ここは、五条大橋の西南にある「源融 河原院跡」。
源融(みなもとのとおる)ってご存知ですか?
平安期の公卿で、嵯峨天皇の皇子。
河原左大臣と呼ばれていました。源氏の姓をうけ臣籍に下り、斎衡3年(856)に参議、貞観6年(864)に中納言を歴任、貞観8年(866)閏3月10日、応天門が炎上、全焼した際(応天門の変)に大納言・伴善男が「これは左大臣・源信(融の兄宮)の仕業」と申し出たため、これに連座する形で、一時失脚をします。
↑立派なエノキですが、平安時代からのものじゃないでしょ
それ以来、政治の世界から耽美的な美の世界に入ったらしい。
河原町五条から六条に大邸宅を構え。
生活を楽しんだそうです。
陸奥の名所塩竃(塩釜)の浦の景観を模した庭に、難波津から海水を運ばせては塩焼きの真似事をしたり、鴨川の水を引き入れて、大きな池を造り、その中に人工の島を作って「籬(まがき)の森」と名付けたりして、その風情を楽しむなど、その暮らしぶりは豪奢を極め、在原業平をはじめ多くの歌人や文人たちの遊興の場(サロン)でもありました。
↑この建物は、稲荷の祠が入っています
↑中はこんな感じ、奥に石があります
そんなことから『源氏物語』の光源氏のモデルともいわれています。
現代のこの当たりにその面影は全然ないけど、当時はすごかったのでしょうね。
ちょっと北東は、鳥辺野(とりべの)で死体がゴロゴロしていたのに・・・。
極楽と地獄が近所にあったという不思議な状態だったのでしょうね。
↑かわったお地蔵さんの祠
源融は、この河原院をよほどお気に入りだったみたいです。
気にいるのはいいけど、執着はいけません。
彼が亡くなった後、この屋敷の地縛霊になった。
よくちっぱな墓石と仏壇をつくり、執着する人がいます。
あまり気にいると、その墓地や仏壇の地縛霊になりますよ。
それっていいようですが、もっと高い(?)レベルの場所に行けない、可哀想な霊になってしまいますよ。ご注意ください。
何事も「淡交」が一番。
色々な本にその話が書いてあります。
◆『今昔物語集』27-2
宇多上皇が滞在中に融の霊が現れ「ここは私の家です」と言ったので、上皇が「お前の息子から貰ったのだ」と一喝すると、それ以降、融の霊は現れなくなった。
◆『江談抄』
宇多上皇が京極御息所と河原院で夜を過ごしていると、融の霊が現われ「御息所がほしい」と言った。上皇は断ったが、御息所は死んだようにぐったりとしていた。上皇は急ぎ宮中に戻り、僧に祈祷させたところ、御息所は生き返った。
◆『紫明抄』
宇多上皇が御息所と河原院で月を眺めていると、何物かが御息所を建物の中へ引き入れようとした。上皇が「何物か」と問うと「融」と答えがあり、御息所は放されたが、すでに御息所は息絶えていた。
◆『今昔物語集』27-17
東国から上京した夫婦が、荒れはてた河原院で一夜を明かそうとしたが、夫が馬を繋いでいる間に妻は建物の中から差し出された手に捕えられた。夫が戸を開けようとしても堅く閉ざされて開かない。戸を壊して中に入ってみると、そこには血を吸いつくされた妻の死体が吊るされていた。
この河原院は、有名な心霊スポットだったのかも。
↑エフィッシュ、カフェ・オ・レ
人妻のみなさん、エフィッシュでボーッとカフェ・オ・レを飲んでいる時なんかは、気を付けてください。
京男は、蚊(♀)に気にいられ、おもいきり献血してしまいました。
Twitter→@kyo_otoko
最後のオチが絶妙でした。
脱帽
それでは
自分で結構うけていたのです。
だれも反応してくれなかったら落ち込むところでした。
近くを通りますが、初めてみる景色ですね。
確かに、最後のオチはいいですね。
まだまだ、蚊は必至で人を探していますね。
私も毎日のように水やり時に献血です。(-。-;)
不思議な感じがしますね。
蚊のたくさんいるところには痛くないです~。
痒くなければ献血するのですけど。
それも将来マラリヤの蚊がでてくると怖いでしょうね。