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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

株価暴落はチャンス?

2025年04月08日 11時29分21秒 | 国際経済
 アメリカのトランプ大統領が発動した相互関税は、日本国を含む世界各地で株価の下落をもたらしているようです。1929年の世界大恐慌が第二次世界大戦の遠因として指摘されているように、証券市場での株価暴落は、全世界に大惨事をもたらしかねないリスクがあります。第一次世界大戦後に訪れた未曾有の好景気を背景に発生した証券バブルの崩壊が原因とされ、あたかも、この歴史の流れを当然のことのように捉えがちですが、果たして、ニューヨーク株式市場での株価暴落は、‘歴史の必然’であったのでしょうか。

 マルクス主義の祖であるカール・マルクスは、‘資本家’側の視点から『資本論』を執筆しています。このため、同書には、株価暴落に関する興味深い記述があります。それは、「あらしが過ぎ去れば、これらの証券は、失敗した企業または山師企業を代表するものではない限り、再びその以前の高さに上昇する。恐慌におけるそれらの減価は、貨幣財産の集中のための強力な手段として作用する。」というものです。同記述については、フリードリヒ・エンゲルスが脚注を付しており、この実例として、1848年にフランスで発生した二月革命直後の株価暴落に際しての‘金融資本家’の行動を紹介しています。かのロスチャイルド(おそらくパリ家のジェームス・ド・ロスチャイルドでは・・・)が、スイス商人R.ツヴィルヘンバルトに持ちかけられて、可能な限りの現金を集めて下落した証券を買い漁った様子を伝えているのです(『資本論』第三巻第5篇第29章)。フランスの二月革命と言えば、‘プロレタリア革命’的な色合いが極めて濃いのですが、現実には、‘資本家’にとりましては利益をもたらす千載一遇のチャンスであったことが分かります。

 二月革命から100年を経ずして世界経済を破産させた上記の世界恐慌につきましても、多くの人々を失業者とし、奈落の底に突き落としつつ、最も利益を得たのは‘資本家’であったとされています。否、金融市場における独占を狙って、金融・経済財閥が暴落を仕掛けたとする説もまことしやかに囁かれており、上述したロスチャイルドの行動からしますと、この説も強ち否定はできなくなります。株価暴落によって、‘投機家’や借入金で株の売買をしている一般の人々、そして、資金力に乏しい中小の‘資本家’は、破産を余儀なくされるほどの大きな損失を被りますが、潤沢な資金力を持つ‘大資本家’は、これらの人々が先を競って手放した株を買い占めることができるからです。

近年では、バブル崩壊によって破綻した金融機関の救済を理由として、大手が中小を合併する大規模な金融再編が行なわれていますので、放出株式の買い取りのみならず、救済措置としての金融機関の寡占化も進んでいます。そして、今日、全世界の人々がマネー・パワーを‘独占’するグローバリストの支配欲に晒される事態に陥ったのも、株価暴落という‘バーゲンセール’にあって、同勢力が、すかさず買い占めをおこなうことができる‘特別な立場’にあったからなのでしょう。

 こうした株価暴落人為説につきましては、もちろん、厳正なる検証を要するのですが、証券市場にあって暴落が発生したり、しばしば不正な価格操作が行なわれるのは、その価格決定の仕組みにも問題があるからなように思えます。市場での株式の価格は、証券会社を介しつつも、最低価格を提示した売手側と、最高価格を提示した買手側との間で成立した値となります。言い換えますと、極めて少量の取引であったとしても、同取引が株式の価格を決定してしますのです。こうした価格決定の仕組みですと、意図的に売り注文や買い注文を出すことによって、価格を容易に操作することができます。そしてそれは、他の市場参加者に対して投機的な売買を誘導するバンド・ワゴン的な効果を持ちますので、証券市場では、バブルやその崩壊が発生しやすいのです。しかも、バブル崩壊は、株式取引に無縁な一般の人々をも巻き添えにするのですから、罪深いお話なのです。

 証券システムについては、株主の権利が強すぎ、かつ、企業買収の手段(‘人身売買’にも似た法人格を持つ主体の売買・・・)や‘植民地化’のリスクという大問題もあり、抜本的な見直しを要するシステムでもあります。何れにしましても、株価が実体経済に影響を与えるべきではなく、ここは、冷静なる対応が望ましいように思えます。そして、関税の復活が投資家心理のみならず、実際に企業の業績にマイナス影響を与えているならば、むしろ、危機をチャンスとする発想は、一般の国民や企業にこそ持つべきなのかも知れません。今後の展開を予測すれば、貿易依存度を下げ、国内経済を強化する政策こそ、グローバリズムが終焉を迎えつつある今日、日本国に必要とされる政策なのではないかと思うのです。

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グローバリストと共産主義者との世界観の共有

2025年03月20日 12時08分07秒 | 国際経済
 19世紀にあってカール・マルクスが科学的に分析したとされる経済システムとは、結局は、大英帝国の絶頂期にあってイギリスが直面したそれ固有の経済・社会状況を対象としたものに過ぎませんでした。このため、マルクス主義をもって人類共通の普遍法則を主張することはできませんし、そもそも、マルクス自身の個人的な背景に基づく世界観が強く反映されているとも言えましょう。そして、同氏自身が富裕なユダヤ系の所謂‘ブルジョア’であった点を考慮しますと(ロンドンにあって、マルクス自身は、ヴィクトリア時代の上流の典型的な生活様式を楽しんでいた・・・)、それは、当時の資本家達の世界観でもあったとも推測されるのです。言い換えますと、マルクスは、資本家の視点から労働者を捉えているのであり、決して、労働者のそれから資本家を観察したわけではないのです。

 それでは、マルクスが捉えた労働者とは、どのような存在であったのでしょうか。『資本論』には、以下のような記述があります。

「その商品の使用価値自身が、価値の源泉であるという独特の属性をもっており、したがって、その実際の消費が、それ自身労働の対象化であって、かくて、価値創造であるというものでなければならぬ。そして貨幣所有者は、市場でこのような特殊な商品を発見する-労働能力または労働力がこれである(『資本論』第1巻第2篇第3節)」。

回りくどい表現なのですが、貨幣経済の発展を背景に貨幣が資本、即ち、商品生産事業資金として用いられるようになると、資本家は、利益を永続的にもたらす好都合な存在を発見したと述べています。生産する商品を消費してくれる上に剰余価値をも生み出してくれる労働力こそ、この好都合な存在であったとしているのです。かくして、資本家は、‘自由なる労働者’の労働力を市場で買い取る一方で、労働者の側は、自らの労働力を市場で売るしか自らの生命や生活を維持できない存在となり、いわば商品化されます。言い換えますと、資本家にとりましては、自己保存のために生産も消費もしてくれる労働者ほど、利益を生み出す商品はなかったことになります。こうした資本家の世界観は、他者の人格のみならず基本権さえ軽視する今日のグローバリストにも脈々と受け継がれているとも言えましょう。

 マルクスが書き残した著書の数々は、当時の‘資本家階級’の社会観や世界観を広く伝えるという意味において証言的な価値があるのですが、マルクス主義が多くの労働者を惹きつけ、資本家や資本家階級、あるいは、資本主義国に対する暴力を是とする勢力を結集させ、対立と分断の作用をもたらした点を考慮しますと、そこには深慮遠謀があったように思えます。何故ならば、先ずもって労働者がマルクスの主張を支持し、共産主義者となることは、資本家の世界観を受け入れることでもあるからです。

 マルクス主義における階級間の対立軸は、搾取する側と搾取される側の間に設定されています。言い換えますと、マルクス主義の‘信者’である限り、常に自らを暴力をも是認する階級闘争の場に置くこととなるのであり、攻撃の対象も、常に敵認定された特定の‘適性階級’とならざるを得ないのです(人間関係も、敵か味方かで判断され、社会が分断されてしまう・・・)。このことは、労働者が、自らを人格を持たない商品であるとする自覚とその前提の下で生きることを意味しており、自ずと自己を卑下するメンタリティーを染みこませるのです。そして、資本主義の抱えている問題、即ち、‘資本家’達の世界観に起因する非人間的な経済システムに関する問題を解決するに際して、その解決策は、共産主義革命の一拓しかなくなってしますのです。言い換えますと、資本家から与えられた思考枠組みの中でしか、自らの行動を選択することができなくなるのです。

 このように考えますと、目的のためには手段を選ばないマルクス主義は、むしろ民主的制度の発展にとりましては阻害要因でしかありません。否、労働者を革命の方向に誘導し、健全で公正な経済システムの構築や民主化を阻止することこそ、真の目的であったのかもしれないのです。そして、グローバリズムとマルクス主義との表裏一体性の問題は、今日、なおも尾を引いてるように思えます。新自由主義と共産主義の類似性が指摘されているように、人類にとりまして最も危険な存在とは、‘共産主義者のグローバリスト’かも知れないのですから(つづく)。

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グローバリストと共産主義者との共闘関係

2025年03月19日 11時42分10秒 | 国際経済
 カール・マルクスは、文化・文明の証とも言える人類の思弁的な精神活動、即ち、学問、芸術、宗教等よりも、生物としての人類の営みを重視し、それ故に、現実としての経済メカニズムの分析と解明に没頭しました。同方針に基づけば、研究生活の集大成ともなる『資本論』は、実学の書となるはずでした。しかしながら、政治の世界にあって、‘資本主義陣営’と‘共産主義陣営’が鋭く対峙した冷戦がイデオロギー対立とも称されたように、今日では、共産主義は、マルクスが軽視したはずの思想や価値観の問題として見なされています。それでは、何故、こうした‘倒錯’が起きてしまったのでしょうか。

 その第一の原因は、マルクス、並びに、マルクスの支援者の真の目的が、表向きとは別のところにあったからなのではないでしょうか。昨日の記事の結論部分でも述べたように、二頭作戦を容易にするための対立軸の形成(階級闘争)及び社会の分断を引き起こすことが、隠された目的であったように思えるのです。何故ならば、マルクスが初めて‘発見’したとされる経済のメカニズムには、明らかな誤りが認められるからです。つまり、分析に間違いがありますので、現実との間に齟齬が生じるのは当然のことであり、結局、マルクス主義は、現実離れした思想、すなわち、イデオロギーとならざるを得なかったのです。

 『資本論』は極めて読みづらい難解な文章で知られているのですが、むしろ、この難解さは、マルクス主義の誤りを煙に巻くためであったとも推測されます。同書を理解できないとして嘆く必要はなく、マルクスの説を正しいと認めることは、ジョージ・オーウェルの『1984年』に登場するダブル・シンキングのようなものです(思考トレーニングにより、偽を真と思い込まなければならない・・・)。何れにしても、数ページの説明で済みそうな内容を難しい用語をもて迂回に迂回を重ねながら書き進めているのですから、その目的は、読者を出口のない迷宮に誘い込み、分析の誤りを誤魔化すためであったとしか考えられないのです。

 かくして『資本論』の冗長な文章表現にはマルクスの意図的誘導が疑われるのですが、特定の部分だけはとりわけ明瞭に書くことで、読者の脳裏に強いインパクトが残るように仕組まれています。その特定の部分、即ち、同書によってマルクスが発信した強いメッセージとは、‘労働者は、資本家に搾取されている’というものです。剰余価値を生み出しているのは、唯一、一定時間の不払い労働を強いられている労働者であり、これは搾取である、とする主張です。労働者から吸い上げた剰余価値が資本の蓄積をもたらし、新規事業や事業拡大をもたらす資本の再投資をも可能としているのですから、資本主義体制とは、労働者搾取体制ということになります。

 かくして、マルクス自身が執筆し、生前に出版された『資本論』の前半部分にあっては労働者搾取が強調されているのですが、マルクスの死後にその遺稿をフリードリヒ・エンゲルスが編集して出版した第二巻以降の後半部分では、労働者搾取の側面が薄れてゆきます。そして、同後半部分では、銀行システム等を介した信用制度による信用創造の作用や土地の生産性の違いによって生じる超過利潤について述べており、資本の蓄積や再投資が労働者からの搾取のみから生じるものではないことを認めています。前半と後半とでは記述に矛盾がありますので、もとよりマルクスは、後者については公表するつもりがなかったものを、エンゲルスがうっかり出版してしまったのかもしれません(あるいは、エンゲルスは、マルクスの誤りを暗に知らせたかったのかもしれない・・・)。しかも、第三巻では、「資本―利子、土地-地代、労働-労働賃金は、これは、社会的生産過程の一切の秘密をひそめている三位一体の形態である。」とも述べ(第七篇第四八章)、‘三位一体の定式’としていますが、この表現、どこか宗教がかってもいるのです。

 マルクスは、倒錯や矛盾という言葉を好んで使いますが、『資本論』もまた、倒錯や矛盾に満ちているように思えます。しかしながら、執筆の目的が、階級闘争、否、二頭作戦の準備であるならば、こうした矛盾や倒錯は詭弁をもって誤魔化せればどうでもよかったのでしょう。そして、現実の歴史は、内外両面にあってイデオロギー対立を先鋭化し、人類を分断する方向へと進んでゆくのです(つづく)。

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大英帝国の天国と地獄-自由貿易体制の悲劇

2025年03月18日 11時39分38秒 | 国際経済
 19世紀中葉、イギリスは自国を中心とした自由貿易体制の絶頂期を迎えます。セポイの反乱後の1858年に東インド会社が解散され、最終的にインドがヴィクトリア女王に献上されたのは、同社の残務整理が完了した1877年のことです。かくしてイギリスはその版図を全世界に広げ、1931年にウェイストミンスター憲章の下でイギリス・コモンウェルスに衣替えするまで、大英帝国は栄華の時代を歩み続けてゆくのです。

 大英帝国の最盛期は、同帝国に君臨したヴィクトリア女王の名に因んでヴィクトリア時代とも称されています。同時代に培われた文化は、今日までイギリスに典雅で優美なイメージを与えてきました。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を読みますと、誰もがヴィクトリア朝の生活様式のエッセンスに触れることができます(もっとも、同作品は、キャロルの批判精神が込められた風刺的作品であったとも・・・)。挿絵の入った絵本やかわいらしい子供服、きちがい帽子屋さんの賑やかなティーパーティー、白ウサギが布告する法廷、ハートの女王が主催するクリケット大会などなど・・・。イギリス人は身なりをスマートに整え、礼儀正しく、道徳心の高いジェントルマンであるとするイメージも、ヴィクトリア時代に求めることができましょう。そして、ロンドンには、今日でもヴィクトリア時代の名残をとどめる壮麗な街並みが残されています。

 まさしく‘一等国’というイメージなのですが、同国の繁栄の原動力となったのが、産業革命を背景とした自由貿易体制であったことには異論は殆どないことでしょう。機械化により工場における大量生産が可能となり、手工業品に対して圧倒的な価格競争力を備えたからこそ、イギリス製品が世界の市場を席巻することとなったのです。‘国際競争力なくして大英帝国なし’と言っての過言ではありません。そしてこの歴史的な事実は、今日にあっても自由貿易体制に対して、根本的な疑問を投げかけています。自由貿易体制とは、強者必勝の体制であって、リカードが貿易関係にある二国間に財モデル説明した互恵関係は、極めて限定された条件の下でしか成立しないからです(つまり、殆どの国家間の貿易関係が、同モデルには当て嵌まらないこととなる・・・)。

 その一方で、圧倒的な競争力を持つイギリス製品の大量流入により、世界各地にあって伝統産業が壊滅状態に追い込まれるのですが、繁栄を極めたはずのイギリス国内に視線を転じますと、そこには、海外にも負けず劣らずの悲惨な状況を見出すこととなります。それは、上述したヴィクトリア時代の‘上流階級’や‘中流階級’が洗練された優雅な生活とは対局にあるような、非人間的な生活が営まれていたのですから。

 カール・マルクスが『資本論』を世に送り出した真の目的は、労働者を救うためではないのでしょうが、同書には、当時の労働者階級が置かれていた凄惨を極める生活環境に関する記述があります(岩波文庫の『資本論』では第二巻に当たる・・・)。当時、議会報告等の目的で作成された調査結果の内容を紹介する形ですので、マルクスが意図的に脚色したり、捏造したわけではないようです。同ページに記された状況は、‘世界残酷物語’と見紛うほどであり、およそ本ブログに書くのも憚られるほどなのです(植民地の人々の方が、まだ‘まし’ではないかと思うほど・・・)。しばしば、大英帝国については、‘光と影’があると言われてきましたが、このような生やさしい表現ではなく、むしろ‘天国と地獄’の対比に近いのです。

 それでは、共に大ブリテン島に住みながら‘天国と地獄’という、二つの世界が何故生じてしまったのでしょうか。その理由も、当時の自由貿易体制に求めることができましょう。自国民の需要を超えて全世界の市場に対して輸出しようとすれば、莫大な量の製品を製造しなければならないからです。とかくに大英帝国のまぶしさに目がくらみがちなのですが、当時のイギリスの労働者の実態は、自由貿易体制というものが、その中心国にあってさえ必ずしも全ての国民を幸せにはしないことを実証する、歴然とした実例とも言えましょう。

 過去の人類の歴史を真摯に見つめなおしますと、今日のグローバリズムに対しても、最大の受益者となる少数のグローバリストやその取り巻きの組織や人々の恩恵のみをもって、同政策の是非を判断することには慎重であるべきように思えます。そして、この二極化の歴史は、自由主義と共産主義という二つの極端な思想こそが、内面にまで入り込んだ人類のコントロールを画策してきたグローバリストの二頭作戦、あるいは、国民分断作戦の一環であったとする疑いを強めてゆくのです(つづく)。

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日本国のお米輸出政策は無理では

2025年03月14日 10時20分20秒 | 国際経済
 農産物につきましては、工業製品とは違い、輸出量が、即、国内の供給量を減少させるというゼロ・サム問題があります。工業製品の場合、海外への輸出は生産量を増加させるに過ぎませんが、農産物の場合には、国内の農地面積、即ち、生産量が限られていますので、輸出を優先しますと、国内での国民向けの供給量が減ってしまうのです。この結果、国内消費の需要が満たされなくなり、需給のバランスの変化により価格が上昇します。価格が上昇すれば、国民の生活が苦しくなるのですから、国民生活の安定を考慮すれば、農産物の輸出には、細心の注意をはらうべきことと言えましょう。政府は、工業製品のように輸出を奨励したり、促進策を講じるわけにはいかないのです。

 ところが、にわかには信じられないことに、昨日のネットニュースの情報によりますと、日本国政府は、今後の方針としてお米の海外輸出を増やすというのです。2030年までの輸出目標数は35万トンということですので、日本国の米生産量の凡そ5%に当たります(近年の年間の生産量は凡そ700万トン・・・)。今般の異常なまでの米価高騰に際しては供給量の不足が指摘されていますので、これ程の量のお米を輸出すれば、当然に、国内にあって供給不足が生じるおそれがあります。米価の高止まりや、さらなる値上がりのリスクを十分に認識しながら同方針を決定したとしますとこれは悪質であり、日本国政府は、堂々と棄民政策あるいは国民窮乏化政策を遂行しているとしか言い様がなくなります。米価の先高感を維持するためであれば、先物市場等に投資している内外の投機筋に配慮しているとも推測されましょう(好意的に捉えれば、米価暴落を予測して「売りヘッジ」に転じた投機筋の目論見を外すため?)。

 その一方で、今般の米価高騰の供給不足原因説に対しては、減反政策を指摘する声もあります。減反政策は2018年に終了したものの、その後は他の作物への転作が奨励され、補助金も支給されているため、実質的な減反政策の継続が今般の供給不足を招いているとする説です。このため、先ずもって増産を目指すべきであり、需要を超える余剰が発生すれば、輸出すればよいとしているのです。

 果たして、政府の方針、並びに、今般の米価高騰を背景とした輸出強化策は、日本国民を救うのでしょうか。最悪の場合には、輸出優先により供給不足を一層悪化させる事態も想定されるのですが、先ずもって考慮すべきは、自由貿易主義に従えば、日本国からのお米の輸出はダンピングに当たる点です。国内価格よりも低価格で海外に輸出する行為は、不公正な取引としてWTOのルールの違反となるのです。自由貿易主義体制では、関税も、政府の補助金も、ダンピングも、皆、自由を阻害する‘悪’なのです。それでもなおも輸出を目指すならば、日本国の米価は、国際市場での標準価格まで輸出価格を落とす必要があります。これは、殆ど、無理なお話となります。ジャポニカ米の価格だけを見ましても、諸外国の3倍以上、今日の小売価格で比較すればおそらく数倍以上もの開きがあるのですから。

 政府が内外の差額を補助金として支給する方法もありましょうが、これでは多額の予算を費やしてしまい、国民にとりましては高値の米価に加えて税負担まで背負わされてしまいます。輸出向けに栽培する米農家や海外の消費者が恩恵を受けても、国内の消費者の不満は高まるばかりとなりましょう。米作は基本的には国内向けとする一方で(食用、加工用、飼料用、バイオエネルギー用・・・)、経営困難な農家に対しては直接に補助金を支給した方が、農家も一般消費者も助かります。否、日本国が真に民主主義の国であれば、後者を選択することでしょう。

 もっとも、国際米市場は、品種毎に取引されているため、ブランド米であれば高値でも買い手が現れます(大阪堂島商品取引所の先物取引もブランド別・・・)。そもそも、日本産コシヒカリが国際市場で売買されている現状が、既に輸出に向けた動きが始まっている証左なのですが、このことは、高級ブランド米であれば、日本産米も国際市場で勝負できることを意味しています。仮に、日本国政府が、農政の最優先課題を輸出拡大に定めているとすれば、グローバリストのモットーは‘選択と集中’ですので、米作は、内外の富裕層向けのブランド米の生産に絞り込むと共に、海外からの投資を呼び込みつつ、規模拡大を目指して農地集約を推し進めることでしょう(米作地の縮小と経営規模の拡大・・・)。また、お米の加工食品としての輸出であれば、ダンピング批判を逃れることができますので、政府が、’パックごはん’を強調するのは、非ブランド米を生産している米作農家に対して、輸出事業への協力を求めているのかもしれません。

 今日の日本政府がグローバリストの傀儡であると想定しますと、今般のお米をめぐる一連の出来事や政策方針も説明が付きます。しかしながら、政府の方針が、国民の多くが望む方向性であるのか、と申しますと、それは違うように思えます。水田に稲穂が靡く日本国の農村の風景は一変し、高い米価に悩まされる、あるいは、一般の国民は安価な輸入米を食せざるを得なくことになるのですから。そして、農家も、思わぬ事態に直面するかも知れません。お米の最大輸出国であるインドが輸出規制を解除した途端、タイといった他のお米輸出国の米価が急落したように、日本国のお米も世界市場に一端組み込まれますと、常に他国の作柄や輸出状況の影響を受けることになるからです。水産物を含めた農産物、とりわけその国の主食や国民の食卓に日常的に上る食材となる産物に関しては、国民生活の安定のために、国際レベルにあっても‘地産地消’を基本とすべきではないかと思うのです。

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食料も独立性が重要

2025年03月04日 13時08分25秒 | 国際経済
 今日の自民党と公明党から成る日本国政府は、グローバリストにして自由貿易主義原理主義者でもあります。国境の壁をできるだけ低くする作業に邁進しており、遂に、最期の砦とも言えるお米の保護まで放棄するに至っているかのようです。果たして、この方向転換は、日本国民の望むところなのでしょうか。

 戦後、GATT(「関税及び貿易に関する一般協定」)の下でアメリカを中心とした自由貿易体制の構築が始まった時点では、農産物は、自由化の対象には含まれていませんでした。関税引き下げの対象が農産物にまで及んだのは、1964年5月から1967年6月までの足かけ3年を費やして合意に至ったケネディ・ラウンドでのことです。農産物への対象拡大の背景には、小麦やとうもろこし等の大生産国であるアメリカをはじめとした穀物輸出国の後押しがあったことは疑いようもありませんが、この時から、全てのGATT加盟国、即ち、今日のWTOの加盟国の農家は、それが未だに潜在的なものであれ、国際的な競争圧力に晒されることとなるのです。

 もっとも、同ラウンドでの合意によって日本国政府が、即座に関税措置を設けたわけではありませんでした。暫くの間は、お米に対しては‘国境措置’を維持し、事実上の米輸入の禁止措置を続けます。しかしながら、この禁輸措置も、1994年に妥結したウルグアイ・ラウンドの合意で放棄せざるを得なくなります。同合意により、農産物の例外なき関税化が決定されたからです。当然にお米にも関税率を設定しなければならなくなるのですが、同ラウンドの交渉過程で日本国政府が求めたのは、お米に対する高関税率を認めてもらう代わりに、一定量のお米を海外から輸入するというものあったのです。

 その一方で、保護政策を継続したのは、日本国のみではありません。自由化を推進した側の農業政策を見ますと、手段こそ違いがあれ、農家に対して手厚い保護を実施しています。例えば、海外からの安価な穀物輸入による農業危機に直面したEUでは、CAP(共通農業政策)と呼ばれた食管制度に類似する保護政策を長期に亘って行なわれてきており、CAP改革後の今日では、農家に対する直接補償制度が実施されています。また穀物輸出大国であるアメリカを見ますと、農産物の輸出促進のための補助金が給付されてきました(この場合には、ディフェンシブではなくオフェンシブな農業支援・・・)。もっとも、2014年には同補助金制度が廃止されたものの、WTOのルールが緩い輸出信用保証等によって農家の利益を護っています。何れも関税に代替する手段にもって域内や国内の農業を保護・育成しているのであり、農業を重視する姿勢に変わりはないのです。

 ところが、日本国政府の近年の農政を見ますと、頓にちぐはぐさが目立ってきています。2020年3月には、日本国政府は、農林水産物の輸出を10年間で五倍に増やす目標を設定し、輸出志向への転換を図るのです(1兆円から5兆円へ)。今日、日本国内では米価高騰が国民生活を圧迫する中、アメリカをはじめ海外において日本米の安値販売が目撃されているのも、政府の輸出政策の結果でもあるのでしょう。また、今般の米価高騰を追い風にして、日本国政府は、関税率を引き下げ、小麦消費の拡大に伴う小麦の輸入のみならず、お米の輸入量拡大を狙っているとも推測されます。

