goo blog サービス終了のお知らせ 

京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

壬生寺の節分

2008年02月03日 07時35分34秒 | 行事


壬生寺といえば焙烙割りですね。
焙烙(ほうらく)という素焼きのお皿を買って、家族や知人の年齢・性別なんかを墨で書き奉納。それを4月の狂言の演目の中で割られ、これを割ることで、その人の厄が落ちるとされているんです。
狂言「節分」は、その春の「壬生大念佛会(みぶだいねんぶつえ)」にさきがけて節分の時におこなわれる。


この日は護摩焚きもあるみたいでした。でも時間がなかった。



この壬生狂言は、鎌倉時代に円覚上人(えんがくしょうにん)が仏教を民衆にわかりやすく教えようとして始めたんだそうです。
まあ、言葉ではなくパントマイム(無言劇)に仕立てたんですね。
これはアイデアマンです。
このお囃子が独特で「壬生さんのカンデンデン」と呼ばれています。
※カンデンデンとは鐘と太鼓のお囃子の音のこと。狂言中ず~っと「カンデンデン」という音だけなんです。催眠効果がありますね。あれは。



物語は、パンフレットが売っていたので買いました。
その中から引用させていただきます。
節分の日、後家(女主人)は、豆や魔除けの柊(ひいらぎ)に鰯の頭を刺して門口にまつり、やって来た厄払いに厄を払うまじないをさせる。厄払いは「鶴は千年、亀は万年・・・」と言祝(ことほ)ぐ。厄払いが去ると、旅姿の鬼が来る。後家は驚いて逃げ出す。そこで鬼は策略を練り、門口の鰯を食べ、魔法の「打出の小槌(こづち)」で着物を出して変装し、後家を呼び出す。鬼は後家に沢山の着物を与え、共に酒宴を始めるが、酔いつぶれる。後家はつい欲が出て、鬼の小槌を奪い、着物まで剥ぎ、その正体を見て叫び声をあげる。鬼はその声に目を覚まし、何もかも取られたことに気付き、怒って後家につかみかかろうとするが、後家は鬼の嫌いな豆をまいて鬼を追い払う。



これは、この狂言を演じることで「鬼(病気、災厄や貧困など様々な不幸)を招く甘い誘惑に負けずに、マメ(まじめに、こつこつ)に働くことによってこそ、福徳は得られるものである」ことを教えた狂言で、後家が鬼を追っ払った後は、鬼の小槌や着物も消え失せ、後家はそれが危険な誘惑であったと悟るのである。



うーん、耳の痛い話やね。
テレビ中継したらいいかも。
この壬生寺も調べると面白いんです。
節分の記事が落ち着いたらまたご紹介します。
壬生寺地図
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懸想文

2008年02月02日 06時20分39秒 | 行事


そろそろ節分になってきました。
京都では、大事な行事が多い。
節分ってなにか知ったはりますか?
普通は2月3日が節分なん。
4日が立春なんで、その前が「季節を分ける」ということで「節分」なんです。
暦上ではもう春。そうは感じへんけどね。



さて、今回は「懸想文(けそうぶみ)」
死語に近いね。知ったはりますか?
須賀神社で節分の時にしか授与されない須賀神社独特の懸想文売りとはなんでしょう?「懸想文」とは1月の季語ででてきます。懸想文って早く言えばラブレター、それを売るんです。狭い境内で立っている二人の覆面の人物が懸想文売りです。須賀神社の説明文を紹介しましょう。
2月2日と3日しか売っていません。ご注意ください。



懸想文(けそうふみ)
江戸時代、京の風俗行事の一つとして懸想文売りが京の街々を賑わしたものでした。烏帽子(えぼし)に水干(すいかん)姿で梅の木の枝につけ、ふく面をして売り歩いたといわれています。懸想文の名からして恋文を連想される方も多いと思います。縁談や商売繁昌など人々の欲望を叶える符札です。懸想文を人知れず鏡台や箪笥の引き出しに入れておくと顔、かたちが美しくなり着物が増え、良縁が有るというので古くより京の街々の娘や嫁にあらたかなものと買い求められたものです。
其の後この優美なる風習は明治維新以後なくなりましたが、縁結びで有名な当京都の須賀神社でつくりご祈祷致しました。(須賀神社懸想文内説明書より)



