万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

ワクチン接種記録の国民の合意なき利用の危うさ

2021年12月10日 21時05分38秒 | 国際政治

デジタル化に伴い、早急に対処すべき問題として持ち上がったのが、プラットフォーマーによる個人情報の利用です。IT大手が自らのプラットフォームを用いて収集した膨大なる個人情報を自らのビジネスに留まらず、私的検閲など、広範な目的のために使い始めたからです。同問題を深刻なプライバシーの侵害と見なしたEUなどでは、個人情報を保護すべく法整備を急ぐこととなりました。

 

 そして、同問題に対する有効な対策の一つとして登場してきたのが、ユーザー合意の義務化です。これは、企業によるデータの利用に際しては、個人情報の提供者となるユーザー本人の合意を要するというものです。つまり、IT大手は、ユーザーの同意なくして一方的に個人情報を収集し、第三者への提供を含めてそれを自らの利益や目的のために用いることはできなくなったのです。

 

 こうした個人情報の保護に関する問題意識に照らしますと、日本国政府による国民のワクチン接種記録の扱いは、如何にも危うく感じられます。昨日12月9日、政府は、’本人の同意なし‘に自治体間で住民の接種記録が確認できる仕組みを年内に整える方針を示したと報じられております。同方針において問題となるのは、敢えて‘本人の同意なし’としたところにありましょう。制度導入の目的としては、住民の自治体を越えた転居に対応するために、全ての自治体が利用できる全国レベルでのデータベースを構築することにあるのでしょうが、その先にはワクチン・パスポート(「ワクチン・検査パッケージ」)の照会作業への活用も想定されます。何れにしましても、この措置、あまりにも行き過ぎているように思えます。

 

 第1の疑問は、何故にか、新型コロナウイルスの登場と共に、接種記録のシステム化が提唱されるようになったことです。考えても見ますと、新型コロナウイルスよりも脅威となる感染症は他にも存在し、その蔓延予防のためにワクチン接種が行われています。政府が完全に接種情報を掌握すべき対象として、新型コロナウイルスのワクチンを特別扱いする必要性は、どこにあるのでしょうか。

 

 第2の疑問、現状を見る限り、ワクチン効果が限定的であるにもかかわらず、政府は、接種記録を長期保存しようとしていることです。個人差はあるものの、一定期間が過ぎると、二度のワクチン接種を受けた接種者でも感染しますし(獲得免疫の働きは不明…)、自らの重症化は回避できても、他の人を感染させもします。言い換えますと、感染拡大の予防という目的からすれば、政府が全国民を対象にワクチン接種の記録を長期に亘ってシステマティックに保存しておく合理的理由は見当たらないのです。

 

 第3の疑問は、ワクチン接種の判断は、個人の自由に任されているにもかかわらず、接種記録のデータベース化を急いでいることです。自己の生命、並びに、身体に対する権利が全ての人に等しく保障されるべき天賦の基本的な個人の権利である限り、それは、最も尊重されるべきものです。現行のワクチンには、最悪の場合には死亡リスクがありますので、ワクチン接種に関する権利もまた、個人の基本的権利の一つとして理解されましょう。それ故に、政府は、表向きであれ、ワクチン接種は任意であるとするスタンスを取っているのでしょう。そして、ここに、政府が、国民の合意なくして、個々人の自由の範疇にあり、かつ、基本権の行使でもあるワクチン接種の記録を掌握することは許されるのか、という問題が提起されます。例えば、仮に政府が、国民の参政権の行使状況を全てデータとして収集し、合意なくして同情報を利用し得るとすれば、当然に、国民から反対の声が上がることでしょう。

 

以上の諸点からしますと、今般の措置のように、国民的な議論も、立法措置も採ることもなく、国民の合意なくして国、あるいは、地方自治体がワクチン接種情報を利用できるのか、という問題が提起されます。そして、目下、政府が推進している「ワクチン接種記録システム(VRS)」が、公営のプラットフォームとなり得るという事実に気付かされるのです(中国では既に運営されている…)。議会制民主主義の原点とされるイギリスの『マグナ・カルタ』では、君主に対して同意なき課税を禁じましたが、現代における国民の合意なき個人情報の利用もまた、民主主義の根幹にも関わる重大な問題なのではないかと思うのです。


