万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

オリンピックは民間興行or国家イベント?

2021年05月24日 12時34分45秒 | 国際政治

 クーベルタン男爵の提唱から始まった近代オリンピックは、平和の時代の象徴としての古代オリンピック精神を受け継いだアマチュアリズムにその真髄がありました(古代ギリシャの諸都市国家には、オリンピックの開催期間のみ、戦争を行わないという伝統があった)。国旗を背負った選手たちが、戦場ではなく、競技場にあって、国家の名誉をかけて真剣勝負に臨むのですから、人々は自ずと熱狂することとなったのです。そこには、純粋な愛国心はあっても、商業主義が入り込む余地は殆どなかく(競技(戦争)を見世物にすることはあり得ない…)、むしろ、同精神からしますと、オリンピックが営利目的のショーとなるなど、その創始者たちは想像さえしていなかったことでしょう。

 

 しかしながら、戦後のテレビの登場は、オリンピックを著しく変質させることとなります。テレビなき時代にあって、海外で開催されているオリンピックでの競技の様子を人々が知る手段は乏しく、新聞での報道を待つか、あるいは、ラジオによる実況などに頼るしかありませんでした。新聞やラジオ等では臨場感に欠けていたのですが、テレビの登場は、この状況を一転させることになります。誰もが、テレビを前にしてオリンピックの競技会場での観客と同じ視線、あるいは、それ以上に近いところから競技を観戦できるようになったからです。しかも、アナウンサーや専門家による詳しい解説も付くのですから、オリンピックは、’興行’としての価値が飛躍的に跳ね上がることとなったのです。

 

 この変化にいち早く目を付けたのが、長らくIOCに君臨したかのサマランチ会長であったと言えましょう。同会長は、アマチュア精神を骨抜きにし、オリンピックを巨万の富を生み出す世界最大のスポーツ・イベントに変えてしまったのです。ところが、オリンピック本体は、商業主義をベースとした興行に衣替えしても、IOCと開催地との関係については、この変化に対応した見直しが行われたとは言い難く、旧来の方式が踏襲されてきました。そして、この問題は、今日、東京オリンピック・パラリンピックの開催をめぐる混乱として表面化してきているように思えます。

 

 アマチュア精神の下でオリンピックが開催されていた時代には、開催地が、資金的な負担をすることは当然のことでした。何故ならば、IOCには収益はなく、選手たちも手弁当で参加していることを前提としていたからです。オリンピックには権威や名誉はあっても、’無一文’と見なされていたからこそ、観客向けの観光業収益など派生的な利益も期待でいる開催地の負担は、その国の政府も国民も快く受け入れていたと言えましょう。

 

 しかしながら、オリンピックが一大興行とへと変質したとしますと、同前提条件は、今や大きく崩れています。オリンピックは、もはや全人類の公的なイベントではなく、営利目的の民間興行事業の一つに限りなく近くなってしまったからです。ところが、IOC側は、公的事業の衣を着たままに’従来の権利’を主張する一方で、開催都市、並びに、各国政府ともオリンピックをこれまで通りに公的なものとして扱っています。このため、開催都市やその国の政府は、自らの予算、即ち、国民負担の下で巨額の開催費を支出し、メイン・スタジアムをはじめ、各種競技の会場や交通アクセスまでも整備にまえ予算を割いています。国家を挙げての行事として位置づけられおり、今や、海外の選手団を指定された開催国の市町村や学校が応援するなど、公的な関連行事まで登場しています。因みに、東京オリンピック・パラリンピックのケースでは、当初予算は6000億円ほどとされていましたが、今では、その5倍の3兆円にまで膨らんでいます。しかも、オリンピックの開催には経済効果もあるとされながら、現実には、開催後に財政赤字に苦しむ開催地も少なくないのです。

 

一方で、IOC側は、放送権や関連グッズの商標権使用料やチケット収入などにより、莫大な利益を上げているのですから、ここに、明らかな不合理、あるいは、不条理が認められます。民間興行であれば、興行会場は、自らのコストで建設する、あるいは、使用料を払って借りるものですし、参加する選手たちにも出演料を支払う義務があります。一民間事業者のために政府が交通アクセスの便宜を図るはずもなく、公的な関連イベントが実施されることもありません。宣伝やチケット販売等も、自らが行わなくてはならないのです。仮に、興行が中止されることがあったとしても、その興行開催地の政府は、何らの責任を負う立場にもありません。否、仮に、興行の開催により、現地の住民等に何らかの被害が及ぶことにでもなれば、損害賠償の請求先は、興行事業者となりましょう。

 

先日、アメリカのワシントン・ポストが、‘ぽったくり男爵’としてIOCのバッハ会長を痛烈に批判しましたが、この批判は、上記の不条理からしますと根拠のないものではありません。オリンピックは、既に大きく変質しており、その実態は民間営利団体でありながら、あらゆる負担を開催都市、並びに、開催国とその国民に押し付けているのですから。今夏に予定されている東京オリンピック・パラリンピックの行方は未だ定かではありませんが、何れにしましても、オリンピックの公私の線引き問題、即ち、国家との関係については、抜本的な見直しを要するように思えます。アマチュア精神を取り戻すのであれば、開催地国民の負担を考慮し、各国持ち回り制度でも成立する程度によりコンパクトで低コストの大会を目指すべきでしょうし、営利追及路線を歩むならば、IOCを完全に’民営化’し、数ある民間興行事業者の一つと見なした上で、全てのコストはIOC負担とすべきではないでしょうか。


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