 しかしながら、食糧自給率が極めて低い状況にありながら、輸出促進政策をとりますと、国内において価格上昇が起きるのは、当然、予測はできたはずです。供給が減少するのですから、需給のバランスからすれば価格は上昇してしまうのです。日本国政府は、農家の増収や新たな販路開拓として輸出推進政策を正当化するのでしょうが、その一方で、マイナス影響を受けるのは、一般の消費者です。食料品価格が上がり、国民の生活は苦しくなるのですから、一部の輸出用農産物を生産している農家等を除いては、マイナス影響の方が深刻なのです。アメリカもEUも、農産物の生産量に余剰があるからこそ、輸出支援政策を実施できるのであって、食料が自給できない日本国が同様の政策を実施しますと、結果として国民が犠牲になるのです。

 日本政府による減反政策、輸出推進政策、流通の自由化、先物市場の開設、そして、JAの巨額損失といった米価高騰の要因が揃っているのですから、価格支配を狙うグローバリストや抜け目のない投機筋から見ますと、これをチャンスと見ないはずはありません。否、グローバリストのマネー・パワーからすれば、背後から日本国政府を同状態に誘導することも不可能ではないのでしょう。かくして、大阪堂島商品取引所での先物市場の開設が欲望に火を付けたかの如く、日本国は‘令和の米騒動’に見舞われることとなったのではないでしょうか。

 政府が備蓄米の放出を行なっても、目下、危機的な状況は続いています。この問題は、日本国政府による輸出拡大政策にも見直しが必要であると共に、農産物の輸出入に関する新たな国際的な合意を要することをも示唆しています。少なくとも、各国とも、基本的には自給自足を可能とする状況を整えた上で、特産物や過剰農産物に関してのみ、通商の対象とすべきように思えます。国際分業を伴うグローバルな農産物市場の形成と、そこにおける価格形成の主導権を握ることで、永続的に利益を吸い上げることがグローバリストの目的であるならば、なお一層、各国ともに自国の食料自給率の向上に努めるべきではないかと思うのです。

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堂島商品取引所に見るグローバリストの価格形成主導権掌握の狙い

2025年02月28日 13時31分00秒 | 国際経済
 今般の米価高騰につきましては、誰もが真相に行き着くことができないような迷路めいた状況にあります。煙に巻かれているかのようですが、米価高騰との直接的な関連性については曖昧であるものの、一つだけ、はっきりしていることがあります。それは、昨年8月に大阪堂島商品取引所にて本格的に始動した米の先物取引が、日本国民にとりましては、特に食の安全保障上極めて危険な存在であると言うことです。

 大阪堂島商品取引所は、2021年に株式会社化するに際してSBIホールディングスが株式の凡そ3分の1を占めるSBI系取引所として発足しています。いわば、民間の株式会社なのですが、政府との関係が皆無なわけではありません。何故ならば、同取引所は、2020年に管内閣が内外に向けて公表した「国際金融都市構想」に組み込まれているからです。香港が中国に飲み込まれた現状に鑑みて、日本国の東京、大阪、福岡をアジアの金融センターに育てようとする構想です。この流れにあって、大阪府並びに大阪市も「大阪国際金融都市構想」を策定し、2021年8月には、大阪府と大阪市は、SBIホールディングとの間に事業提携協定も締結されるのです。

 こうした大阪堂島商品取引所をめぐる一連の動きからは、金融グローバリスト、日本国政府、大阪維新の会、SBIホールディングスを繋ぐラインがうっすらと浮かび上がってくるように思えます。SIBホールディングス側の構想は、同取引所を、大阪と神戸に誘致する「クロスボーダー型」の金融センターの中核に据えるというものであり(‘アジアにおけるクロスボーダーハブ型市場’)、将来的には、排出権や暗号資産などの取引も目指しています。実際に、同取引所の設立に際しては、アムステルダムを本拠地とするオランダの証券会社、オプティバーも出資しているのです(アジアでは、2005年以降に台湾、香港、シンガポールでも事業展開・・・)。

 江戸時代にあって世界に先駆けて堂島では米の先物取引が行なわれたため、堂島商品取引所の名称の響きからから受ける印象は日本的です。ところが、その実態を見ますと、極めて‘グローバル色’が強いのです。この文脈からしますと、同取引所における米先物取引の開設も、日本国の米作農家のリスクヘッジ、即ち、収入の安定を目的としているとは思えないのです。

 このように推測される理由は、同取引所で新たに発足した米先物取引の仕組みが海外向けであるからです。例えば、試験上場の期間には現物の受渡しが要件とされていましたが、昨年8月から始まる新制度では、同要件は削除されています。この変更には、重要な意味があります。何故ならば、受渡し条件がなくなったことで、同取引市場は、海外の投資家や金融機関等が容易に参加できるようになるからです。受渡しが条件ともなれば、輸送コストや保管コストもかかりますので、海外勢にとりましては高い障壁でした。そして、ここに、この受渡し義務のない取引とは、一体、どのような権利であるのか、という疑問を湧いてくるのです。

 同先物市場は、農家のリスクヘッジを表向きの設立根拠(存在意義)として強調してきましたので、当然に、農家の側は、自らが生産したお米を将来の限月において契約相手に売却し、引き渡すものと考えられがちです(本ブログの記事でも・・・)。SBI証券をはじめ、お米の先物を扱う証券会社のみに受渡しが免除されていると推測していたのです。ところが、仮に、農家も証券会社を窓口にして先物取引に参加するのであれば、受渡し義務を負わないこととなります。つまり、所有権の移転が伴わない、売買の権利だけが取引されていることになり、全くもって農家にとりましてはリスクヘッジにはならないのです。

 しかも、受渡し義務が解除されたためか、前もって証拠金を納めれば、驚くべきことに同額の50倍のお米を取引(買う)ことができます。シカゴ商品取引所でも、凡そ20倍程度にも拘わらず・・・。仮に1万円の証拠金を預託すれば、50万円分の売買が可能となり、利益も50倍となります。価格が2倍にでもなれば、取引手数料等が差し引かれるものの、レバレッジ(梃子)の効果が働いて1万円が凡そ50万円近くにも膨れ上がるのです。つまり、倍率が高いほどギャンブル性が高く、かつ、一刻千金を夢見る世界中の投機家達を呼び寄せることになりましょう。

 これまで、農協は、先物取引に伴う集荷量の減少に加え、先物取引のギャンブル性を根拠として同市場の開設に反対してきたのですが、ここで再び驚かされるのは、2024年6月に堂島商品取引所の社長に就任したのが、農林中央金庫出身の有我渉氏であったことです。同氏が堂島商品取引所に入社したのは2024年2月のことであり、農林中央金庫は巨額損失の発生で揺れていた時期とも考えられます。同人事は、米先物取引市場開設に対する最大の抵抗勢力となってきた農協の反対を抑えるための露骨なまでの布石なのでしょうが、巨大機関投資家でもある農林中金との癒着も見受けられるのです。

 大阪堂島商品取引所における米先物取引市場の開設の経緯は、日本国の食料の安定性が、巨大なマネー・パワーをもって、日本国のお米を含む全世界の産物の価格形成に対して主導権を握りたいグローバリストによって蝕まれている現状を表しているように思えます。米価高騰の底流で何が起きているのか、日本国民は、これを鋭く見抜くべきではないかと思うのです。

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先物取引と‘未来操作’

2025年02月21日 10時17分10秒 | 国際経済
 目下、米価の高騰に国民の多くが憤っている最大の理由は、‘悪徳業者’によって価格操作が行なわれているからに他なりません。お米をため込んだり、転売するだけで利益を得ているのですから、生産者並びに消費者の怒りを買うのは当然のことです。米価が2倍にも跳ね上がったにも拘わらず、日本国政府の対応は後手後手であり、「買い占め等防止法」が存在しながら、これを適用しようともしていません。政府やマスメディアの不審な行動の背景には、常々、グローバリストの陰が見えるのですが、今般も、米先物取引との関連性が強く疑われるのです。

 先物取引という言葉は、一般的には馴染みが薄いのですが、人類史を振り返り、かつ、何故、今日、グローバリストが強大なるマネー・パワーを有するに至ったのかを考えますと、その重要性が自ずと理解されてきます。それは、先物取引、即ち、その本質とも言える‘未来の結末’に対する賭けが、莫大な利益を生むからです。例えば、今日、グローバリストの代表格とも言えるロスチャイルド財閥が巨万の富を得たのは、ナポレオン体制に終止符を打ったワーテルローの戦いにあって、逸早く‘未来の結末’を知り得たからです。「ネイサンの逆売り」と呼ばれるネイサン・ロスチャイルドの作戦は、自らの情報網からイギリス勝利を知りながら同国の国債(コンソル公債)を大量売却し、市場における同債権の投げ売りを誘発した後に、これらを安値で買い漁った上で、イギリス勝利によるコンソル公債暴騰で大儲けをする、というものでした。