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北京冬季オリンピック外交的ボイコット問題を考える

2021年12月09日 16時36分02秒 | 国際政治

 国際社会から人権弾圧国家として厳しい批判を受けている中国。その中国において、今冬、オリンピックの開催が予定されています。その幕開けを前にして、政治の世界では既に前哨戦が始まっているようです。アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダといった’ファイブ・アイズ’諸国を中心に、同大会への外交的ボイコットの動きが広がっているからです。

 

 アメリカ政府は、同盟国に同調を求めるものではないとしつつも、日本国政府は、対応に苦慮しているようです。政界内には親中派も多く、おそらくこれらの人々はボイコット阻止に動いていることでしょう。このため、行く先は不透明なのですが、外交的ボイコットが実現すれば、日本国が人権尊重国家であることを内外に示す重要な機会ともなりますので、日本国民の多くは、政府の決断を望んでいるのではないでしょうか。かくして、外交的ボイコットは、度重なる中国による人権侵害に留まらず、共産党一党独裁体制に対する自由主義国の抗議手段となったのですが、ここに、もう一つの批判対象があるように思えます。それは、オリンピックという存在そのものです。

 

 今般の外交的ボイコット問題は、オリンピックに際しての大会開催国への政府代表団の派遣という国際慣例があることを広く知らしめすこととなりました。オリンピックと申しますと、メダルを競う選手達が脚光を浴びることはありましても、各国政府が派遣した代表団に関心を払ってきた人は殆どいなかったのではないでしょうか。しかしながら、外交的ボイコットに対して中国が強い不満を表明したように、国際行事と化してきたオリンピックでは、政府代表団の派遣や開催国におけるその接受は、国際儀礼の慣習となっていたようなのです。そうであるからこそ、代表団の派遣を見送るボイコットという行為は、政治的に利用し得る手段となるのでしょう。

 

 しかしながら、近年、オリンピックは著しい変質を遂げております。中国女子テニス選手行方不明事件に際してのIOCのバッハ会長の対応に象徴されますように、商業主義に走ったIOCは、自らの利益のためには人権さえも蔑ろにしています。加えて、今夏の東京オリンピックは、IOCが’おもてなし’という名の負担やサービスを要求するばかりで、開催国やその国民を軽視している実態をも明らかにしました。このため、巨額の国費や公費を費やしてまで開催すべき大会なのか、多くの人々が疑問を抱くに至っているのです。言い換えますと、オリンピックを私物化し、集金マシーンと化しているIOCのために、開催国を含む国家が財政負担を負うことには反対の声も少なくないのです。こうしたオリンピック・イメージの悪化のためか、札幌オリンピックの誘致につきましても、国民世論の反応はいたって冷ややかなようです。

 

 東京大会に際して、バッハ会長は、日本国民と中国国民とを取り違えた発言をして批判を浴びましたが、特権意識の強いIOCにとりましては、中国のような大国は媚び諂ってでも利用したい国である一方で、日本国などの中小国は’搾取’の対象なのでしょう。そして、各国政府がオリンピックが開催される度に開催国に政府代表団を派遣しているとしますと、むしろ、この慣例を廃止した方が、オリンピックを政治から切り離す一歩となりますし、IOCに対して各国政府が’朝見’、あるいは、’朝貢’するような現行のスタイルを改めることができるようにも思えます。

 

 今般の外交的ボイコットにつきましては、結局、選手団は派遣されますので、IOCにとりましては収益上のダメージとはなりませんし、また、中国とファイブ・アイズが裏で結託した茶番である可能性もありましょう(どこか中途半端…)。自由主義国が本気で中国に対して抗議の意思表示をするならば、モスクワオリンピックのように、選手団の派遣見送りに優るものはありません。何れにしましても、人権弾圧国家である中国を容認した形で北京オリンピックが開催されるとすれば、北京オリンピックは東京オリンピック以上に後味の悪い大会となりましょう。日本国政府は、外交的ボイコットは当然のこととしつつ(選手団派遣のボイコットも検討を…)、腐敗した現IOC体制の改革を提言すべきではないかと思うのです(現状のままでは、民心の離反により消滅も…)。


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’民主主義’を手中にしたい中国‐’抱きつき作戦’の成否は?

