19世紀にあってカール・マルクスが科学的に分析したとされる経済システムとは、結局は、大英帝国の絶頂期にあってイギリスが直面したそれ固有の経済・社会状況を対象としたものに過ぎませんでした。このため、マルクス主義をもって人類共通の普遍法則を主張することはできませんし、そもそも、マルクス自身の個人的な背景に基づく世界観が強く反映されているとも言えましょう。そして、同氏自身が富裕なユダヤ系の所謂‘ブルジョア’であった点を考慮しますと(ロンドンにあって、マルクス自身は、ヴィクトリア時代の上流の典型的な生活様式を楽しんでいた・・・)、それは、当時の資本家達の世界観でもあったとも推測されるのです。言い換えますと、マルクスは、資本家の視点から労働者を捉えているのであり、決して、労働者のそれから資本家を観察したわけではないのです。
それでは、マルクスが捉えた労働者とは、どのような存在であったのでしょうか。『資本論』には、以下のような記述があります。
「その商品の使用価値自身が、価値の源泉であるという独特の属性をもっており、したがって、その実際の消費が、それ自身労働の対象化であって、かくて、価値創造であるというものでなければならぬ。そして貨幣所有者は、市場でこのような特殊な商品を発見する-労働能力または労働力がこれである(『資本論』第1巻第2篇第3節)」。
回りくどい表現なのですが、貨幣経済の発展を背景に貨幣が資本、即ち、商品生産事業資金として用いられるようになると、資本家は、利益を永続的にもたらす好都合な存在を発見したと述べています。生産する商品を消費してくれる上に剰余価値をも生み出してくれる労働力こそ、この好都合な存在であったとしているのです。かくして、資本家は、‘自由なる労働者’の労働力を市場で買い取る一方で、労働者の側は、自らの労働力を市場で売るしか自らの生命や生活を維持できない存在となり、いわば商品化されます。言い換えますと、資本家にとりましては、自己保存のために生産も消費もしてくれる労働者ほど、利益を生み出す商品はなかったことになります。こうした資本家の世界観は、他者の人格のみならず基本権さえ軽視する今日のグローバリストにも脈々と受け継がれているとも言えましょう。
マルクスが書き残した著書の数々は、当時の‘資本家階級’の社会観や世界観を広く伝えるという意味において証言的な価値があるのですが、マルクス主義が多くの労働者を惹きつけ、資本家や資本家階級、あるいは、資本主義国に対する暴力を是とする勢力を結集させ、対立と分断の作用をもたらした点を考慮しますと、そこには深慮遠謀があったように思えます。何故ならば、先ずもって労働者がマルクスの主張を支持し、共産主義者となることは、資本家の世界観を受け入れることでもあるからです。
マルクス主義における階級間の対立軸は、搾取する側と搾取される側の間に設定されています。言い換えますと、マルクス主義の‘信者’である限り、常に自らを暴力をも是認する階級闘争の場に置くこととなるのであり、攻撃の対象も、常に敵認定された特定の‘適性階級’とならざるを得ないのです(人間関係も、敵か味方かで判断され、社会が分断されてしまう・・・)。このことは、労働者が、自らを人格を持たない商品であるとする自覚とその前提の下で生きることを意味しており、自ずと自己を卑下するメンタリティーを染みこませるのです。そして、資本主義の抱えている問題、即ち、‘資本家’達の世界観に起因する非人間的な経済システムに関する問題を解決するに際して、その解決策は、共産主義革命の一拓しかなくなってしますのです。言い換えますと、資本家から与えられた思考枠組みの中でしか、自らの行動を選択することができなくなるのです。
このように考えますと、目的のためには手段を選ばないマルクス主義は、むしろ民主的制度の発展にとりましては阻害要因でしかありません。否、労働者を革命の方向に誘導し、健全で公正な経済システムの構築や民主化を阻止することこそ、真の目的であったのかもしれないのです。そして、グローバリズムとマルクス主義との表裏一体性の問題は、今日、なおも尾を引いてるように思えます。新自由主義と共産主義の類似性が指摘されているように、人類にとりまして最も危険な存在とは、‘共産主義者のグローバリスト’かも知れないのですから(つづく)。