ロシア、北方領土占領の歴史的正当性主張へ 次官級協議(朝日新聞) - goo ニュース
第二次世界大戦は、終戦時を基準に連合国対枢軸国の対立構図として描かれがちですが、開戦時と終戦時において陣営内の組み合わせが違うという、奇妙な戦争でもありました。第二次世界大戦前夜は、単純化すれば、自由主義勢力、全体主義勢力、そして、共産主義勢力の3陣営による三つ巴であったのですから。
第二次世界大戦の発端となる1939年9月のポーランド侵攻は、8月23日に締結された独ソ不可侵条約に基づいており、ドイツとソ連の両国は、ポーランドを東西から挟み撃ちにして領土を分割します。開戦時点では、全体主義勢力と共産主義勢力が連携しており、自由主義勢力が孤立しています。日本国は(もっとも、日本国の場合、強い影響を受けたけれども、政治体制としては純粋な全体主義とは言い切れない…)、1941年4月に日独伊ソの四国同盟構想の下に日ソ中立条約を締結しており、ソ連邦のスターリンも、同構想を基本方針としていたようです(第一期:全体+共産vs自由)。ところが、ドイツが同年6月に対ソ攻撃を開始し、イタリアと共にソ連に対して宣戦布告すると、がらりと勢力の組み合わせが変わります。今度は、自由主義勢力と共産主義勢力とが手を組み、全体主義勢力が孤立するのです(第二期:自由+共産vs全体)。こうして、終戦時には連合国対枢軸国となるのですが、その実、終戦末期には、水面下でさらなる第3の組み換えが進行していました(第三期:自由+旧全体vs共産)。次なる組み合わせでは、自由主義勢力と旧全体主義国が西側陣形を形成し、東側陣営の共産主義勢力と対峙するのです―冷戦構造―。大局的に見ますと、第二次世界大戦は枢軸国の敗戦によっては完全には終結しておらず、この意味において、サンフランシスコ講和条約は、新たな”組み換え”のための前提ともなりました。つまり、三つ巴を構成していた3勢力間の全ての組み合わせが出現したわけですが、敗戦により、枢軸国諸国は自由で民主的な国家へと変化しますので、西側陣営の間でのイデオロギー対立は影を潜めることになります。結局、少なくともヨーロッパにおける三つ巴の解消は、最後に残った共産主義勢力、すなわちソ連邦の崩壊によってもたらされたと言うことができるかもしれません(アジアには、未だに中国という共産主義勢力が残存している…)。
第二次世界大戦が、奇妙な三つ巴から始まったことを考慮しますと、ロシアが、懲罰的な根拠を以って日本国に対して北方領土の占領の正当性を主張することもまた、奇妙なことです。何故ならば、上述したように自らもドイツと共にポーランドに侵攻し、かつ、ナチス・ドイツからの解放を大義名分として、周辺諸国を侵略しているのですから。況してや、軍事占領を越えて領土併合となりますと、連合国の基本方針にも反する領土拡張主義そのものです。ロシアには、第二次世界大戦におけるソ連邦の行動をつぶさに再検証していただきたいと思うのです。
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第二次世界大戦は、終戦時を基準に連合国対枢軸国の対立構図として描かれがちですが、開戦時と終戦時において陣営内の組み合わせが違うという、奇妙な戦争でもありました。第二次世界大戦前夜は、単純化すれば、自由主義勢力、全体主義勢力、そして、共産主義勢力の3陣営による三つ巴であったのですから。