2021年12月08日 16時20分26秒 | 国際政治

 自らが最高指導者として君臨する共産党一党独裁体制を確立した習近平国家主席を悩ませているもの、それは、恒大集団のデフォルト問題のみではありません。同国家体制を根底から揺るがしかねない最大の脅威とは、民主主義に他なりません。そこで、この’目の上のたんこぶ’を取り除くために同主席が選んだ方法とは、所謂’抱きつき作戦’のようなのです。

 

 ’抱きつき作戦’とは、内心においては敵と見なすもの、あるいは、脅威と感じるものに対して敢えて友好的な姿勢で積極的にアプローチし、自らの内側に取り込んでしまうというものです。自らの内部に取り込んでしまえば、煮ようが焼こうが勝手であり、もはや自らにとって危険なものではなくなるのです。権謀術数に長けた中国では、しばしばこの作戦が実践されており、笑顔の裏側を知った時には時すでに遅し、というお話も少なくありません(日本の政治家も企業も気を付けて!)。

 

 かくして’抱きつき作戦’は中国の得意技の一つなのですが、今般、中国は、民主主義をターゲットしてこの作戦を遂行中しているようです。果たして、この作戦、中国の思惑通りに成功するのでしょうか。何故ならは、共産主義の下で独裁体制を敷く中国にとりまして、民主主義は異物であり、真逆の価値であるからです。

 

 同作戦における中国の論法とは、(1)民主主義の普遍的価値を認めつつ、民主主義の多様性を主張する⇒(2)民主主義の基準を自己流に定義する⇒(3)同基準に照らして他国の民主的制度を批判する⇒(4)自らの’民主主義’の優位性を主張する、というもののようです。先日も、アメリカが世界110カ国の首脳を招待して「民主主義サミット」を開催するのを前にして、「中国の民主」なるタイトルの白書を発表しています。同白書にあって、アメリカの民主的選挙制度は手厳しく批判されており、富裕層がお金で票を買い、政治家は選挙の時にしか国民の声を聞かない、腐敗した見せかけの民主主義と酷評しています。社会共産主義国にはかねてより’人民民主主義’という概念がありましたが、(習政権では、自国の民主主義を「全過程人民民主」と定めている…)、自由主義国において普通選挙とセットで定着している自由民主主義より優れていると主張したいのでしょう。

 

 しかしながら、それでは、中国が民主主義国家であるのか、と申しますと、誰もが否定的な見解を示すことでしょう。そもそも、中国の主張によれば、人民に奉仕する国=民主的国家と言うことになるのですが、この定義は、善政の定義ではあっても、民主主義を認定する基準とはなりません。古今東西を問わず、世襲君主制にあっても人民に奉仕した君主は散見されます。例えば、啓蒙君主にして「君主は人民の第一の僕」という言葉を残したプロシアのフリードリヒ2世の治世も民主主義の時代に分類されましょう。

 

しかも、中国が策定したとされる民主主義の8条件には(自らが設定した基準に照らして自己採点すれば、中国はゼロ点になってしまうのでは…)、民主的体制の最大の特徴であり、他の体制と区別する基準ともなる、国民の政治的自由や政治参加の権利の保障が抜けております。民主主義とは、国民が言論の自由を基礎とした政治的自由を享受し(国民各自が、自らの政治的見解を自由に表明し得ると共に、オープンに自由闊達な政策議論ができる状態…)、国民が政治に参加する権利が、実際に国民各自がそれらを行使し得る制度として確立されていなくては絵に描いた餅に過ぎないのです。

 

中国のアメリカ批判も、民主主義の制度的欠陥や制度上の盲点を指摘したに過ぎず、今後、アメリカにあって制度的改良が加えられれば、民主主義という価値をより体現する国家へと発展することとなりましょう。その一方で、中国はどうでしょうか。国民の政治的自由と権利の制度的保障に照らしますと、同国が如何に’人民民主主義’を強調しよとも、非民主的国家です。そして、真の意味での民主主義の制度化は、一党独裁体制そのものの自己否定を意味するのです。言い換えますと、中国が真の民主主義に抱きつこうとしますと、逆に、民主主義に中国の独裁体制が飲み込まれてしまい、自己消滅を招くかもしれません。そして、この日が訪れることを、中国国民を含め、多くの人々が願っているのではないでしょうか。


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お詫び

2021年12月07日 20時57分23秒 | その他

 本日は、父の体調不良のため、ブログの更新をお休みいたしました。どうぞ、ご容赦くださいますよう、お願い申し上げます。


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ファイザー社CEOは『1984年』の世界の住人?

2021年12月06日 12時05分52秒 | 国際政治

 先週、イギリスBBCの単独インタヴューに答えて、ファイザー社CEOのアルバート・ブーラ氏は、‘コロナワクチンは、毎年、何年間も接種が必要’と語ったそうです。国内外では、既に3回目の追加接種が始まっており、同氏の発言は決して絵空事ではありません。ブーラ氏は、ワクチンの必要性について熱弁を振るい、オミクロン株用にアップデートされたワクチンも100日以内の供給が可能であると述べています。ビジネス・トークにも聞えるのですが、同インタヴューには、同氏の世界観も現れているように思えます。特に注目されるのは、ワクチン接種を拒む人々へのメッセージです。

 

同氏のメッセージとは、「(ワクチン接種を)恐れている人たちに伝えたい。人間の感情の中で、恐怖よりも強いのは愛だけだ」というものです。最近、日本国政府も、ワクチン接種キャンペーンとして愛する人々を護るために接種しようと呼びかけておりますが、同氏も、「…あなたの健康だけではなく、ほかの人の健康、特にあなたが一番に愛する人たちの健康に影響を及ぼすことになる…」と訴えています。もしかしますと、日本国政府の‘CM’は、ファイザー社の受け売り、あるいは、指図を受けて作成しているとの疑いも生じるのですが、ワクチン接種を促すために他者への愛情を持ち出す同氏の思考は、どこか倒錯しているようにも思えるのです。

 

そこで、思い起こされますのが、ジョージ・オーウェルが描いた『1984年』の世界です。同小説に登場するオセアニアという国では、凡そ全てが’あべこべ’です。同国に設置されている省庁には「愛情省」という名称のものもありますが、その実態は、反体制思想を持つ国民を拘束しては尋問し、洗脳と拷問によって転向させる弾圧機関です。そして、「101号室」に送られた被疑者たちには、たとえ同体制の方が’正しい’と認め、ビッグブラザーへの愛情を誓ったとしても、最後には処刑される運命が待ち受けているのです。

 

この「101号室」での拷問において残酷なのは、愛情を誓った者同士を自己愛のために相互に裏切らせるところにあります。恐怖に負けた被疑者たちは、他者への愛を放棄して自己愛を選択するのであり、そしてそれは同時に、ビッグブラザーへの愛を意味してしまうのです。つまり、他者を犠牲にしたという自責の念が、被疑者をして処刑を受け入れる心理状態をもたらしているのであり、それは、現体制の自発的受容に他ならないのです。

 

このように、『1984年』の世界では、独裁者は、愛情という人類の最も愛すべき資質を弄ぶことによって自らの悪しき体制を維持しているのですが、ファイザー社のCEOの発言にも、人類の愛という感情の狡猾な悪用が感じられます。もっとも、ワクチン接種の場合には、『1984年』のケースより構図はシンプルであり、裏切りではなく、他者への愛に殉じるように促すことで目的を達成する自己犠牲型とも言えましょう。新型コロナウイルス感染症の恐怖で人々を煽りつつ、リスクのあるワクチンの接種をして他者への愛の証としているのですから。何れにしても、ワクチン接種の自発的な受け入れが、同時に永続的なワクチン接種体制の心理的な受容を期待している点において、『1984年』の世界と共通しているのです。

 

とは申しましても、ブーラCEOにも誤算があるように思えます。現実には、人々への愛のためにこそ、ワクチンを打たない、あるいは、ワクチン・リスクを訴えている人々が存在しているからです。そして、ワクチン接種の受容が新たな国民監視・管理体制の出現の可能性を意味していることに気が付いている人々も…。これらの人々に対しては、上述した台詞は通用しないのです。同氏は、「だからこそ勇気を出して恐怖心に打ち勝ち、正しいことをしてもらいたい」と訴えておりますが、ワクチン接種を拒否する人々にとりましての「勇気を出し、恐怖心に打ち勝って為すべき事」とは、ワクチンを接種するか否かの選択の自由を含む人々の基本的な自由と権利を護り、ワクチン圧力から人々を解放することにあるのですから。そしてそれは、愛する人々を護ることでもあるのです。


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増加し続ける中国人移民の問題

2021年12月03日 12時51分50秒 | その他

 2020年末での数字ながら、中国メディア新浪財経は、青書「中国国際移民報告2020」を引用する形で、2019年において同国が1000万人を越える移民を海外に送り出したとする記事を発表しています。現在のところは、コロナ禍の影響で増加率は鈍化しているのでしょうが、1000万人と言えば小国の人口をゆうに超える数字ですし、この勢いが10年続けば、1億人以上の中国人が海外に渡ることになります。100年後には、中国本国が‘空地’になる事態も想定されますが、日本国を含め、自由主義国は、中国人移民の激増を放置してもよいのでしょうか。

 

 中国からの移住先国のトップ3は、アメリカ、日本、カナダであり、何れも自由主義国です。この順位を裏付けるかのように、先日も、日本国内の外国人居住者の数が過去最大を記録し、その内、出身国の第一位は中国であると報じられていました。今般、日本国政府は、特定技能2号資格の対象を大幅に拡大する方針を示していますが、同政策が実現すれば、中国人移民の数はさらに増加することでしょう。

 

2号資格を取得すれば、永住資格のみならず日本国籍を取得することも容易となります。居住年数などの取得要件の大半を、自動的に満たすこととなるからです。そして国籍の取得は、同時に参政権を得ることを意味します。否、武蔵野市で外国人に住民投票を認めるような条例が制定されようものなら、多くの中国人が日本国において政治的権利を行使し得ることとなりましょう。それでは、中国人、あるいは、中国出身の中国系日本国民が政治的権利を行使しますと、どのような事態が起こり得るのでしょうか。

 

ここで先ずもって問題となるのは、価値観の共有の如何です。と申しますのは、中国は、一党独裁体制下にあり、自由、民主主義、法の支配、個人の基本権利の尊重、あるいは、人道といった、人類普遍とされる諸価値が蔑ろにされているからです。しかも、表向きは平等を掲げながら、その実、序列造りが大好きな国でもあります。加えて、統治機構を見ましても権力分立が否定されていますので、権力の暴走や濫用を制御する機能も働いてはいません。中国で教育を受けた人々は、習近平国家主席をトップに仰ぐ個人独裁の‘洗脳’を受けていますので、日本国民とは政治的価値を共有していないのです。

 

一党独裁や個人独裁を是とする価値観を有する人々が日本国内において政治に参加する事態が起きるとすれば、日本国は、程度の差こそあれ、内部から’共産化’する、あるいは、全体主義に侵食されるリスクを負うこととなります。そして、中国からの移民数、あるいは、日本国籍取得者数が増加すればするほど、同リスクは比例的に上昇するものと予測されるのです。現状でさえ、与野党を問わずに政党レベルでは親中派が浸透しているのですから、今後は、’中国票’欲しさに’転向’する政治家が続出するかもしれません。

 

 今日の日本国の政界を観察する限り、上述した忌々しき未来は決して絵空事とも思えません。自由主義国の政府は、自らの政治的な価値を護るためにも全体主義国家からの移民に対しては厳しい態度で臨むべきなのではないでしょうか。そして、国籍取得に際しての審査においては、最低限、憲法の順守を絶対条件とすると共に、その政治的価値観をも問われるべきように思えます。中国共産党、あるいは、習近平国家主席への忠誠心を含め、独裁体制や全体主義体制を是とする価値観を一切捨てない限り、自由主義国は自国の国籍を与えてはならないのです。民主的制度を逆手にとった狡猾な’共産化’、あるいは、全体主義体制への移行が、自由主義国を舞台に起きてしまってからでは遅いのですから。


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オミクロン株は善玉か悪玉か?