 同事例に留まらず、‘未来の結末’が分からない戦争もまた、先物取引的な要素があり、戦時国債の売買にはギャンブル的な一面があったことには留意すべきです。そして、上述した「ネイサンの逆売り」は、‘未来の結末’を知っていた者には、確実に利益が転がり込むことを示しています。つまり、それは、既に‘賭け’ではなく、謀略の舞台となるのです。この点、昔ながらのサイコロを用いるルーレットなどの方が、余程、偶然の運に任されていると言えましょう。何らの人為的な操作を施す隙がなく、一瞬において勝敗が決まるからです(もっとも、ずる賢いプロのギャンブラーは、サイコロに細工を加えて勝敗率を操作したとも・・・)。

 そもそも、ギャンブルや投機とは、一分一秒でも未来における変化に賭ける行為であり、この側面においては、スポット取引も先物取引も変わりはないのですが、先物取引には、未来を操作するだけの十分な時間が用意されるという違いがあります。ワーテルローの戦いにあっても、ロスチャイルド財閥がその潤沢な資金力をもってイギリスを支援すれば、‘未来の結末’を裏側から操作できたはずです。日本国も、日露戦争に際してジェイコブ・シフ(クーン・ローブ商会)に戦時国債を引き受けてもらっていますが、同戦争での日本国の勝利は、日英同盟を背景としたイギリスの隠密支援が功を奏したとも指摘されていますので(バルチック艦隊の航行を邪魔する・・・)、ユダヤ系金融にとりましては、戦争、とりわけ、‘逆張り’ともなる敗北予測国側の勝利は、一刻千金の利益獲得のチャンスなのでしょう(その後の国債の償還や利払いを考えれば、日本国は、シフにそれ程恩義を感じる必要はないのかも知れない・・・)。

 戦争もまた‘賭け’の対象となったとき、人類は、人為的な‘未来操作’のリスクにも直面することとなります。しかも、この脅威は今日あってもなくなったわけでなく、今般の米価高騰をはじめ、ウクライナ戦争を機とする石油価格や穀物価格の操作疑惑など、様々な場面において同様の‘投機ビジネス’が繰り返されているようにも思えるのです。ヘッジ・ファンドは世界各地でビジネスチャンスを狙っていますし、不可解な出来事や現象の背景には、金融筋の不穏な動きも見え隠れします。そして、巨大地震の発生予測をはじめ、しばしばメディア等で紹介される予測や予言とは、‘未来操作’の一環であるかも知れないのです。

 このように考えますと、先ずもって、人類は、先物取引の存在意義を根底から問い質す必要がありましょう。そして、少なくとも農産物やエネルギー資源等、人々が生活する上で必需品となる品目に関しては、先物取引市場を閉鎖すべきなのではないでしょうか。大多数の無辜の人々が犠牲となる‘未来操作’のリスクから逃れるためにも。

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米先物取引の中国対抗論への疑問

2025年02月20日 10時40分51秒 | 国際経済
 昨年の2024年8月から大阪堂島商品取引所で始まったお米の先物取引については、今日、報道が規制されているためか、国民の多くはその存在を知りません。しかしながら、その影響力を考慮しますと、先物取引の問題は、‘グローバリストの視点’を想定しますと看過できないように思えます。

 農産物の先物取引市場での相場は、価格形成のみならず、将来の作付面積や生産量に対しても多大な影響を与えます。仮に、先物相場での価格が上昇すれば、農家は、当該作物を作付する面積を増やしたり、生産量を拡大するなど、増産の方向に動きます。逆に、先物相場が下落しますと、農家は、その反対の行動を採るからです。もっとも、農家が一斉に同じ方向で作付け期に生産量を調整しますと、数ヶ月から1年後の収穫期には過剰生産による暴落が起きたり、供給不足によって価格暴騰となる事態もあり得るわけですから、必ずしも農家のリスクがヘッジされるとも限りません(この需給調整の側面からも、先物取引の存在意義はますます怪しくなる・・・)。その一方で、この側面は、先物市場に資金を投じる‘投機家’や金融筋にも、自己利益拡大のために需給調整を行なう動機があることを説明するのですが、先物市場の相場が、当該作物を生産する全ての農家や原材料として調達する食品会社、延いては消費者にまで広く影響を与えている現状は、事実としてあることはあるのです。

 実際に、穀物各種の国際価格については、小麦やトウモロコシ等の大生産国であるアメリカでは、農業地帯を背景に中西部のイリノイ州のシカゴ市に、逸早く農産物の先物市場が開設されています(最初の商品は、1898年に始まったバターと卵の先物取引・・・)。今日、シカゴ・マーカンタイル取引所での相場は、将来的な穀物市場の国際的な価格指標として用いられており、アメリカ国内のみならず、その他の諸国の農産物価格や生産量等にも影響を与えているのです。

 シカゴの先物市場の先物価格が国際価格指標と見なされるのは、その取引量の多さに寄ります。この側面に注目して主張されているのが、日本国内での米先物取引の推進論です。実のところ、2019年8月に、中国大連において既にジャポニカ米の先物市場が堂島に先駆けて開設されています。未だに共産主義体制を維持している中国にあって、主食穀物の先物市場が開設されていること自体が驚きの事実でもあるのですが、このままでは、アジアの米市場の価格形成において、中国に主導権を握られてしまうとする危機感から、先物取引推進論が唱えられているのです。

 しかしながら、この見解は、日本産米の輸出入を前提としたものです。国際指標価格とは、当該作物が貿易商品であってこそ意味があるからです。そして、仮に、この説が正しければ、大阪堂島商品取引所の米先物取引の再開には、日本国政府による‘日本米の輸出作物化計画’が隠されていたことにもなりましょう。

 現実には、中国は、お米の生産量も消費量も世界第一位です。2015年前後の生産量が凡そ1億4,450万トンであったところ、2021年には、1億4900万トンまで増加しており、近年、増産が続いてきたことを示しています。しかも、日本米と同種のジャポニカ米の生産量が伸びています。その一方で、日本国のお米の生産量は、2024年で凡そ683万トンに過ぎず、中国で生産されたお米の30%がジャポニカ米としても、日中間では、圧倒的に生産量に差があります。この状態で、先物市場を日本国が開設したとしても、国際価格指標の形成でリードする可能性は殆どないに等しいこととなりましょう。

 以上に述べてきましたように、大阪堂島商品取引所での先物取引については、中国対抗論には無理があるように思えます。むしろ、日本国政府が米価の高騰を放置している理由は、グローバリストの意向にも沿った日本国の先物市場の開放であり、かつ、さらなる米輸入への道を開くことにあるのかも知れません。仮に、中国がジャポニカ米の生産量を今後とも増やしてゆくともなりますと(現状でも、中国からのお米が輸入されている・・・)、将来的には、中国からのさらなる輸入拡大をも視野に入れているとも推測されましょう(日本米は中国人富裕層向けに生産?)。

 そして、先物取引に注目しますと、この問題は、お米に限らないことにも気がつかされます。日本国の電力につきましても、上述したシカゴ・マーカンタイル取引所グループに属するニューヨーク・マーカンタイル取引所やドイツのフランクフルトに拠点を置くEUREX傘下の欧州エネルギ-取引所において先物市場が開設されているのですから。日本国内にも、電力の先物取引所として東京商品取引所が開設されていますが、電力自由化によって電力価格が下がるどころか、今日、上昇を続けている一因も、内外の先物取引市場の開設あるのかもしれません。しかも、近年、米欧では取引所のM&Aが活発化し、大手への集中が進んでいますので、大阪堂島商品取引所や東京商品取引所自体が欧米系に買収される未来も想定される事態なのではないかと思うのです。

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相互主義関税は保護主義の相互承認への道?