とあります。昔は、優雅だったんだ。懸想文はラブレターか。死語に近いよね。
いまはメール、風情がないよね。
四六時中、老いも若きも場所を選ばず、小さな画面をひたすら見ている。なんかとてもカッコ悪い感じがするな。目の前にいる人より小さな画面の先にいる人の方が大事そうに見えるし。



この二人の懸想文売り、あんまり口をきいたらあかんのかな?試しに買ってみた。
「にいちゃんこれナンボ?」と聞くと「1000円です」とこれだけ言った。
パステルさん情報だと1000円。二年前は確か1200円だった。
このご時世に値下げ?きっと釣り銭を用意するのが辛いんだと思う。
さすがに「領収書書いて」とは言えなんだ。



なんだかとてもおしゃれと思いませんか。これは、穴場中の穴場かも。
須賀神社地図
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伏見稲荷大社お火焚・・・炎編

2007年11月13日 05時29分02秒 | 行事


お火焚でこうやって火を使う意味があります。
作物の豊作に導いてくださった神さまを再び天にお帰りいただくという意味なんだそうです。
「おかげでこれだけ豊作になりました。来年もよろしく」と。
手土産に神田でとれた稲のワラを燃やします。







お帰りになるとき、人々の願いも叶えてもらえるように火焚串に書き、
炎の勢いで天にお帰りになってもらいます。





人間では、どうしようもない自然を神さまに願うのは当然のこと。
最近は人間がなんでもできると奢っているように思いますね。
お金さえあれば、食べ物なんかいくらでも輸入できる。
だから自然に感謝して大切に食物をいただくということが少なくなった。





当たり前と思わずに感謝して食べ物扱う方がよいのではないでしょうか。
また子供たちにもそれを伝えていった方がよいですね。
こういう神事を観ていて思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

炎に負けるな!おにいさん!

2007年11月12日 04時28分31秒 | 行事


さて、火床に火が入った。
最初は白い煙がモクモクでます。
今年はこちらに風が吹いてなくてよかった。



でも、煙が神職のおにいさんを直撃。
彼は修行をされていました。



そこで彼の魂に火がついた!
この必死の形相を見よ!



彼は最後まで懸命に火焚串を火床に投げ入れるのでした。



みなさんの願い事は炎とともに高く空に上っていくのでした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伏見稲荷大社お火焚・・・本殿

2007年11月11日 05時46分08秒 | 行事


斎場ではじまる前に本殿前で小さなお火焚があるのです。
このお火焚の時に燃やすのは、こんなに収穫できました。





どうぞお召し上がりくださいというような意味かも。
本来はこういうことでしょうね。
※斎場といったら最近は葬儀をする場所と思われがち。でも本来は、「祭を行う清浄な場所」「大嘗祭(だいじょうさい)の時、神饌(しんせん)を調えるために設ける建物」だったり「神を祭るために斎み浄めた場所」という意味。



再び斎場の風景。
神官の勢ぞろい。袴(はかま)の色で位がきまっているんだろうな。





セレモニーが進んでいきます。



点火!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伏見稲荷大社のお火焚祭

2007年11月10日 06時13分49秒 | 行事


11月8日は伏見稲荷大社の火焚祭(ひたきさい)に行ってきました。
秋の収穫の後に、五穀の豊穰をはじめ万物の育ててくれた神様に感謝する祭典。
圧巻は、数十万本の火焚串を焚きあげが迫力なんです。
ここは、日本全国の稲荷神社の総本部です。
まあ、京都本社というところね。



入り口や境内にあるところで火焚串に願い事や名前を書きます。
これを焚きあげるというシステム。
他に全国から火焚串が集まってきています。



最初は、手や口を清め山に向かってこれから行事をすると宣言(なんだろうな)。



これが焚きあげ会場(斎場)。
奥の向こうがご神体の稲荷山です。



これが炊上げをする火床。
三角の頭巾風が、今年とれた稲のワラ。
その下に火焚串がいっぱい積んであります。
箒みたいなもので火をつけます。



最終の打ち合わせ。
イベント前の緊張感がいいですね。
続きはまた明日。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お地蔵さんがお化粧する日