2021年12月02日 12時52分43秒 | 国際政治

 今日、最も恐れられている新型コロナウイルスの変異株、オミクロン株は、日本国内では感染者の2例目が報告される一方で、アメリカへの上陸も確認されたそうです。オミクロン株の出現は第六波の到来を予感させるのですが、同株の性質次第では、全く別の展開もあり得るように思えます。

 

 オミクロン株もまた、全世界にコロナ禍をもたらした新型コロナウイルスの変異株ですので、誰もが悪玉と決めつけがちです。各国政府とも水際対策の徹底を急ぎ、日本国政府も、オミクロン株出現の一報を受けて、即、入国禁止措置を採っております。特に日本国内では、一先ずコロナ禍が収束している状況にあり、新たな変異株の流入を何としても阻止しようとする政府の姿勢も理解に難くはありません。

 

こうした国境における規制強化の流れは、各国政府とも、オミクロン株を最大の脅威として捉えている証でもあるのですが、これらの措置には、同ウイルスが、感染力、病毒性、並びに、ワクチンに対する免疫回避能力において全ての従来株を上回るとする前提があります。つまり、オミクロン株の拡大は、ワクチン接種を基盤としたこれまでのコロナ対策を水泡に帰してしまう可能性があるからこそ、最も警戒すべき脅威なのです。

 

しかも、大手メディアの大半は報じないものの、オミクロン株に見られる32か所以上の変異のうちの3つ(K417N, N439K, E484)は、大阪大学がADEを起こすと予測した変異種の出現に必要とされる4つの変異(K417N, N439K, E484K, N501Y)に当たるそうです。このことから、オミクロン株が流行れば、免疫回避に留まらず、既にワクチン接種した人々の間で爆発的なADE(抗体依存性感染増強)が起きる可能性も指摘されているのです。

 

仮に、オミクロン株が極めて強い感染力を備え、病毒性も高く(致死率も高い…)、かつ、免疫回避に加えてADEを引き起こす変異種でもあるならば、同株は、‘悪玉中の悪玉’と言えましょう。しかしながら、仮に、オミクロン株が弱毒化した病毒性の低いウイルスであった場合はどうでしょうか。このケースでは、必ずしもオミクロン株の蔓延は防ぐべきものとも言えなくなるように思えます。

 

これまで出現した新型コロナウイルスの変異株の推移を見ますと、新たに出現した感染力の強い変異株が既存の変異株を駆逐して’シェア’を広げてゆくというパターンが観察されます。そして、一時的であれ、勝ち残った感染力の強いウイルスによる独占状態が出現するのです(もっとも、同独占も新たな変異株の出現で破られてしまう…)。こうした変異ウイルス間バトルの勝敗要因が感染力の強弱にあるとしますと、最速の感染力を備えた弱毒化ウイルスが最後の勝利ウイルスとなるシナリオは、人類にとりましては望ましい結末となります。このような展開となれば、オミクロン株は、人類を救う善玉ウイルスということになりましょう。

 

 オミクロン株は空気感染するほどの強い感染力を持つとする指摘がある一方で、南アフリカからの報告によりますと、幸いにして、今のところオミクロン株の感染者には重症者は見られないそうです。同株につきましては不明な点も多く、判断に必要となる十分なデータや情報ない以上、現状では、水際対策の強化が最もリスクを低く抑える対策とは言えましょう(リスク管理の側面からは、WHOや国連事務総長の批判は疑問…)。しかしながら、その一方で、オミクロン株、否、今後にあっても出現するかもしれない感染力の強い弱毒変異株は、コロナ禍を終息させる能力を秘めた善玉ウイルスである可能性も頭の片隅には入れておくべきではないかと思うのです。生物界では人体に無害のウイルスの方が遥かに多く、無害になれば恐れることはなくなるのですから。


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中国の’成長の限界’の最大要因とは?

