京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

青女の滝

2011年07月13日 04時21分35秒 | 社寺

↑虫さんの影がアクセントね

本日は、法金剛院。
いまの法金剛院へ蓮がきれいに観られます。
この日は梅雨の晴れ間だったので、朝から行ってきました。
今年はちょっと蓮が遅れているようですね。



蓮とか花より今日は「青女の滝」の話。
法金剛院の「庭園」は昭和43年(1968年)から発掘調査が行われ、昭和45年(1970年)に池を復元し、埋没していた「青女の滝」も同時に復元したようである。
「青女の滝」も「庭園」に含まれている。この庭園は数少ない平安時代のもので、作者が明確であり遺構がそのまま残っているだけに貴重なものとされている。



実際に見てみるとさほど感激するものでもないか。
なんで「青女の滝」というのかを書いてみます。
本来「青女」は「倩女」と書くのだと思う。
これには由来があります。

中国に『無門関』という禅の公案(こうあん)集がある。
公案というのは、禅の世界における一種の試験問題。
『無門関』の第三十五則に「倩女離魂(せいじょりこん)」というのがある。
「五祖、僧に問うて云く、『倩女離魂、那箇か是真底』」
ーー唐代の禅僧の五祖法演は、僧に問題を出された。
「倩女の魂が抜け出てしまった。どちらが本物か?」
じつは、当時倩女に関する怪談噺があった。
それを五祖法演は使っている。
だから、この怪談噺を知らなければ、この公案はわからへん。

話を書いてみます。
興味がある人はお読みください。



衡州(こうしゅう、現湖南省)の揚子江のほとりに張鑑(ちょういつ)という人が住んでおられました。張鑑さんには、二人のお嬢ちゃんがあったのですが、上のお子さんは亡くなりました。下のお子さんは、倩女(せいじょ)という名前です。倩(せい)というのは麗しいという意味なので大変綺麗な方だったのです。
それで年頃になってきたら皆がお嫁さんにほしいと言うて、たくさんの申し込みがありました。
張鑑さんは、柳毅(りゅうき)という好青年を旦那にすると決めはったのです。ところが倩女は親戚の王宙(おうちゅう)という男性と子供の頃から大変仲が良かったのです。それで張鑑さんが「君ら二人は仲が良いね。大きくなったら夫婦になったらいい」という話をよくしたはったようでございます。
そうすると二人はもういいなずけみたいな思いになっていたのです。それなのにお父さんが、急に柳毅(りゅうき)さんと結婚しなさいと言わはったので、倩女さんはびっくりしやはりました。



それよりもびっくりしたのは王宙さんで、大変ショックを受けはったのです。
そして悩みに悩んだ末に、もうこの村にはいたたまれないということになって、夕方が来るのを待って舟に乗って、そーっと村を出て行かはりました。
そうしますと夕暮れ時に、川岸の向こうに何かチラチラするものが見えるのです。「なんだろうな」と思いながら王宙さんが川岸に舟をやると、なんとそこに倩女さんがいやはるのです。
王宙さんが「どないしたんや」と聞くと「噂であなたがこの村を出たということを聞きました。あなたがいないのなら、私も村にいることはできません。どうかあなたと一緒に連れて行ってください」ということで二人は仲良く手に手をとって、蜀(しょく)という国に行かはりました。



そこで五年間過ごしますうちに、お子さんが二人できはるのです。
そして貧しいながらも四人で楽しく生活をしたはりました。
ところが倩女さんは非常に優しい方で、こんなことを言わはったのです。
「私はここで二人の子供もできて、大変楽しい生活を送っているけれども一つだけ気になることがあります。それは故郷(ふるさと)のことです。お父さんとお母さんに黙って出てきたことが気がかりでしょうがない。親にこんな不義理をした者は、故郷に帰ってはいけないのでしょうか。王宙さん、あなたはいかがですか」
すると王宙さも「実は私も日々そのことが頭から離れない」と二人でそんな話をするのですね。
それで一遍お父さんとお母さんに会って、今はこんな状態やと言うて謝ろうということになりまして、親子四人が舟に乗って帰ってくるのです。
そして港に着くと王宙が倩女に「お前と子供は、この舟で待っていなさい。私が先にあなたの家に行って、お父さんに挨拶をしてきます。それから子供と一緒に来なさい」と言うて行かはりました。

家に着いて出できやはったお父さんに「実はこの五年間にこういうことがありました。不義理をいたしまして、まことに申し訳ございませんでした」と言うて心から謝らはりました。
そうしたらお父さんが怪訝(けげん)な顔をして「王宙さん、なにを言うてるのや。倩女ならうちの奥の部屋にいるやないか」と言わはるのです。それで人を遣わして港に見に行かすと、倩女さんと二人のお子さんはちゃんといやはりました。
お父さんは「そんなはずはない。五年前、お前が村を出たと聞いて、倩女は病気になってしもた。今もなんにも食べられなくて、フラフラになっているけれども奥の部屋にいる」と言わはるのです。
それなら一遍連れてきましょうということで、王宙さんは倩女さんと二人の子供を家に連れて来ました。
そして、お父さんは奥の部屋にいた倩女さんを連れて来るのです。
そうしたら玄関の前で、お父さんに連れられて来たフラフラになっている倩女さんが、にこーっと笑って、二人の倩女さんがすーっと一つになったという、こんな話があるのです。



そこでこの禅問答は、フラフラになっている倩女さんか子供を連れて帰ってきた倩女さんか、どっちがほんまやというわけですね。
すなわち精神と肉体と、どっちがほんまやということですが、精神とは人間の心の奥底に脈々として息づいている心性とか仏性とか仏さんということになります。
この二つは本当は一つのものなのです。
心だけの人間はいませんし、肉体だけの人間もいない。心と肉体、神仏と心身が一体になっているのが本来の姿であります。

けれども新聞とかテレビなどでよく見ますように、親がわが子を傷つけたり、殺したりしています。恐ろしいですね。
これは精神的に親になっていないのです。子供を産まはったんやから肉体的には親であるけれども、親の心になっていない。
ですから親の心と体とが離ればなれで一つになっていないのです。
これが魂が肉体から離れた離魂(りこん)ということではないかと思います。


「法金剛院」地図

Twitter→@kyo_otoko
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする