↑本日は東福寺の通天橋からの新緑です
いまは、新緑が素晴しい。
高校ぐらいの時は、あまり新緑が綺麗と気付いていなかった。
桜の花もそうだったかな・・・。
高校から友人の銀閣寺門前の家に行くとき、哲学の道を通るのが普通でした。
その時は、桜の中を歩いて行くのです。
どういう話をしながら歩いたのだろう・・・少なくとも哲学的な内容でなかったのは確かだ。
あの頃の哲学の道は観光客でごったがえすなんてことはなかった。
道も整備されていなかった。
静かな道だったように思う。
お店も無かった。
あの環境なら一人で哲学的なことを考えられたでしょうね。
↑向こうに見えるのが、昨日の記事の「臥雲橋」
紅葉の永観堂だって、いつも高校の休み時間、廊下から眺めていた。
登下校の時、前を通っていたのですが気にしていなかった。
真如堂だって、小学生の時の遊び場所だったけど、紅葉や桜にあまり気付いていなかったように思う。
京都についてもそうかも。
あんがい京都人は、京都の観光スポットに行かないものですよ。
県外の人の方が遙かに京都に詳しかったりします。
京都の中高生で京都の社寺名所に興味を持っている子は極めて少ないでしょうね。
桜や紅葉でもそう。
自分が花盛りの真っ最中は気付かないものです。
良さがわかるのには、人生経験が必要かな。
味覚でも「甘味」は小さい時からわかるけど、「渋み」「えぐみ」かなり経験を経ないと美味しく感じないものですね。
↑方丈の建物、別料金なのと土足で上がれないのでパスしました
健康だってそう。
病気をしてはじめて健康を意識する。
そんなものですね。
幸福だってそうかも。
「幸福」の真っ最中だと「幸福」を意識しない。
「不幸」は意識するだろうけど。
「幸福を意識しない幸せ」を感じること。
「幸福」ということに関する閾値※をさげるのがほどよく生きるコツかもしれませんね。
※ある反応を起こさせる、最低の刺激量。しきいち。
和菓子 | |
中村 肇 | |
河出書房新社 |
↑これから暫くの間、京男の和菓子本のお知らせをさせてもらいます。説明は1月27日の記事をご覧ください。(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
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食べ物も山菜料理なんて見向きもしなかったのに、歳を重ねるとあの苦味が大切に思えますね。