2021年12月01日 12時49分47秒 | 国際政治

鄧小平時代に始まる改革開放路線は中国経済を急速に発展させ、グローバル時代の幕開けとは、まさに中国の時代の到来と言っても過言ではなかったかもしれません。しかしながら、近年、中国の目を見張るような経済成長率も鈍化傾向を見せるようになり、今日では、成長の限界論が囁かれるようになりました。

 

 中国の将来を憂うる成長の限界論の主たる根拠としては、インフラ投資等の公共投資の偏重、債務依存型の経済、低レベルな労働生産性、並びに、労働人口の減少が挙げられています。加えて、人件費の上昇により製造拠点としての魅力を失う「中所得国の罠」にも直面しており、「世界の工場」の地位も揺らぎつつあります。日本国内でも、中国製に代ってベトナムやタイといった東南アジア諸国からの輸入品が増えてきていることに気が付いている消費者も少なくないはずです。恒大集団のデフォルト問題も燻り続けており、中国経済は、何時暗転してもおかしくはない状態にあるのです。

 

 このように、経済的な側面から見ますと、中国の成長には限界が現れてきているのですが、政治的な側面から見ますと、中国には、経済的要因を遥かに上回る’成長の限界要因’が存在しているように思えます。それは、何かと申しますと、1949年10月の建国以来、同国が堅持してきた一党独裁体制にあることは言うまでもありません。そして、習近平国家主席を頂点とする個人独裁体制が確立した今日、中国最大の成長の限界要因は、習主席その人であるかもしれないのです。

 

 個人独裁体制では、権威と権力を兼ね備えた独裁者が、国民とは隔絶された超越的な地位から全国民を支配するスタイルをとります。独裁者にとっての望ましい国民像とは自らへの誠実なる奉仕者であり、自身に対する揺るぎない忠誠心こそが重要です。もっとも、全ての国民から忠誠心を獲得することは簡単ではありませんので、自発的な忠誠心を得られなければ、暴力、恐怖、洗脳、詐術、偽情報の流布など、あらゆる手段を駆使して国民に忠誠を誓わせようとします。利己的で支配欲に満ちた独裁者と利他的で寛容な人格者とは、その本質において相いれませんので、歴史的に見ましても、強制力を働かさざるを得ないパターンの方が遥かに多いのです(もっとも、国家のトップが家族全員の面倒を見る義務や責任を負う、’家長’の役割を担う模擬家族的な国家形態などもありますが、特に近代以降の歴史では稀…)。

 

個人独裁体制を描いた小説としては、決して国民の前に姿を見せないビッグブラザーが登場する『1984年』が良く知られていますが、現実の歴史にあっても、同体制が出現した事例は枚挙に遑がありません。20世紀には、旧ソ連邦をはじめとした社会・共産主義国の大半は同体制にありましたし、ナチス・ドイツやファシスト支配のイタリアでも、独裁者は、いわば’超人’でした。独裁者は、一般の国民と同列にあるのではなく、平等という価値も、国民の画一化という意味においては尊重、あるいは、強要されたとしても(各自が多様な個性や才能を有することを前提とした、人格の相互的な尊重ではない…)、独裁者と国民との間には、絶対に越えてはならない’線が引かれているのです。

 

そして、この’独裁者の超越性’という国家体制上の位置づけこそが、実のところ、政治分野における成長の限界論の根拠となります(求心型統治形態の構造的問題…)。何故ならば、如何なる国民も、独裁者を決して越えてはならないからです。仮に、独裁者よりも人格に優れ、資質や才能にも恵まれ、人々からの人望も厚い人物が登場しようものなら、独裁者は、自らの保身のために手段を選ばずに同人物を粛清しようとすることでしょう。言い換えますと、独裁者の個人的なレベルがその国のレベルの上限となり、成長の最大の阻害要因となってしまうのです。

 

このように考えますと、中国は、自らの手、否、独裁者の手によって国家としての成長を止められてしまうかもしれません。そして、独裁者の地位に安住した習近平国家主席は、自らが中国という国の最大の成長の阻害要因であることに、永遠に気が付かないのではないかと思うのです。


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