万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

北京冬季オリンピック外交的ボイコット問題を考える

2021年12月09日 16時36分02秒 | 国際政治

 国際社会から人権弾圧国家として厳しい批判を受けている中国。その中国において、今冬、オリンピックの開催が予定されています。その幕開けを前にして、政治の世界では既に前哨戦が始まっているようです。アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダといった’ファイブ・アイズ’諸国を中心に、同大会への外交的ボイコットの動きが広がっているからです。

 

 アメリカ政府は、同盟国に同調を求めるものではないとしつつも、日本国政府は、対応に苦慮しているようです。政界内には親中派も多く、おそらくこれらの人々はボイコット阻止に動いていることでしょう。このため、行く先は不透明なのですが、外交的ボイコットが実現すれば、日本国が人権尊重国家であることを内外に示す重要な機会ともなりますので、日本国民の多くは、政府の決断を望んでいるのではないでしょうか。かくして、外交的ボイコットは、度重なる中国による人権侵害に留まらず、共産党一党独裁体制に対する自由主義国の抗議手段となったのですが、ここに、もう一つの批判対象があるように思えます。それは、オリンピックという存在そのものです。

 

 今般の外交的ボイコット問題は、オリンピックに際しての大会開催国への政府代表団の派遣という国際慣例があることを広く知らしめすこととなりました。オリンピックと申しますと、メダルを競う選手達が脚光を浴びることはありましても、各国政府が派遣した代表団に関心を払ってきた人は殆どいなかったのではないでしょうか。しかしながら、外交的ボイコットに対して中国が強い不満を表明したように、国際行事と化してきたオリンピックでは、政府代表団の派遣や開催国におけるその接受は、国際儀礼の慣習となっていたようなのです。そうであるからこそ、代表団の派遣を見送るボイコットという行為は、政治的に利用し得る手段となるのでしょう。

 

 しかしながら、近年、オリンピックは著しい変質を遂げております。中国女子テニス選手行方不明事件に際してのIOCのバッハ会長の対応に象徴されますように、商業主義に走ったIOCは、自らの利益のためには人権さえも蔑ろにしています。加えて、今夏の東京オリンピックは、IOCが’おもてなし’という名の負担やサービスを要求するばかりで、開催国やその国民を軽視している実態をも明らかにしました。このため、巨額の国費や公費を費やしてまで開催すべき大会なのか、多くの人々が疑問を抱くに至っているのです。言い換えますと、オリンピックを私物化し、集金マシーンと化しているIOCのために、開催国を含む国家が財政負担を負うことには反対の声も少なくないのです。こうしたオリンピック・イメージの悪化のためか、札幌オリンピックの誘致につきましても、国民世論の反応はいたって冷ややかなようです。

 

 東京大会に際して、バッハ会長は、日本国民と中国国民とを取り違えた発言をして批判を浴びましたが、特権意識の強いIOCにとりましては、中国のような大国は媚び諂ってでも利用したい国である一方で、日本国などの中小国は’搾取’の対象なのでしょう。そして、各国政府がオリンピックが開催される度に開催国に政府代表団を派遣しているとしますと、むしろ、この慣例を廃止した方が、オリンピックを政治から切り離す一歩となりますし、IOCに対して各国政府が’朝見’、あるいは、’朝貢’するような現行のスタイルを改めることができるようにも思えます。

 

 今般の外交的ボイコットにつきましては、結局、選手団は派遣されますので、IOCにとりましては収益上のダメージとはなりませんし、また、中国とファイブ・アイズが裏で結託した茶番である可能性もありましょう(どこか中途半端…)。自由主義国が本気で中国に対して抗議の意思表示をするならば、モスクワオリンピックのように、選手団の派遣見送りに優るものはありません。何れにしましても、人権弾圧国家である中国を容認した形で北京オリンピックが開催されるとすれば、北京オリンピックは東京オリンピック以上に後味の悪い大会となりましょう。日本国政府は、外交的ボイコットは当然のこととしつつ(選手団派遣のボイコットも検討を…)、腐敗した現IOC体制の改革を提言すべきではないかと思うのです(現状のままでは、民心の離反により消滅も…)。


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