2025年02月14日 12時07分31秒 | 国際経済
 江戸時代も末期となる1858年、徳川幕府は「安政五カ国条約」を結び、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリスそしてフランスとの間の通商を開始します。これらの条約によって輸出入に関する関税も定められたのですが、その内容が不平等であったため、その後、条約改正が明治政府の重大なる政治課題となったことは、教科書の記述等でもよく知られるところです。関税自主権の回復は、1905年の日露戦争での勝利を待たねばならず、日本国の悲願の達成には凡そ半世紀を要したことになります。

 輸出関税率を5%、輸入関税率を20%とする「安政五カ国条約」で定められた関税率は、アロー号事件後に清国と間で締結された天津条約における輸入関税率が輸出関税率と等しく5%であったことを踏まえますと、自国産業の保護という意味においては、確かに「安政五カ国条約」の方が有利であったかも知れません。また、低率の輸出関税率が、日本製品の海外輸出を後押ししたことも確かなのでしょう。しかしながら、喩え日本国側に有利な側面があったとしても、この時、日本国側が強く意識したのが、独立国家としての主権の確立であったことは疑いようもありません。西欧列強の砲艦外交の結果として締結された条約でしたので、日本国にとりましては、半ば‘強制された’条約であったからです。今日の「条約法条約」第52条では、‘武力による威嚇、または、武力の行使による国に対する強制は、条約の無効事由となりますので、日本国側の不服は当然の反応とも言えましょう。日本国の近代史を振り返りましても、関税に関する権限、すなわち、通商に関する政策権限が、現代人が想像する以上に重大問題であったことが分かります。

 さて、前置きが長くなりましたが、第二次世界大戦が、ブロック経済、すなわち、列強による経済圏の‘囲い込み’を要因として発生したとする共通認識から、戦後は、アメリカを中心とした自由貿易体制が構築されることになります。この流れの中で、自由貿易主義=正義とするイメージが浸透し、完全なる関税の撤廃こそ世界の諸国が共に目指すべき究極の目的地とされたのです。かくして、関税を設けること、即ち、保護主義が、あたかも悪事のような後ろめたさや罪悪感を抱かせる程まで、自由貿易主義は‘絶対善’の地位を得てしまうのです。今日の自由貿易体制、延いてはグローバリズムの出発点が第二次世界大戦にあったとしますと、GATTの枠組みにおける交渉ラウンドを経たとはいえ、各国の市場開放にはやはり武力が用いられたとする見方も成り立つようにも思えます。

 しかしながら、誰かを護る、あるいは、何かを保護するという役割を考えた場合、それを‘壁’や‘囲い’を設けることなくできるのでしょうか。自然界でも、放置すれば外来種が在来種を駆逐してしまうケースは珍しくはありません。勢力圏の囲い込みが世界大戦を招いたとする説に一理があったとしても、関税壁そのものを否定するのは、‘羮に懲りて膾を吹く’という諺どおりの過剰反応のように思えます。そもそも、各国が独立的な‘関税自主権’を有していれば、自国の産業構成や生産量等に鑑みて、自由に貿易相手国を選ぶことができるのですから、ブロック化は起きるはずもないのです。この側面からしますと、EUであれ、CPTPPであれ、RCEPであれ、今日、さらなる自由化を目指して世界各地で誕生している地域的経済枠組みの方が、余程、ブロック化の要素が強いとも言えましょう(多角貿易の阻害要因に・・・)。

 今般、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、相互関税の方針の下で関税を復活させております。その具体的な内容についての詳細は不明なものの、今後、アメリカは、自国の関税率と同率の関税を相手国に課すという相互主義を、通商の原則に据えたものと推測されます。この方針は、貿易相手国によって関税率を変えることを意味しており、関税の完全撤廃という、戦後に敷かれた‘一本道’からの離脱を示したことにもなりましょう。

 関税の復活については、自由貿易主義やグローバリズムの流れに反するとする批判もありますが、アメリカの方針転換は、他の諸国にとりまして決して悲劇ではないように思えます。例えば、日本国につきましても、相互主義に基づけば、中国等からの安価な輸入品の一方的な流入を防ぐことができるようになります。現状は、中国側が、自らの都合に合わせて一方的に高い関税を設定する一方で、日本国政府は、グローバリズム原理主義の下でさらなる市場開放を進めているからです。相互主義への転換は、全世界の諸国にとりまして保護主義の相互容認への第一歩であり、やがては各国共に自国の産業を護りながら、相手国にも恩恵となる最適な通商網を選択的に世界大に構築する道を開くことになるのではないかと思うのです。

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グローバリズムの正体は世界戦略では

2025年02月13日 11時32分09秒 | 国際経済
 グローバリストの最終目的が‘もの’、‘サービス’、‘マネー’、‘人’、‘知的財産’、‘情報’の世界大かつ全面的な自由移動であるとすれば、その行く末は、グローバリストが最適と見なした形での国際分業の成立とその固定化であることは、容易に予測されます。そして、自由移動こそが、政治分野における征服や異民族支配に伴う一側面であったことを思い起こしますと、グローバリズムとは、経済理論でも、思想や宗教でもなく、その本質において‘世界戦略’であった可能性が高まってくるのです。

 経済学にあって、グローバリズムが全人類にもたらす効用や恩恵を論理的に説明する理論が登場せず、行き詰まってしまった理由も、それが不可能な命題であったからなのでしょう。国境の消滅とそれに伴う全ての生産要素の自由移動の帰結が、全ての諸国の経済成長であり、全ての人々の生活レベルの向上であると断言することには、誰もが躊躇するはずです。逸早く市場統合を試みたEUでも、当初に予測されていた高い経済効果が全ての加盟国にもたらされた訳ではありませんでした。ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクといったかつての‘西側先進国’は、低成長と経済停滞に悩まされていますし(マイナス成長を記録した年もある)、加盟当初は投資に沸いた中東欧諸国でも、今ではマイナス成長が目立ってきています。その一方で、企業レベルでは、インフラ分野を含めて規模に優るドイツ企業の‘一人勝ち’が指摘されており、欧州市場やユーロ誕生の際の浮かれたような熱気は今では嘘のようなのです。現実が証明しているのですから、グローバリズムにつきましても、経済的な繁栄を描く理論や理論を提起しても、自ずと説得力が乏しくなるのです。

 かくしてグローバリズムの理論武装の路線は半ば放棄された状況に至ったのですが、それに代わって頻繁に用いられるようになったのが、プロパガンダやイデオロギー化で合ったように思えます。理屈では説明を付けられない、あるいは、論理的帰結を誤魔化したい場合、イメージ操作や洗脳という手段がしばしば使われるものです。グローバリズムも、人類の理想郷としての根拠のないイメージが拡散されるようになるのです。例えば、今日、マスメディアや経済空間では、DX、GX、再生エネ、AI、メタバースといった近未来テクノロジーの言葉が飛び交い、日本国政府もファンタジーのようなムーショット計画を打ち上げています。グローバリストの本山とも言える世界経済フォーラムが描く未来像もこの一種であり、臆面もなく‘グレート・リセット’の名の下で‘グローバル・ガバナンス’のヴィジョンが公開されているのです。グローバリズムはあたかも新興宗教のようでもあり、多くの人々が洗脳されているかのようです。

 しかしながら、グローバリズムとは、元よりグローバリストの世界戦略であったとすれば、以上に述べてきた奇妙な現象も説明が付きます。‘グローバリズムは金融財閥でもあり、膨大な利権とマネー・パワーを握る極少数の私人達による世界戦略である’とする仮定の下で経済現象を分析すれば、経済学にあってもより合理的に現実を説明できたことでしょう。陰謀論として同仮定をはじめから排除しているからこそ、出口のない迷路にはまってしまっているようにも見えるのです。

 それでは、人類は、グローバリズムの罠から逃れることが出来るのでしょうか。少なくとも今日の日本国の政治家やマスメディアを見ておりますと、あたかもグローバリストの‘僕’のようです。その一方で、グローバリズムの行く先が、中間層の消滅を経て貧富の格差の拡大し、最終局面では経済面における‘世界分業体制’であるとしますと、AIの普及促進も、中間層の消滅という意味において最終段階に差し掛かってきている証であるのかもしれません。しかしながら、現時点にあっては、既に引き返しのできない段階に達しているとも思えません。グローバリズムは‘世界戦略’である、とする認識が人々の間に広がれば、やがて洗脳も解けてゆくことでしょう。

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グローバリズムの格差拡大メカニズムとは

2025年02月12日 13時38分03秒 | 国際経済
 1980年代後半以降、米ソ冷戦時代の終焉をもってグローバリズムが全世界に広がることとなります。とりわけ、2002年に中国がWTOに加盟すると世界経済の状況は一変し、同国が、経済大国として躍り出ることにもなりました。この流れに平行するように、経済格差の広がりも顕著となり、かつての先進国でも中間層の崩壊に伴う貧困の増加が深刻な問題として持ち上がることにもなったのです。結局、グローバリズムが国家間の貿易において相互に利益をもたらし、全ての人々の生活を豊かにするとする宣伝文句とは逆の方向へと向かったことになります。それでは、何故、グローバリズムは‘嘘つき’となってしまったのでしょうか。

 その理由は、昨日の記事でも指摘したように、国境を越えた生産要素の自由移動が、経済学において自由貿易主義者が主張してきた比較優位による互恵的な国際分業の根拠を崩壊させると共に、現実においても、堰きを外すと水が高きから低きに流れるが如く、あらゆる領域にあって最適な箇所への集中が起きてしまったからなのでしょう。ヘクシャー・オーリンモデルでは、資本が潤沢な国での知識集約型、労働力が豊富な国での労働集約型の産業への特化による国際分業が説明されていますが、国境の壁が消失しますと、資本の自由移動により労働力の豊富な国における知識集約型の製品の製造が可能となります。つまり、資本も労働力も特定の国に集中してしまうのです。言い換えますと、自由貿易論は、その前提が崩れることにより、皮肉なことに、グローバリズムにおける格差拡大の必然性を説明しているとも言えましょう。

 技術レベルが国際競争力の源泉となる現在では、資本のみならず、製造拠点の移転と共に先端的なテクノロジーや情報も特定の国に集まります。中国が短期間で世界第二位の経済大国まで成長したのも、豊富、かつ、安価な労働力という国際競争上の有利な条件に加え、外部から国境を越えて資本やテクノロジーが集中的に流入したからに他なりません。その一方で、日本国は、勤勉な国民性に支えられた製造拠点としての優位性を失うと共に、テクノロジーの多くも中国に移転されたのですから、産業が衰退するのも当然の成り行きであったとも言えましょう。しかも、アメリカの場合、安価な移民労働力も流入してくるのですから、一般国民の所得水準が低下し、中間層の崩壊が他の先進工業国よりも早くに訪れたことになります。そして日本国も、今や移民労働力の大量流入により、アメリカと同じ轍を踏もうとしているように見えるのです。

 もっとも、貧富の差が開き続けているアメリカがそれでもなお、日本国にはない経済的なアドバンテージあるとしますと、国際決済通貨としての米ドルの強みやIT大手をはじめとしたデジタル分野での優位性などを挙げることが出来ましょう。そして、さらにグローバル時代の強者と言えるのが、グローバリストの母体とも言える金融勢力なのではないでしょうか。上部あるいは外部の視点から全体を見渡し、最も利益率の高い最適な投資、否、国際分業のパターンを見出す位置にあるからです。近年、しばしば経営のスローガンとされる‘選択と集中’とは、実のところは、対象となる産業分野であれ、事業であれ、国であれ、金融グローバリストの戦略なのです。しかも、資本ほど‘逃げ足の速い’要素もありません。焼き畑農業の如くに、賃金水準の上昇等により利益率が下がれば、他の国や地域に逸早く投資先を変えてしまうのです。

 経済学者の多くは、資本の自由移動についてその調整力に期待する向きがありますが(資本の相互融通により不足と過剰を平準化する・・・)、高い利益率が期待できる国や地域のみが‘選択’され、投資がこれらの国や地域にのみ‘集中’してしまうのが現実なのではないでしょうか。しかも、集中的な投資先となった諸国も巨額の負債を負う一方で、債権者となった金融勢力は、これらの諸国に対して自らの利益増進に貢献するように、さらなる市場開放や規制緩和等を求めつつ(政治家もマネー・パワーで籠絡・・・)、利権の獲得、利払いや配当金等によってさらにマネー・パワーを強大化してゆくのです(格差拡大のメカニズム・・・)。

 結局、グローバリズムとは、何れの国にとりましても、金融グローバリストに選ばれなければ経済発展を望むことができない、過酷な環境に身を置くことを意味します。そして、‘選ばれる’ために払われる犠牲も多大であり、屈服をも強いられかねないのです。以上に述べたように、グローバリズムを特定の勢力の利権集団のための世界大の仕組みとして捉えますと、人類は、この枠組みからの離脱こそ目指すべきと言えましょう。この意味において、日本国を含む各国共に、中間層の貧困化を防ぐためにも、自国経済の発展を基礎とした自立的な経済成長をめざし、速やかに方向転換を図るべきではないかと思うのです。

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自由貿易論の限界とグローバル理論の不在

2025年02月11日 11時34分01秒 | 国際経済
 自由貿易主義の非現実性は、垂直であれ、水平であれ、自由競争の結果とされる国際分業なるものが、全ての諸国にとりまして満足するとは限らないという事実をもって容易に理解されます。しかも、 ‘最も効率的な国際分業’である以上、たとえ自国が担うことになった‘役目’に不服があったとしても、半ば永遠に固定化されてしまうかもしれません。ITやAIなど先端技術の分野にあって圧倒的にテクノロジーの差が生じてしまっている今日では、過去の時代よりも遥かにキャッチアップが難しい時代でもあるからです。否、キャッチアップが可能な国は、中国やインドと言った人口並びに資源に恵まれた大国に限られているのが現実とも言えましょう。グローバル時代には、‘規模の経済’が優位要因として極めて強く働くからです。

 比較優位説に基づく自由貿易体制における分業については、ヘクシャー・オーリンモデルというものがあり、資本が潤沢な国と労働力が豊富な国との間の分業をモデル化しています。前者では、知識集約型の製品が製造輸出され、後者では、労働集約型の製品が製造輸出されると説明されます。この理論は戦前に唱えられたものですが、逆説的には、供給される生産要素の違いであれ、何であれ、国によって輸出製品に価値の差が生じることを認めているとも言えます。もちろん、前者の価値、すなわち、単価の価格は前者が遥かに高くなるのですが、このことは、比較的に価値の低い後者を製造する国は、前者が製造する最先端の高付加価値の商品を輸入することができないことを意味します。つまり、輸出品において価値に差がある場合には互恵関係が成立しないのです。植民地主義も、アジア・アフリカ諸国が商品作物の生産に特化する一方で、欧米諸国が工業製品の生産を担ったとすれば、国際分業として是認されてしまいます。

 輸出製品の価値差は、これらの理論に頼らなくとも、途上国の経済成長が遅れがちである現実を説明しています。途上国は、輸入に際しての決済(支払い)に必要となる外貨を十分に入手することができないからです。そして、この側面こそ、外国為替を無視したリカードの比較優位説の弱点でもあります。通貨においても国による価値差が存在する場合、価値の低い製品を輸出している国が外国からより価値の高い先端的な製品を輸入しようとすれば、決済通貨が外貨であれば、自国通貨を売って決済通貨(外貨)を買わなければならないのです。となりますと、輸入が増えるほどに自国通貨売りによる為替相場の通貨安が生じ、ますます国内における輸入品の価格が上昇すると共に、互恵関係から遠のいてゆくのです。

 もっとも、為替相場の下落については、輸出には通貨安が有利なため、輸入量の減少と輸出量の増加によって自動的に調整されるとする説もあります(逆に、通貨高の国は輸入が増加し輸出が減少・・・)。しかしながら、この調整力は、国際分業が成立し、かつ、輸出品の価値に差がある場合には、効果が限定されてしまいます。低価格の商品の輸出量が増えたとしても、そこで獲得される外貨は微々たるものだからです。しかも、リカードは、貿易に際して要する決済通貨についても、全く関心を払っていません。第二次世界大戦末期にあってIMFが設立され、兌換通貨としての米ドルを事実上の国際基軸通貨とするブレトンウッズ体制が構築されたのは、貿易決済の円滑化であったのですから、経済学者がまず先に関心を寄せるべきは国際決済通貨であったにも拘わらず・・・。

 因みに、ヘクシャー・オーリンモデルの発案者であるエリ・ヘクシャーは、スウェーデン国籍ではあるものの、リカードと同じくユダヤ系の経済学者でした(ベルティル・オリーンはその弟子・・・)。ヘクシャーもまた、一国の国益に囚われないグローバルな視点の持ち主であったことは想像に難くありません。国際分業とは、あらゆる国を自由貿易体制に組み込むこと、即ち、世界、否、全世界の諸国に関税を撤廃させることによって実現するからです。国際分業の観点からすれば、今日の日本国に期待されている役割は、日本国政府の政策方針を見る限り、富裕者向けの農産物や水産物の生産、並びに、観光であるようにも思えてきます。

 以上に、自由貿易理論の非現実性を概観してきましたが、そもそも、自然科学における理論が、一つの例外事例をもって崩壊してしまうにも拘わらず、経済理論の多くが、非現実的な条件を付していることには大いに疑問があります。例えば、ヘクシャー・オーリンモデルでは、生産要素は地域間では移動しない、としていますが、現実には、資本であれ、労働力であれ、国家間を移動するからです。そして、この生産要素の国境を越えた移動自由化こそ、自由貿易主義とグローバリズムとの違いを意味します。前者は、あくまでも、現在の国家間の貿易を前提としている一方で、後者は、未来における国境なき世界市場の出現を想定しているからです。

 実のところ、ここから先にあって、グローバリズムを肯定的に擁護する理論が現れず、移動の自由化をもって破綻してしまう自由貿易論がなおも持ち出されるのは、その論理的な帰結が一般の人類にとりましてはディストピアであるからなのではないでしょうか(つづく)。

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関税壁の復活は内需復活へのチャンスでは?

2025年02月10日 10時24分10秒 | 国際経済
 国内政治にありましては、弱い立場の人々を扶けることは、政府の役割の一つとしされています。このため、所得や収入が低いといった恵まれない立場にある人や世帯に対しては、税を軽減したり、特別に支援金や手当を支給すると言った措置がとられています。所得レベルに比例して税率を上げてゆく累進課税も、弱者に配慮した制度と言えましょう。経済政策の分野でも、大企業と中小企業とは区別されており、一律に同一条件で法を適用するのではなく、後者に対しては条件を緩和するといった措置がとられることも珍しくはありません。こうした政策の根底には、全てのメンバーの生活を維持し、豊かさをもたらすという、公権力の存在意義があるからなのでしょう。

 それでは、今日の自由貿易主義やグローバリズムはどうでしょうか。今日に至るまで、これらの自由主義思想の基礎的な理論は、リカードが唱えた比較優位説に求められてきました。ところが、この説に従えば、競争力において劣位する‘弱者’は、当然に淘汰されることになります。否、完全に淘汰しなければ、最適で理想的な国際レベルでの分業も資源の効率的配分も成立しないのですから、劣位産業を潰すことは当然に通過すべき‘プロセス’となるのです。

 そして、このリカードの視点において注目すべきことは、貿易を行なう双方国における淘汰を肯定的に認め、特定の国家の立場や利益に立脚しているわけではない点です。あるいは、客観性や中立性を装いながら、その実、当時自由貿易主義で最も利益を得たイギリス、もしくは、同国に内在化したユダヤ勢力に貿易利益がもたらされる体制を理論武装しようとしたとも言えましょう。何れにしましても、国家を主体とした二国間の貿易を論じているように見せながら(従来の一般的な見解)、リカードは、上部あるいは外部から国際経済を捉えようとしていたことになりましょう。

 さて、自由貿易主義やグローバリズムの方法論はいたってシンプルであり、それは、国境を越えてあらゆる要素を自由に移動させることにあります。障壁となる国境が消滅すれば、広域的な競争が始まり、自動的に規模や技術に劣る側が中小国の産業やより規模の小さな企業が淘汰されてしまうからです。現実には、人口、国土の面積、地理的条件、気候、国家機構、技術レベル、教育レベルなど、様々な面において国家間には格差がありますので、この状態で自由競争を強いますと、柵を外して羊さんとオオカミを同じフィールドで闘わせるようなもので、‘弱肉強食’となるのです。保護壁として国境が消滅すれば、より規模が大きくよりテクノロジーにおいて先進的な諸国のみが勝ち残るのは目に見えているのです。もちろん、敗者に対するフォローはありません。上述したように、国内政治では、規律ある自由主義経済を基調としつつも、それでも経済的に弱い立場の人々が生じた場合には、上述したように公的な支援を行なうものなのですが、グローバリズムにはそれもないのです(あるいは、淘汰された側の国に弱者救済の責任や負担を押しつける・・・)。

 リカード並びにその後継者たるグローバリスト達に淘汰に対する罪悪感が全くないのも、国家の利益やその国の国民生活は、全く視野に入っていないからなのでしょう。そして、今日、グローバリストや新自由主義者達が日米をはじめ多くの諸国から批判に晒されているのも、その冷酷なまでの淘汰容認にありましょう。淘汰とは、社会一般ではこの世からの追放を意味しますので、道徳観や倫理観を持ち合わせていないサイコバスにしか見えないのです。‘世界レベルで最適の分業体制が成立するのだから、何が悪い’ということなのでしょう(しかも、同体制においては利益の殆どは永続的にブローバリストに集中する・・・)。

 アメリカではドナルド・トランプ大統領が関税を復活させ、アメリカ産業を護る方針を打ち出しています。日本国内では、メディアを中心に自由貿易主義に反するとして反対の声で溢れていますが、むしろ、関税の復活とは、経済面においても、政府が保護的な役割を取り戻すことによる‘正常化’を意味するように思えます。日本国政府も国民も、‘関税壁のある時代’の到来を危機とは見なさず、農業を含めた自国産業の復活に努め、新たなる内需型経済を構築するチャンスとすべきではないかと思うのです。

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グローバリズムは‘デジタル帝国’をもたらす

2025年01月16日 12時11分18秒 | 国際経済
 グローバリズムとは、‘規模の経済’が絶対的な優位性を与えますので、規模の如何が企業間並びに国家間競争に多大なる影響を与えます。その一方で、もう一つ、グローバリズムにあって圧倒的な優位性を約束するのがテクノロジーです。テクノロジーにあって他に先んじる企業は、国境を越えて易々と自らのシェアを拡大してゆきますので、規模とテクノロジーの両者は車の両輪のような働きをするのです。このテクノロジーに注目しますと、今日のコンピュータを含む情報処理・通信産業の発展は、グローバル時代における経済植民地化に拍車をかけたとしか言いようがありません。

 第一に、上述したように、テクノロジーが競争上の優位性を約束する要因ですので、これは、高度で先端的なテクノロジーを有する国や企業にしか、同産業に参入するチャンスが殆どないことを意味します。今日のIT大手の顔ぶれを見れば一目瞭然であり、その大半は、アメリカ並びに国策として同国の技術を積極的に導入し、短期間でキャッチアップに成功した中国の企業で占められています。先進国企業とされる日本企業の場合、テクノロジーのレベルでは然程の大差はないかもしれませんが、規模の要件を欠きますので、米中企業の後塵を拝せざるを得ないのです。

 第二に、情報処理・通信分野、すなわちIT産業にあっては、OSの提供であれ、検索サービスであれ、SNSであれ、サービスの提供に際してユーザーとの永続的な契約関係や広範囲のプラットフォームの構築を伴います。言い換えますと、特定企業によるユーザーの‘囲い込み’を伴うのです。このため、一端、ユーザーとして組み込まれますと、不可能ではないにせよ、他社への乗り換えには手間やコストがかかります。つまり、インフラ事業の一種ともなるITサービス事業には、‘先手必勝的’な側面があり、後から同産業に参入しようとする企業は、競争上、常に不利な立場から出発しなければならないのです。このため、先に自らの製品の普及やプラットフォームの構築に成功した事業者は、長期的に収益を確保できるのです。しかも国境を越えて、他国の人々の個人情報をも飲み込みながら。

 もっとも、今日では競争法があるのだから、IT大手による独占や寡占は規制されるのではないか、とする反論もありましょう。実際に日本国の公正取引委員会をはじめとする各国の競争当局は、IT大手に対する規制の強化に動いています。しかしながら、デジタル技術を基盤とするIT産業は、農業、商業、工業といった既存の産業ではなく、人類史にあって全く新しい産業分野として20世紀に登場しています。このことは、同産業では、既存の競争相手が存在しない状態で起業が行なわれたことを意味しますので、スタート時点においては凡そ独占状態が否が応でも出現してしまうのです。事業の新規性に鑑みて、アメリカの連邦最高裁判所も、同事業分野についてはIT大手に対して好意的な判決を下す傾向にあります。第三の経済支配加速化原因は、更地の上に新たな事業を広げ、ネットワークをも独自に構築できる‘自由自在さ’にあります。そしてこれも、国境を越えて広がってゆくのです。

 また、企業買収を許す今日の経済システムでは、たとえ先進国であれ、途上国であれ、小規模ながらも独自技術を開発したスタートアップが設立されても、マネー・パワーによってIT大手に買い取られてしまいます。企業としての独立性を保つことは難しく、何時、大手に飲み込まれてもおかしくはないのです。

 これらの要因が重なりますと、領域支配を伴わないとしても、IT大手は、あたかも‘仮想帝国’のような様相を呈することとなります。全世界の人々をユーザーとして囲い込む、あるいは、自らのプラットフォームに取り込むことで、永続的に収益を吸い上げることができるのですから。植民地時代にあって、宗主国が植民地の課税権等を掌握したのと、然して変わりはないようい思えます。しかも、サービスの内容や使用料金、あるいは、製品の価格や品質を決める決定権は、IT大手側にありますので、ユーザーは一方的に‘支配される側’となるのです。OSを例にとれば、企業側の一方的なモデル更新や仕様の変更により、過去のデータさえ読み出せなくなる事態に直面するかも知れないのですから、ユーザーの不利益は計り知れません。

 かくして登場したIT大手、あるいは、グローバリスト連合が、その絶大なるマネー・パワーをもってグローバルレベルでデジタル化をさらに推し進め、人類に未来ヴィジョンを押しつけ、挙げ句の果てに、ワクチン事業等をもって‘現地住民’に対する生殺与奪の権まで握ろうとするのであれば、これは、かつての植民地時代よりも専制的で冷酷な支配となりましょう。グローバリズムについては、その負の実態から目を背けることなく、人類は、より安全な別の道を模索すべきではないかと思うのです(つづく)。


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