万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

銃規制とNPT体制の共通性-抑止力の無視

2022年05月25日 11時20分36秒 | 国際政治
 アメリカでは、またもや銃乱射事件が発生したそうです。事件の現場はまたしても学校であり、米南部テキサス州ユバルディの小学校にあって児童14人、教師一人の尊い命が奪われています。銃乱射事件が発生するたびに、アメリカ国内をはじめ、日本国内でも銃規制を急ぐべきとの論調が沸き上がります。’銃を規制しないからこうした痛ましい事件が起きるのだ’と…。しかしながら、見方を変えますと、逆の見解もあり得るように思えます。そして、この問題、NPTや核兵器禁止条約に対する疑問とも共通していると思うのです。

銃規制を支持する人々は、銃=攻撃力(殺傷力)=悪という構図を頭の中で描いています。この構図からしますと、悪(殺人や強盗…)をなくすためには、銃そのものをこの世から消してしまうのは、ロジカルな結論となりましょう。銃規制支持者は、決して悪の味方ではなく、人々の安全を護りたい一心で銃規制を唱えているのかもしれません。

しかしながら、力の両面性―攻撃力と抑止力―に思い至りますと、上記の構図、すなわち、銃=殺傷力(攻撃力)という認識で銃規制の是非を判断することには疑問が生じます。銃が備えている抑止力に注目しますと、銃の保持は、必ずしも悪ではなくなるからです。アメリカにおいて銃を保有している大多数の人々は、自ら、あるいは、家族の護身用として購入しているはずです。仮に、全ての銃保持者が攻撃目的で所持しているとすれば、アメリカでは、今般の事件のような無差別殺人が日常茶飯事となり、日々殺人や強盗が起きるような’犯罪天国’なっていたことでしょう。銃乱射事件の低い発生頻度や治安状況からしますと、おそらく、銃を攻撃目的で使用しようとしている悪人は、数万人、あるいは、数十万人に一人なのかもしれません。

もちろん、日本国のように、法によって警察のみに合法的な銃器の携帯が許され、物理的な強制力において全ての犯罪者に優るように設計された制度の下では、一定の治安維持効果は期待できましょう。拳銃は、犯罪が実際に行われた場合には、その実行者の行動力を奪い、かつ、悪しき人々に対して犯罪を躊躇わせるからです。銃規制とは、警察以外の全ての人々から銃を取り上げた場合のみ、最も効果が高まると言えましょう(警察による銃の独占が必要不可欠の条件では…)。

その一方で、公的には銃規制が行われつつも、犯罪者が銃を隠れ持つ場合には、人々の身に危険が迫ることとなります。悪人ほど、法には従わず、抜け道を探そうとするものですし、他の人々が無防備な状態にあるほど好都合であり、一方的な攻撃が容易になるからです。実際に、銃乱射事件の犯人が学校を狙うのも、学童といった低年齢の子供たちであれば銃を保持しておらず、反撃や抵抗を受ける可能性が比較的低いからなのでしょう。しかも、警察と犯罪者との力関係において後者が優位する場合には、一般の人々が被る被害やリスクは計り知れません。メキシコのように犯罪集団の物理的強制力が警察のそれを上回る場合には、治安は最悪の事態を迎えるのです。

アメリカの銃規制が、国際社会における核規制と相似する問題である理由は、まさにこの点にあります。国際社会の現実は、国連安保理常任理事国が担当してきた‘世界の警察官’の役割が有名無実化するどころか、その一部が‘世界の暴力団’と化していることを示しております。また、イスラエル、インド、パキスタンがNPTに未加盟な上に、カルト的な個人独裁体制を敷く北朝鮮の核保有も既成事実化しています。‘警察’による独占状態が成立していない現状が、核を保有していない順法精神を備えた諸国を危険に晒していることは言うまでもありません。

このように考えますと、全ての諸国が護身用に核を保有することは、ベストではないにせよ、現実を直視した合理的な判断のように思われます。銃規制も核規制も、力の抑止力を無視することで、攻撃を受けるリスクを徒に高めているのですから。力の両面性は、銃=抑止力=善という半面の構図をも描くのですから、攻撃性のみに目を向けた一面的な理解に基づく主張は、どこかに誤魔化しがあるように思えてならないのです。

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