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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



山口の大内氏を紹介した際に、大内氏は大内義隆の代で事実上滅亡したと書きましたが、どっこい大内氏は徳川大名家として連綿と続いていました。ミサゴの写真と一緒に大内氏の末裔を紹介しましょう。

足利義満を相手に堺で堂々と戦った大内義弘(1356~1400)の次男が大内持盛(1394〜1433)、持盛の長男が大内教幸(義弘の孫・道頓とも・1418?〜1476?)、教幸の弟が大内の家督を継いだ大内教弘(1420〜1465)です。

この兄弟は大内氏の家督をめぐって争い、大内教幸(道頓)は豊前で戦死していますが、その嫡男・大内任世(ただよ)は、父親が戦死した際に尾張国まで逃れてそこに定住し(1480年頃か?)、大内氏の本拠地・山口の地名をとって、そこで山口氏と称しています。

尾張移住から80年後に生まれた山口(実は大内)重政(1564〜1635年)は、織田家の家臣・佐久間氏に仕えたのち、織田信雄、徳川秀忠と主君を変え、1600年の関ヶ原の戦功で上総国5000石、武蔵国5000石、合計1万石を領する大名になっています。

山口重政の嫡男・山口 重信(1590〜1615年)は、大久保忠隣(1553〜1628年)の養女を正室に迎えますが、正式な幕府の許可を受けていなかったために重政は1613年に改易(大久保忠隣も翌年改易)となり、山口父子は武蔵国入間郡越生庄に蟄居させられています。

翌年(1614年)起こった大坂冬の陣に父子で参戦しようとしますが、すぐに和議が成立しため蟄居の地に引き返しています。しかし、次の夏の陣で山口父子は井伊直孝軍に属して奮戦、嫡男の山口 重信が豊臣方の武将・木村重成に討ち取られて戦死しています。

この戦死で山口氏の幕府忠誠が認められ、元の上総国5000石、武蔵国5000石に加えて下野国に5000石、合計1万5000石の大名として目出度く復活したのです。

山口氏は第2代藩主・山口弘隆のとき、常陸国牛久に陣屋を構えています。(弘隆は弟に5000石を分知したため、牛久藩の総石高は 1万石)

この山口氏(大内氏)の常陸国牛久藩は、明治維新まで続き、最後の藩主となった山口 弘達( ひろよし・1860〜1932年)は、維新後(1884年)に子爵。学習院の教授を務め、貴族院議員も5期務めています。山口で繁栄していた西国屈指の大大名大内氏は、江戸から明治まで連綿と続いていたという話でした。

参考文献:大内氏の興亡 古川 薫著



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