実は、伏見稲荷大社以外の火焚祭に行ったことがないんです。
だからおミカンを焼くのも見ていない。
そこで、今年は新熊野神社の火焚祭に行くことにしました。
京女と二人ずれでした。
彼女も実際に見たことがなかった。
お下がりで、焼きミカンやお火焚き饅頭、柚子おこしとかは知ってはいたけど。
火焚祭のはじまりは宮中の新嘗祭(にいなめさい)なんだそうです。
新嘗祭は、夜に天皇が神とふたりきりになってする大切な行事。
現在でも行われている行事です。
この新嘗祭が民間に伝わったのは室町時代で、それ以降、新米を炊くことから竈(かまど)の神の祭り、火の神の祭りへと転化していきました。
ここ新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、ホームページによるとこのように説明されています。
新熊野神社は、熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河上皇によって創建された。後白河天皇(第77代)は1155年に即位され1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが現在三十三間堂の東側にある「法住寺」です。当時は「法住寺殿」といわれ、その鎮守社として創建されたのが新熊野神社、鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。その造営には法皇の命を受けて平清盛が当たりました。
法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されましたが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行ってはおられません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の当社に対する認識が、その由来となっています。
当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河上皇によって創建された神社です。後白河天皇(第77代)は1155年に即位され1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが現在三十三間堂の東側にある「法住寺」です。当時は「法住寺殿」といわれ、その鎮守社として創建されたのが新熊野神社、鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。その造営には法皇の命を受けて平清盛が当たりました。
法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されましたが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行ってはおられません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の当社に対する認識が、その由来となっています。
↑まず神職が周囲をお清めされます。紙吹雪がいいですね。
さて、火焚祭の大まかな順序をうろ覚えだけど書くと、お供えをする→周囲をお清め→降神(神様を依り代に降神いただく→玉串を供える→聖護院の山伏さんたちの読経→点火→般若心経を唱える→ミカンを焼く→般若心経の書いてある紙で自分の身体を拭う、そして火の中にいれる→護摩木投入→直来
こんな流れだと思います。
↑そのあと降神。マスクはインフルのせいではありません。手袋も。
↑玉串をささげる
↑これは火打ち石
↑点火
明日へ続く。
炎、美しいです。
炎が美しいでしょ。火事は困りますが。
お火焚饅頭もこんがり焼くのかな?
この神社はとても丁寧に行事をされていました。
水色の衣装がきれい。
山伏のからし色もきれい。
めらめらと燃える炎や
流れる水を見ていると
人の脳は思考を休んでしまうそうです。
確かに炎を写真を見ていたら
ボーっとしました。
神社のいわれ、よ~く分かりました。
火をみると心が澄んできますね。「空」状態なるんです。
そういう作業は、現代人に必要なこと。
本来の自分にかえれます。
小さくても由来はしっかりあります。