裁を」西郷は半眼を閉ざして、議論の進行を聞いていたが、その眼を開いて「おれの決裁がいるのか」>

<(薩摩藩火薬庫襲撃)事件は、先生の留守中に起こりましたが、すべて政府の挑発から発したものです。校徒12千名の怒りはおわかりでしょう。先生が行けと一言申されれば、明日にも出発いたします>

<西郷は瞑目しながら「桐野、おまえも知っているはずだが、おれは挙兵と内乱を考えたことは一度もない。従って、進発については、策も戦略も持ち合わせていない」>

<「しかし、みながその気なら、おれの身体は差し上げる。あとはおまえらのいいようにしてくれ」西郷吉之助の運命はこの一言で決まった>薩摩士族の禄米で蓄えた武器弾薬を東京政府が密かに持ち出そうとしたことが西南戦争のきっかけとなったのです。

<反乱はすでに始まっていた。ただ、西郷がこれに参加しているかどうかは不明であった。当時東京にいた岩倉具視、大久保利通、大山巌などは西郷が暴徒の中にいることを信じなかった。明治天皇と一緒に京都御所にいた三条実美、木戸孝允、伊藤博文等も西郷の参加は信じていなかった>

参考文献:西郷隆盛 林房雄著



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