万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

ユダヤ教徒=ユダヤ人ではないもう一つの理由

2022年01月14日 12時32分20秒 | 国際政治

これまで、ユダヤ人とは、母系をも認めるものの極めて閉鎖的な血縁集団とするイメージがある一方で、祖を共にする民族的な枠組みではなく、ユダヤ教を信仰する者であれば誰でもなれる、とも説明がなされてきました。前者と後者では、どちらが事実に即しているのかは外部者には良くわからないのですが、ユダヤ教徒とユダヤ人が一致しないもう一つの理由があるように思えます。

 

それは、『旧約聖書』にあって最も重要とされる「モーセの十戒」の存在自体に求めることができます。何故ならば、十戒を破るようなユダヤ人が存在しなければ、神は、敢えてモーセに対して人類が護るべき戒律を授ける必要などなかったからです。例えば、十戒は、「私以外の神を信じてはならない」から始まりますが、この言葉は、モロク(モロコ)の神のような、偶像を崇拝する異教の神が数多存在していたことを示唆しております。また、殺人の禁止なども、ユダヤ人の中には、利己的な動機から人の命を殺めたユダヤ人があったことを示していると言えましょう。

 

神から授かった十戒こそ、実のところ、ユダヤ人の中には必ずしも十戒を遵守しない人々が存在していた証拠でもあります。否、十戒を必要とするほどに社会も治安も乱れており、人々は、日々、他者からの侵害を恐れて不安な日々を過ごしていたのかもしれません。全ての人々が善き社会を実現するために護るべき共通の倫理・道徳的行動規範が与えられたというそのことこそ、神からの賜物、即ち、神の救いであって、この文脈におけるユダヤ教とは、共通ルールの根源としての唯一神に対する信仰であったと言えましょう(神から道徳・倫理規範として法を授かる形態は古代メソポタミア文明に広く見られるので、おそらく、ユダヤ教がオリジナルなのではないかもしれない…)。

 

実際に、アンドレ・シュラキ氏の『ユダヤの思想』によりますと、ユダヤ教の布教とは、異民族に対して十戒を説くものであったとれています(この側面は、洪秀全による上帝教の布教にも見られる…)。即ち、ユダヤ教が異民族に開かれた宗教であるとする後者の説明は、十戒の順守という条件付きなのです(もっとも、メシアの問題も論じる必要がありますが…)。

 

そしてここに、4つのタイプの’ユダヤ人’が生じることとなります。第1のタイプは、ユダヤ人の血脈を引き、かつ、ユダヤ教を信じる人々です。このタイプのユダヤ人が、一般の人々が思い描く最も典型的なユダヤ人ということになりましょう。第2のタイプは、血脈としては’ユダヤ人’の枠組みに属していても、モロク(モロコ)教といった異教を信じる人々です。これらの人々は、ユダヤ人ではあってもユダヤ教徒ではありません。第3のタイプは、血脈としてはユダヤ人ではないけれども、ユダヤ教を信仰する人々です。第3のタイプは第1のタイプとは逆であり、ユダヤ人ではないけれども、ユダヤ教徒であるパターンです。そして、第4のタイプは、第2と第3との’合成の誤謬’によって発生します。つまり、ユダヤ人でもなくユダヤ教徒でもない人々です。これは、第1のタイプから’異教徒でもユダヤ人’という論法を借り、第2のタイプから’異民族でもユダヤ人’という論法を借りているのです。

 

今日、これらの4つのタイプのユダヤ人が、所謂ユダヤ人、あるいは、ユダヤ系の人々として総称されています。そして、この4つのタイプの混在こそが、今日に至るまで、人類史に混乱と禍を齎しているように思えるのです。

 

十戒の本質が、超越的な視点から全ての人々に共通の道徳規範を齎すことであるならば(法の支配)、既に人類の大多数は狭義における’ユダヤ教徒’であり、神の救いに与っていることとなりましょう。むしろ、第2と第4のタイプのように、人類共通の道徳律に反する行為をユダヤ教やユダヤ人の名の下で実行している邪悪な人々こそ、神にも人類にも反しているのではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする