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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

落書き事件に見る”懺悔の国”と”けじめの国”

2008年07月02日 16時24分27秒 | 社会
監督解任厳しさ指摘 伊紙が落書き問題で特集(共同通信) - goo ニュース
 フィレンツェの大聖堂に落書きをした野球部監督を解任したことに対し、舞台となったイタリアでは、行き過ぎた非情な処分との批判があるようです。日本国では、この処分を当然のことと受け取られていますので、両国の物事の捉え方には、相当の違いがあるようです。それでは、何故、同じ行為に対して、こうも両国での反応は違ってしまうのでしょうか。

 おそらく、その背景には、伝統的な宗教観や国民性があるようです。イタリアは、カトリックの総本山バチカンのおひざ元にあり、ヨーロッパの中でも、とりわけカトリック色の強い国です。カトリックの教会では、信者に対して”懺悔”を奨励し、神の前で自らの罪を正直に告白し、反省の態度を示した者にたいして、神は、許しを与えるという教えを説いています。教会に、懺悔室が設けられていることは、よく知られていることです。

 一方、日本国の場合には、罪を犯した者が取るべき態度は、潔く自らの身を処することです。”ハラキリ”で世界に知られる”切腹”も、この文脈で理解できるのであり、特に、当人が責任ある立場にあればあるほど、この要求が高くなるのです。イタリア式に、”本人も反省していることですので、許してあげましょう”ということになりますと、教育者なのに、けじめを付けていない、とか、手ぬるいとか、手厳しい批判を浴びてしまうのです。責任ある者は、罪を犯した場合、潔く自らを処する、これこそ、日本古来の美徳に他なりません。

 落書き事件から、両国の国民性や精神文化の違いが垣間見られ、興味深いところです。そうして、日本社会に、”けじめ”の文化が根付いていることを、改めて感じ入る出来事であったと言えるかもしれません。

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コメント (16)
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