今般のアメリカ大統領選挙では、民主党のバイデン氏が勝利を宣言したもの、未だ決着がつかない状況が続いています。その一方で、大統領選挙の行方に拘わらず、‘敗戦’が決定的になったのはマスメディアであったとも指摘されています。情報提供機関としての存在意義を支えてきた信頼性が、根底から崩壊しつつあるのですから。この現象は、アメリカのマスメディアのみならず、日本国を含む全世界のメディアにも及んでいるように見えます。
今ではバイデン次期大統領という表現が減少し、双方とも○○氏と表記する報道が増加したものの、当初は、同氏の勝利が確定されたかのような記事が紙面やネットに溢れていました。今でも、アメリカ大統領選挙に関する論評の冒頭の多くに、あたかも枕詞のように、‘バイデン前副大統領が勝利をおさめた2020年の米国大統領選挙では…’とか、‘2020年米国大統領選挙を制したのは、ジョセフ.R.バイデンであった’といった前置きが付されているのを目にしますと、マスメディアの役割に対する疑いは確信に変わります。
それは、マスメディアが‘顧客’から請け負っている仕事の一つとは、人々に事実を余すところなく伝えるのではなく、未確定な出来事でもそれを確定された事実として報じることで既成事実化を進めることではなかったのか、とい疑いです。バイデン氏当確を印象付ける表現がかくも並びますと、単なる偶然とは思えず、その背景には、同一の‘権力体’からの‘指示’が推測されるからです。仮に、‘嘘でも百篇言えば事実になる’方式でバイデン氏勝利を連呼しているとすれば、それは、逆効果となりましょう。一般の人々は、こうしたマスコミ各社に対して、その執拗さに異常性、あるいは、作為を感じ取るからです。
そして、もう一つのマスメディアのお仕事とは、社会全体に対して同調圧力を加えることです。このお仕事は、世論調査によって遂行されます。調査結果、大多数の賛意を得た回答を以って‘世論’を装うことができますし、それは、強力な同調圧力として作用するからです。今般の大統領選挙では、票数の集計ソフトにおける不正が取沙汰されていますが、選挙こそ、多数決の原則、即ち、数がモノを言う最たるものです。投票前であれ、投票後であれ、メディアによる‘多数派’の演出はとりわけ重要であり、人々の投票行動を変えたり、自らの置かれている状況を‘現実’であると‘信じ込ませる’ことができるのです。選挙の投票であれ、世論調査であれ、その結果を改竄することは難しいことではありません。民間メディアによる調査であれば、集計現場を公開する義務もなく、また、他者からチェックされることもないのですからなおさらのことです。しばしば、日本社会は同調圧力が強いとも指摘されてきましたが、何れの国にあっても、マスメディアが作為的に同調圧力を造り出している点においては変わりはないのかもしれません。
しかしながら、人々は、世論調査の結果をもはや‘民意’とは見なされなくなり、メディア側、あるいは、それが仕える組織の願望に過ぎないと認識されるに至りました。今日における人々とメディアとの関係は、メディアの欺瞞を察知し、行間から事実を読み取ろうとする点において、‘探偵と容疑者’との関係に類似しています。そして、人々がメディアの報道を信じなくなりますと、当然に、既成事実効果や同調圧力効果なども失われてゆきます。人々がメディアを信じていたからこそ、メディアは‘権力体’にとりまして有用な手段であったのですから、皮肉なことです。
中国といった全体主義国家では、強権の発動を伴う情報統制の徹底によって国民の官製メディアに対する不信感を封じ込めることができますが、言論の自由が保障されている自由主義国では、メディアに対する国民の不信は、メディア離れを加速させることでしょう。今日、メディアは、信頼性という自らが依って立つ基盤を自らの手で壊してしまったことにおいて、存亡の危機に立たされているのではないかと思うのです。