第二次世界大戦の発端となる1939年9月のポーランド侵攻は、8月23日に締結された独ソ不可侵条約に基づいており、ドイツとソ連の両国は、ポーランドを東西から挟み撃ちにして領土を分割します。開戦時点では、全体主義勢力と共産主義勢力が連携しており、自由主義勢力が孤立しています。日本国は(もっとも、日本国の場合、強い影響を受けたけれども、政治体制としては純粋な全体主義とは言い切れない…)、1941年4月に日独伊ソの四国同盟構想の下に日ソ中立条約を締結しており、ソ連邦のスターリンも、同構想を基本方針としていたようです(第一期:全体+共産vs自由)。ところが、ドイツが同年6月に対ソ攻撃を開始し、イタリアと共にソ連に対して宣戦布告すると、がらりと勢力の組み合わせが変わります。今度は、自由主義勢力と共産主義勢力とが手を組み、全体主義勢力が孤立するのです(第二期:自由+共産vs全体)。こうして、終戦時には連合国対枢軸国となるのですが、その実、終戦末期には、水面下でさらなる第3の組み換えが進行していました(第三期:自由+旧全体vs共産)。次なる組み合わせでは、自由主義勢力と旧全体主義国が西側陣形を形成し、東側陣営の共産主義勢力と対峙するのです―冷戦構造―。大局的に見ますと、第二次世界大戦は枢軸国の敗戦によっては完全には終結しておらず、この意味において、サンフランシスコ講和条約は、新たな”組み換え”のための前提ともなりました。つまり、三つ巴を構成していた3勢力間の全ての組み合わせが出現したわけですが、敗戦により、枢軸国諸国は自由で民主的な国家へと変化しますので、西側陣営の間でのイデオロギー対立は影を潜めることになります。結局、少なくともヨーロッパにおける三つ巴の解消は、最後に残った共産主義勢力、すなわちソ連邦の崩壊によってもたらされたと言うことができるかもしれません(アジアには、未だに中国という共産主義勢力が残存している…)。
第二次世界大戦が、奇妙な三つ巴から始まったことを考慮しますと、ロシアが、懲罰的な根拠を以って日本国に対して北方領土の占領の正当性を主張することもまた、奇妙なことです。何故ならば、上述したように自らもドイツと共にポーランドに侵攻し、かつ、ナチス・ドイツからの解放を大義名分として、周辺諸国を侵略しているのですから。況してや、軍事占領を越えて領土併合となりますと、連合国の基本方針にも反する領土拡張主義そのものです。ロシアには、第二次世界大戦におけるソ連邦の行動をつぶさに再検証していただきたいと思うのです。
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米国が共産主義の危険性を理解していなかった為、多数のソ連の工作員が米国の政府に入り込み工作活動を行っていたのです。
支那は孫文がソ連の介入を容認した為、ソ連の後押しを受けた工作員が大量に入り込んできたのです。
当時の支那は国民党を始め多数の軍閥が争っていた状態ですので、毛沢東の率いる軍が動きまわっても、目立たなかったのです。
当時、共産主義の危険性を理解していたのは日本だけだったと言っても過言では無いでしょう。
欧州では、ドイツに対し天文学的な賠償を要求した為、第二次大戦を引き起こす事となり、米・英はソ連とともに白人による世界秩序の再構築などの夢物語を信じていたようです。
自由主義と共産主義が手を携え並立できると、真面目に信じ込んでいたようです。
そこで一番目障りになる日本を徹底的に屈服させようと画策したのです。
その結果、欧米諸国は東南アジアの植民地を失い、ソ連・中国の台頭を許し軍拡競争に歯止めがかからなくなり、ベトナム戦争を戦わざるを得なくなったのです。
自由主義・独裁というより、共産主義が演出した戦争だったといえるのかも知れません。
ソ連邦を成立させた共産主義勢力が、さらなる拡大を目指して、自由主義国と全体主義国の両者を手玉にとってとする見解も成り立つかもしれません。日米両国には、ソ連邦の工作員やスパイが送り込まれていましたし、ハルノートの草案を事実上作成したハリー・デクスター・ホワイトは、リトアニア出身のユダヤ人でしたが、ソ連邦の工作員であったとされています。第二次世界大戦の裏では、実際に陰謀が渦巻いていたのですから、表面的だけでこの大戦を評価することはできないはずです。少なくとも、ロシアの前身であるソ連邦は、人類を戦争の悲劇に引きずり込んだのですから、日本国に対して、北方領土の割譲を求める立場にあるはずもありません。ロシア、あるいは、ソ連邦を裏で動かした勢力には、自責の念はないのでしょうか。