2007年08月21日 04時53分55秒 | 行事

↑お化粧したお地蔵さん

京都の古い町では、8月19日、20日ぐらいに地蔵盆をしています。
古い町では、町内に一体はお地蔵さんがいてはります。
普段でも、きれいなお花があがっています。
お地蔵さんの縁日は24日なんです。
だから本来は、その24日の前後に地蔵菩薩の祭をします。
最近は、週末にしてしまうことが多いのですが、仕方ないかな。
もともとは、地蔵会(じぞうえ)、地蔵祭と呼ばれたんです。
8月24日が裏盆にあたることから、盂蘭盆にちなんで地蔵会と呼ばれるようになった。
京男は、小さい時、子どもが集まって行事をするから児童盆やと思もてました。




↑お供えもていねいにつくったはります。

地蔵のある町内の人々はこの日にかけて地蔵の像を洗い清めて新しい前垂れを着せ、化粧をするなどして飾り付けて、地蔵の前に集って灯籠を立てたりお供え物をしたりして祀る。
行灯なんかを作って飾ったりしました。
地蔵盆当日の朝に「数珠回し」がおこなわれる。これは、町内の子供が、直径2、3メートルの大きな数珠をかこんですわり、おっさん(和尚さん)の読経にあわせて順々にまわす。
いまでは、子どもが少くのうなって、ず~っと前の子どもさんたちが数珠回しをしています。ちょっと悲しい景色。



お地蔵さん(地蔵菩薩)は、なぜ子どもを守るのでしょう?
こんな話があります。幼い子供が親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされている。お地蔵さんは、賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供達を守ってやり、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく。
そんなことから、お地蔵さんは子どもの守りとして各町内に据えられているんです。
最近は、お地蔵さんのこんな話もわからん人が多くなってきたから。子どもにとって受難の時代がきたのかな。
この地蔵盆が終わると夏休みが終り。
宿題に追われる毎日になった。それは学校が始まっても続いていた・・・。

町内のお年寄りとお話ししました。
「そこにある。石は拝まへんけど、こうやってお地蔵さんの形になったら、手を合わす。不思議やね」とおじいさん。
「きっと拝む人の心に仏さんがいてはるから、この石が尊いと思うのかもしれへんね。犬とか猫では、その区別ができひんし」と京男。
こんな会話をしていて、もう少しでバスに乗り遅れそうになりました。(笑)



これらのお地蔵さんたちは、清水寺の境内のもの。
明治維新後に成立した新政府が1868年(明治元年)3月に発した太政官布告神仏分離令、1870年(明治3年)の大教宣布など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊など、いわゆる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の時に京都市内のお地蔵さんたちが壊された。その一部を清水寺が引き取らはったのやそうです。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

左大文字の送り火

2007年08月18日 05時06分30秒 | 行事


これは、8月16日の五山の送り火の別の話。
今日の記事の写真は、S画伯さんからの提供です。
すごい写真をありがとう。



「左大文字」は、金閣寺の北の方にある山です。
西大路通と北大路通がぶつかるあたりにあります。
いつも出て来る「大文字」とは違うんです。少し小さいんです。
※この「左大文字」といういい方は、本当はよくわかりません。
本来の言い方からすれば、左京区にある如意ヶ嶽の方が「左大文字」なのにね。
こちらは、本来反対側の大文字だから、「右大文字」というのが普通なのに。
なんでなんやろ。



高くないといっても登るとこんな風に京都市内が一望できます。
向こうに見えるのが如意ヶ嶽の「大文字」。
西日がまだ当たっています。



送り火の準備は万端、出番を待っています。



これは「金尾(かなわ)」といい、「大」の中央の部分。
ここから火をつけていくのです。
大きな護摩木もありますね。
先祖用と生きている人間用があるようです。
火床は粟石をコンクリートで固めたものなんだそうです。
ここに松割木を井桁(いげた)に1メートルぐらいの高さに積んである。



先に向かい側の「大文字」が点火されます。
高いところからみるととてもきれい。







さて点火です。
どうです。迫力でしょ。こういう写真は珍しいのです。
動画はこちらへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五山送り火

