自由という言葉の響きが耳に心地よいために、‘自由’と名の付くものは全て‘素晴らしいもの’に違いないと思いがちです。それが不条理な束縛からの解放であれば、なおさらのことです。しかしながら、自由というものも深く掘り下げて考察しませんと、逆の結果が待っているケースもないわけではありません。その最たる事例が、自由貿易主義やグローバリズムではないかと思うのです。自由が不自由に逆転してしまう場合には、凡そ二つの形態が見られます。
その第一は、国家や社会において自由というものが、特定の人、あるいは、一部の人々にのみ許される場合です。例えば、ヨーロッパの近世で多々見られた絶対王制とは、‘絶対(absolute)’のラテン語の語源が‘あらゆる束縛のない状態’、すなわち‘完全なる自由な状態’にありますので、君主一人に無制限な自由が許されていた体制を意味します。誰もが、絶対王制の時代を君主のみが自由を謳歌した時代であったとして評価しないように、権力、権威、マネー・パワー等を独占あるいは寡占する人、あるいは、人々が、自らの意思を他者に押しつけ、圧迫する場合には、真の意味においての自由とは見なされないのです。
第二の形態は、あらゆるルールや制限が存在しない、あるいは、撤廃されているため、個々人が自由勝手に振る舞える場合です。上述した第一のケースと比較しますと、自由という言葉の持つイメージとはより合致しています。もっとも、個人の自由を全面的に認める自由放任状態では、他者から攻撃を受けたり、生命や身体を含む自らの権利が一方的に侵害されてしまうリスクも最大化しますので、自由=理想郷とは言えなくなります。各自が自らの意思に従って自由に行動することはできても、自らの安全が保障されないのでは、決して‘自由な国家’や‘自由な社会’ではないのです。因みに、トーマス・ホッブスが‘万人の万人対する闘争’と表現したように、この問題は、古来、政治哲学者や理論家が論じてきたところでもあり、統治権力の存在意義をも説明してきました。
日本国内では、自由に対する制限につきましては、‘自由には責任が伴う’とする見解が半ば定説化してきました。しかしながら、この説明では、上述した二つの不自由の形態が‘自由’を自称する時、それに論理的に抗う効果は期待薄のように思えます。何故ならば、独占的あるいは寡占的に自由を享受して得る立場の個人や集団に対しては、そもそも‘自由のない人々’が責任を問うことすら難しく、完全なる自由が等しく全員に許されているならば、他者に対して責任をとる必要もないからです。このため、責任付随論は、自己中心主義者に対する圧力程度にしか聞えてこないのです(‘勝手をしてもよいけれども、その結果に対しては責任をとってくださいね’という抑止的な効果・・・)。
このような責任付随論では真の自由がもたらされるとは思えません。先ずもって、国家や社会にあって等しく全ての人々の自由を護るためには、‘他者の自由や権利を侵害してはならない’とする、自由に対する制限の必要性、否、それを設ける必然性を論理的に説いてゆく必要がありましょう。フランス革命に際して1789年に国民議会が発布した「人および市民の権利宣言」の第4条には、「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存す。・・・」とあり、利己的他害性の有無が自由の制限に関する線引きの基準であったことを示しています。もっとも、同原則については、第2のパターンに対しては強い制限効果を発揮しますが、第1のパターンについては、効果は不明という問題があります。
まさしく正論でありながら同原則が批判を受けたのは、フランス革命はブルジョア革命であったと評されるように、おそらく、第一のパターンに対する対応が抜け落ちていたからなのでしょう。合法的な手段で大富豪となった人々がその絶大なるマネー・パワーをもって自らの個人的な‘自由’を謳歌し、様々な手段や経路をもって自らに利益が集中する仕組みを作り上げたとき、他の人々はなすすべがないのからです。‘お金持ちになるチャンスは誰にもあるのだから、他者の自由を奪っているわけではない’とする反論が返ってくるからです。なお、一と二との関連性については、個人間であれ、集団間であれ、現実には様々な差異がありますので、二の状態が継続すれは、時間の経過によって自ずと一の状態を帰結してしまうということになりましょう。そしてこの問題は、今日に至るまで解決されていないのです。
以上に個人的な自由が社会的な自由を葬ってしまう二つの形態について考えてきましたが、今日の自由貿易主義やグローバリズムは、まさしくこれら二つの側面を兼ね備えています。関税であれ、数量制限であれ、何であれ、貿易に対する一切の制限を‘ルール違反’とすることで第二の形態である無法状態を出現させ、かつ、第一の形態についても、その空間における個人の自由の絶対化がグローバリスト称される金融・産業財閥への権力と富の集中を許しているからです。
加えて、自由貿易主義を原則とする限り、各国は、第三の不自由にも直面します。それは、貿易収支を均衡させるための‘犠牲’の提供です。今日、日本国の農業が存続の危機に晒されているのも、自国の貿易赤字を減らしたいアメリカや貿易黒字を増やしたいその他の米生産諸国からの、日本国に対する米市場自由化の要求があるからなのでしょう。果たして自由貿易主義をもって金科玉条とし、同体制を維持するのが正しいのかどうか、いよいよもって疑わしくなってくるのです(つづく)。