イタリアのコンテ政権が中国の一帯一路構想への協力を表明し、同国と覚書を交わした一件は、イタリアという国について考えさせられる契機ともなりました。一帯一路構想に隠されている帝国主義的な戦略を見抜けないとしますと、到底、ローマ帝国の末裔とは言い難いのですが、イタリアをかのヴェネツイィア共和国の末裔とみなしますと、今般の行動も合点がゆきます。
ヴェネツィアは、今日ではアドリア海に面するイタリアの一地方都市であり、中世の面影を残す街並みの中を手漕ぎのゴンドラが行き交う‘水の都’として知られる世界的な観光名所ともなっております。しかしながら、君主制が主流であった時代に総督が選挙で選ばれる古代の民主的な都市国家の形態を残す一独立共和国であり(もっとも、選挙制度が存在していたとはいえ、富裕商人が支配する寡頭政治であった…)、地中海貿易の要所に位置したことがその富の源泉でもありました。同国には、東方貿易を商うユダヤ商人やイスラム商人も多数居住し(もっとも、13世紀以降は居住地を制限されましたが…)、さながら海に浮かぶ国際色豊かな‘グローバル都市’の様相をも呈していたのです。
そして、東ローマ帝国、並びに、イスラム系の東方の諸国とも貿易協定を結ぶことで商業上の特権を得たヴェネツィアは、11世紀に始まる十字軍の遠征によっても莫大な利益を得ています。ヨーロッパ各地から聖地へと向かう十字軍に対して食糧や武器等の用立てから宿泊施設の斡旋までの一切を請負い、本業の交易に加えて一種の旅行業のような事業をも担ったからです。かくして、ヴェネツィアは、敵対するキリスト教陣営とイスラム教陣営の両者から利益を巧妙に吸い上げることに成功したのです。
‘戦争ビジネス屋’としてのヴェネツィアの一面は、モンゴル帝国との関係においても見出すことができます。それは、人に知られたくはない黒歴史でもあります。13世紀にチンギス・カーンの孫にあたるバトゥがヨーロッパの征服を企てた際に、ヴェネツィアは、ある事業をモンゴル側から請け負います。その事業とは、キエフ攻略をはじめ次々と中東欧諸国を征服しながら西進し、同地で掠奪や虐殺の限りを尽くしたモンゴル軍が現地で捕虜とした住民を、奴隷=ホワイト・スレーブとして海外に売却するというものでした。ヴェネツィア共和国はキリスト教国の一国であり、連帯してモンゴルと対峙すべき立場にありながら、ビジネス・チャンスを求めてモンゴル側にも接近していたのです。悪名高い奴隷貿易であれ…。
さしものヴェネツィアの繁栄も大航海時代に至りインド航路などが開拓されると急速に失われてゆきますが、今般の中国との間の覚書の締結は、バトゥの征西に際しての同国の振る舞いとどこか重なって見えます。バトゥの征西の道筋を辿るかのように、既に中国と覚書を交わし、同国の前に膝を折る中東欧諸国も少なくありません。そして、G7にも名を連ねるイタリアは、政経両面における中国の脅威が差し迫った現実のものでありながら、同国がもたらす利益に目がくらみ、自ら‘敵方’にすり寄っているように見えるのです。
先日、ユンケル欧州委員会委員長は、中国との関係を見直す方針を示しましたが、近い将来、EUと中国との関係が本格的に悪化した場合、イタリアは、両者の間を上手に泳いで双方から利益を引き出すつもりなのでしょうか。このように見立てますと、イタリアは、ローマ帝国ではなくヴェネツィア共和国の末裔と見なした方が、よほど現状を説明しているように思えるのです。
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ヴェネツィアは、今日ではアドリア海に面するイタリアの一地方都市であり、中世の面影を残す街並みの中を手漕ぎのゴンドラが行き交う‘水の都’として知られる世界的な観光名所ともなっております。しかしながら、君主制が主流であった時代に総督が選挙で選ばれる古代の民主的な都市国家の形態を残す一独立共和国であり(もっとも、選挙制度が存在していたとはいえ、富裕商人が支配する寡頭政治であった…)、地中海貿易の要所に位置したことがその富の源泉でもありました。同国には、東方貿易を商うユダヤ商人やイスラム商人も多数居住し(もっとも、13世紀以降は居住地を制限されましたが…)、さながら海に浮かぶ国際色豊かな‘グローバル都市’の様相をも呈していたのです。
そして、東ローマ帝国、並びに、イスラム系の東方の諸国とも貿易協定を結ぶことで商業上の特権を得たヴェネツィアは、11世紀に始まる十字軍の遠征によっても莫大な利益を得ています。ヨーロッパ各地から聖地へと向かう十字軍に対して食糧や武器等の用立てから宿泊施設の斡旋までの一切を請負い、本業の交易に加えて一種の旅行業のような事業をも担ったからです。かくして、ヴェネツィアは、敵対するキリスト教陣営とイスラム教陣営の両者から利益を巧妙に吸い上げることに成功したのです。
‘戦争ビジネス屋’としてのヴェネツィアの一面は、モンゴル帝国との関係においても見出すことができます。それは、人に知られたくはない黒歴史でもあります。13世紀にチンギス・カーンの孫にあたるバトゥがヨーロッパの征服を企てた際に、ヴェネツィアは、ある事業をモンゴル側から請け負います。その事業とは、キエフ攻略をはじめ次々と中東欧諸国を征服しながら西進し、同地で掠奪や虐殺の限りを尽くしたモンゴル軍が現地で捕虜とした住民を、奴隷=ホワイト・スレーブとして海外に売却するというものでした。ヴェネツィア共和国はキリスト教国の一国であり、連帯してモンゴルと対峙すべき立場にありながら、ビジネス・チャンスを求めてモンゴル側にも接近していたのです。悪名高い奴隷貿易であれ…。
さしものヴェネツィアの繁栄も大航海時代に至りインド航路などが開拓されると急速に失われてゆきますが、今般の中国との間の覚書の締結は、バトゥの征西に際しての同国の振る舞いとどこか重なって見えます。バトゥの征西の道筋を辿るかのように、既に中国と覚書を交わし、同国の前に膝を折る中東欧諸国も少なくありません。そして、G7にも名を連ねるイタリアは、政経両面における中国の脅威が差し迫った現実のものでありながら、同国がもたらす利益に目がくらみ、自ら‘敵方’にすり寄っているように見えるのです。
先日、ユンケル欧州委員会委員長は、中国との関係を見直す方針を示しましたが、近い将来、EUと中国との関係が本格的に悪化した場合、イタリアは、両者の間を上手に泳いで双方から利益を引き出すつもりなのでしょうか。このように見立てますと、イタリアは、ローマ帝国ではなくヴェネツィア共和国の末裔と見なした方が、よほど現状を説明しているように思えるのです。
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