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海軍乙事件は、太平洋戦争中の1944331日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将(18851944年)が搭乗機の墜落により殉職した事件で、事件の際に日本軍の最重要軍事機密文書がアメリカ軍に渡ったことが知られています。

これより先に陸軍でも同じような事件が発生していますが、陸軍はこの不祥事を隠していたことを最近知りましたので、アオアシシギの飛行写真と一緒に紹介しましょう。

古賀大将に相当する人物は、11軍司令官塚田攻(おさむ)陸軍中将(18861942年・56歳で没)で、当時から「強行論を吐けば満足する猛将」と見做されていました。

塚田攻は、陸士19期、陸大26期。日中戦争開戦後、中支那方面軍参謀長、第8師団長を経て、194011月~194111月参謀次長、194111月~19427月南方軍総参謀長として南方作戦を担当しています。陸軍では出先の南方軍総参謀長が参謀次長より偉かったようです。

さらに塚田中将は、19427月に南方軍総参謀長から支那派遣軍・第11軍司令官に栄転、第11軍は太平洋戦争開戦時に6個師団と2個混成旅団で構成(1個師団兵力を2万人、1混成旅団兵力を5千人と仮定すると、第11軍の総兵力は約13万人)その最高指揮官となっています。

7月に着任した塚田第11軍司令官は、5か月後の1218日、支那派遣軍会議があった南京から軍司令部のある漢口への帰途、飛行機事故で殉職したことになっていますが、実は・・・

南京から漢口までの空路は、日本軍が支配している揚子江上空を飛行するのが最も安全で、前任の阿南惟幾軍司令官などは常にこのルートをとっていました。しかし勇猛(軽率と同じ意味でしょう)な塚田軍司令官は、敢えて最短距離となる直線ルートを指示、待ち構えていた中国軍の対空機関砲で撃ち落とされたのです。・・・ここからはソリハシシギの飛行

この撃墜で塚田軍司令官が携行していた最重要軍事機密文書(支那派遣軍の兵力、配置、資材集積量などの資料)が中国側の手に渡り、支那派遣軍だけでなく大本営全体の作戦計画に重大な影響が出てしまったのです。

陸軍はこの不祥事を不慮の事故として処理、わざわざ危険なルートを指示した塚田攻は、責任を問われることなく殉職とされ、ちゃんと陸軍大将に進級しています。こういう軽率な人物が13万人の兵力を率いて戦争を指揮していたことに驚きました。

参考文献:武漢燃ゆ  森金千秋著



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