2007年08月17日 07時11分31秒 | 行事


今年の送り火は、「大文字」を見にいきました。
実家の屋根の上から見れるのですが、今年は出町柳のあたりにいきました。
昨日下見をしておいたスポットに直行。



いい状態で見れました。
この東山如意ヶ嶽(支峰の大文字山)は、小学校の時からの遊び場所でした。
懐かしいな。
送り火の撮影は難しい。



「大文字の送り火に、大の字を盆の酒に映(移)して呑み干す」
無病息災の願いをのみ込む意か。
とりあえずやってみようと、女房の実家で金の杯を借りていきました。
これが純金なのでちょっと神経を遣いましたよ。
でもうまく撮影ができないですね。
まあ、雰囲気ということで。
動画はこちらへ
また「大文字の送り火の消し炭を、戸口に吊っておくと家内安全のお守りとなる」
大文字の送り火につかった薪木の消し炭を、半紙につつんで紅白の水引でくくって玄関の戸口にかざる。こうすると、疫病除け、盗難除けになるといいます。
画伯さんが左大文字に送り火に登っているから、消し炭をもってかえってくるかな。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お精霊さんの迎え鐘

2007年08月11日 06時34分51秒 | 行事

↑地獄絵図

8月7~10日まで、六道珍皇寺で「六道詣り」がありました。
六道珍皇寺は、臨済宗建仁寺派の寺。延暦年間に慶俊が創建らしいのですが、ほかにも空海説や小野篁説はじめ諸説がようです。





この付近はかつて死者を鳥辺野(とりべの)へ葬送する際の野辺送りの場所で、六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。
※六道/六道というのは仏教用語です。有情(生あるもの)はこれ全て三界に生きています。すなわち、欲界、色界、無色界です。そして、そこで生き死にを繰り返します。輪廻転生です。とくに欲界にいる生類は業によって、6つの世界を生まれ変わり死に変わることになります。その6つの世界が六道です。すなわち地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道です。



京都では、お精霊さん(おしょらいさん)を迎えにいく場所が二カ所あります。一カ所はこの六道珍皇寺。もう一カ所は、上京区の千本えんま堂(引接寺)です。



小野篁(おのたかむら、802年~852年)が冥土通いをしたという井戸があります。
遠くからしか見れませんが見たところ普通の井戸。
小野篁さんは、不思議な人なんです。
昼間は、天皇さんにつかえた官僚。夜は閻魔庁につとめていたという人。
きっと家のローンをたくさん抱えてはったんかな。
いまなら問題になるケースやね。(笑)







珍皇寺のお精霊さんのお迎えの方法は、水塔婆を納め、迎え鐘をつき、槙(まき)の葉を求めてご先祖の精霊を迎えます。そうなんです。先祖霊のことを京都では「お精霊さん」と呼んでいます。特に新しいお精霊さんは、念入りに行います。でないと帰ってこれないかも。
迎えたお精霊さんを家に連れて帰るのです。で家でいっしょに過ごします。
それで16日の夜、灯籠流しや大文字の送り火で向こうの世界にお精霊さんを送ります。
動画はこちらへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狸谷山火渡り祭・・・最終回

2007年08月06日 05時53分30秒 | 行事


このお札は当日限定(こういうのに弱いのよね)のお札。
白い御幣(ごへい)と朱のお札がとてもきれい。





様式美を感じますね。







さて火渡り祭も最終段階。
燃えすすみ、そろそろ渡り時になってきました。





ひょっとしてこうやって火の中で作業している山伏さんの方がすごいかも。
これぐらいで渡れるといいのにね。



結局、私は火渡りはパスして下山。
理由は
・並んでいないといけなかった。そうなんです。最初から階段あたりにずっと座っていないといけなかった。それをすると色んな写真が撮れない。
・暗くて写真にならない。
・あんな風にならしてしまったら熱くないので修行じゃない。せめて山伏さんが作業しているぐらいの火じゃないと意味がない。(なんの意味や~!)
新聞の記事を読むとほんのり温かい程度らしい。それなら寝ころんだらいいかも。
・撤収の問題。あんな急で狭いて暗い道を人や車をよけながら、大きな道路にでるのは困難。交通安全の加護の後で事故にあったらシャレにならん。
等々の理由で早い目に撤収しました。



まだ、人がいない階段を下っていったのでした。来年は最初から並ぶぞ~!
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

炎炎炎~!

