↑東福寺三門
三門の側にひっそりと五社大明神というのがある。
お寺に鳥居とか神社というのは不思議でしょ。
この五社大明神は、東福寺の鎮守社として石清水八幡(いわしみずはちまん)、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社を祀るので五社明神社という。
もとは法性寺(925年摂政であった藤原忠平の創建の総社)であって、摂政忠道在世頃はその祭礼を総社祭と称し、祇園会に匹敵するほどの賑やかさであった。
総社祭は東福寺の鎮守社になってからも引き続き行われ、寛元元年(1243)8月22日には九条道家をはじめ右大臣実家が参列したという。
今は毎年11月の第二日曜日にお火焚祭が催され、家内安全、無病息災、商売繁盛、学業上達の祈願を行っている。
と説明されています。
明神(みょうじん)とは、日本の神道の神の称号の一つ。
吉田神道で神号として用いられる。豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。
「明神」とは、神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れているという意味。
それに対し、仏教系の山王一実神道で神号として用いられる権現(ごんげん)は、「神が権(かり)に現れる」、また「仏が権(かり)に神の姿で現れる」という意味である。徳川家康の「東照大権現」が有名である。
要するに明神や権現、天神とかは、元権力者を神様とダブらせて祀っている状態なんだろうか。
いまの権力者は少なくとも神や仏にはなれないかも。
↑十三重石塔(重要文化財)当寺創立祈願の為建立。
魔王石が傍にあるこの塔は、かっては「比良山明神塔」と呼ばれていた。
魔王石と、この塔は一組の様な物である。
東福寺を建立しようとした九条道家が、病にかかった折に、藤原の先祖と名乗る比良の魔王が家来の女房に降りてきて、道家に祟っている怨霊の素姓、その鎮魂の方法を魔王に教えられ病が治ったそうです。
魔王というても西洋のサタンという存在ではない。
古来日本の場合は、人間を導く善とか、誘惑し堕落させる悪とか分けないのです。
仏教的にいうたら「縁」に触れるとエネルギーは、「悪」でも「善」にでもなる。だからエネルギーに「善」「悪」はない。
人間というものはそういう存在。
本来は、善悪などないのです。
わかりにくいかな・・・
包丁は、料理に使えば美味しい料理を作れる「善」。
人を刺せば「悪」となります。包丁そのものには善悪はない。
そんなものじゃないやろか。
↑魔王石
Twitter→@kyo_otoko
宗教の対立や抗争は絶えませんね。
指導者の質?教えより権力の方に走るのかな・・・
前々から不思議に思っていました。
調べるとドンドン面白くなります。