2007年08月05日 04時14分05秒 | 行事


狸谷山不動院の続き。
法要が終り舞台は広場に。



様々な行法をされていました。なんとなくわかります。



矢で魔を祓っているんでしょう。
矢が山の中に飛んでいくのが印象的でした。





さて、いよいよ火がいれられアッという間に炎があがってきました。
すごい火の粉が観ている私たちにも降ってきました。









後でみたら灰だらけ。
火の粉がホタルのように夜空に登ってとても幻想的。





炎の中にお不動さんがいるようで不思議な感じ。





山伏さんが観ている人のお祓いをしてくれます。
すごい!



まあ、京男の手のひら程度といえばそうですが。(笑)

動画はこちらへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お坊さん、頭から火が!

2007年08月04日 06時57分47秒 | 行事


狸谷山不動院火渡り祭の続き。
火渡りの前に本堂で法要があります。
太鼓と読経と護摩焚きが独特の雰囲気。





動画はこちらへ

本堂で護摩焚きとはちょっと危ないかな・・・と余計な心配をしておりました。
すごい迫力。



↑の写真の左の方に少し明るい点が二つ見えるかな?
本尊の不動明王の目なんです。
近くでみたらすごいだろうな。



これは坊さんの頭じゃなくて。



巨大数珠。
不動明王のパワー念珠らしい。
さて下の広場に移動です。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狸谷山不動院火渡り祭

2007年08月03日 07時02分47秒 | 行事


これは、7月28日下鴨神社のみたらし祭の後の話。
下鴨神社からだと狸谷山不動院までは、15分ぐらいかな。
この狸谷山不動院(たぬきやまさんふどういん)は、あまりなじみがないんです。
白川通を山の方を東に登っていくとあります。途中で八大神社があります。
それをさらに急な山道を登るとあります。







由緒は桓武天皇勅願によって平安京の鬼門に祭祀されたも本尊の「不動明王」を安置したことに始まります。
現在は「タヌキダニのお不動さん」の名で、芸事の上達や安全祈願の寺として知られています。
狸谷山って、タヌキ(咤怒鬼)不動明王から来ているみたい。
別に狸の群れがいたとか、狸みたいなオネエサンが多かったとかじゃなくてね。



宮本武蔵が吉岡一門と決闘の前、修行をしたといわれる滝も有名です。
車を持っている人はここに交通安全のお札をもらいにいくといいます。
南の方なら城南宮かな。
ここは、なかなかずっしりと空気が重い感じがしました。





あまり観光客もこなくて普段はひっそりしている感じね。
本堂は、清水寺みたいな雰囲気。
この矢はなんだろう?
よくこんな場所に建てたな・・・。
山伏さんたちも行事の前の休息タイム。



火渡り祭の場所はこの広場なんです。
左の方に人が座っているけど、これが火渡りの順番待ちだった。



そろそろ太陽が西に沈んでいく。



本堂で法要がはじまった。
狸谷山不動院地図
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっと祗園祭が終りました・・・夏越祓

2007年08月01日 03時23分28秒 | 行事


7月31日午前10時から八坂神社境内「疫神社」で「夏越祓」が行われました。
この「疫神社夏越祓」で一カ月にわたって行われてきた祗園祭は終わるのです。



八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来之子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
その事を思い出してもらうために、疫神社で夏越祓をしてるんかな。
6月30日にもやったはったんと違う?うーん、そうかも。固いことがいわんといて。



疫神社は、もてなしたご当人、蘇民将来さんを祀ってある。
ここに集まっている人は、みんな蘇民将来さんの子孫なんですという訳です。
なんせ昔の話やし、みんな子孫かも知れへんね。



夏越祓が終わったらお神酒をいただきます。
未成年の双子とアルコールアレルギーの京男も少しだけいただきました。



これがその素焼きの「かわらけ」
ちゃんと紋が入っているでしょ。



これは、茅輪のお守り。社務所で売っていました。



これは、京男が自ら作ったもの。
なかなか雰囲気があるでしょ。



大きさはこんなものです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする